益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

都茂鉱山

比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』

鉱山の神様を祭る神社「佐毘売山神社」


益田市美都町の都茂鉱山。そして鉱山の神様・守り神である金山彦命を祭る神社「佐毘売山神社」。

「佐毘売山神社」は益田市の比礼振山(権現山ともいいます、標高358.6m)の麓(ふもと)にあります。

益田市の佐毘売山神社(今年2009年の正月に撮影)

(2009年1月1日に撮影)
比礼振山(権現山…ごんげんさん)の山頂には蔵王権現もあります。(昨年2008年年末ごろ撮影)

比礼振山山頂の蔵王権現(昨年2008年年末ごろ撮影)


益田市の民話『大蛇のあと』


今回の「比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』」から分かったことですが。
どうやら比礼振山(権現山)付近には都茂鉱山で採掘された「鉱石」を運搬する道路があったようです。

「比礼振山(権現山)」と「都茂鉱山」の2つのキーワードが「大蛇のあと」という益田市地元の民話の中で語られている事を発見しました。

「大蛇のあと」

 むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から鉱石を馬で運ぶ往かん還(還は「道」では?)じゃった。

 ある日、益田で用事を済ませた人が、権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな岩の上で一休みしんさった。その時、長さは十二尺(約三、六メートル)、直径は一尺(約三十センチ)ぐらいの大蛇が出てきた。そのあまりの大きさに身震いがして動きがとれんようになった。蛇は煙草が嫌いなのを思い出して、そっと煙草に火をつけ吸いはじめた。そうしよったら大蛇が向きを変えて逃げ去ったというんじゃあ。


 わしも若いころ、わらびを取りに行って、大蛇が這うたように草がなびいているのを見てたまげたことがある。


語り手 城市良吉(乙子)    
「益田の民話(ますだのみんわ)」(益田の文化を育てる会)より引用
>>http://www.group.iwami.or.jp/bfn/masudanominwa/index.htm

ここで、「むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から「鉱石」を馬で運ぶ「道(還は道であろう)」…に関して疑問が湧きます。

(益田市美都町には)銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡(おおとしのもといせき)』があったはずで、「銅」の精錬技術は保有していたはずです。…地元(の精錬所)ではなく、一体どこの精錬所に運んでいたのでしょうか?


因みに銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡』に関しては、島根県埋蔵文化財調査センター編集部による「ドキ土器まいぶん」No.18 2002年7月発行にわかりやすい記事がありました。


発見!銅の精錬工房?

 美都町は古代から銅山開発によって繁栄したと伝えられています。美都町山本地区にある大年ノ元遺跡では、中世の掘立柱建物跡や中世期には珍しい竪穴状の建物跡が4棟見つかりました。

 竪穴状の建物跡の内部や周辺から焼土(地面が焼けた跡)や銅鉱石を溶かすための器(坩堝)片や銅の精錬工程において生じるからみ(不純物の塊)、白磁(中国製の磁器)片、土師質土器片などが見つかりました。これらの建物跡は15世紀頃(室町時代)の銅の精錬工房跡、または銅精錬に何らかの関わりにある施設と思われます。

 遺跡は、9世紀に書かれた「続日本後記」に記載されている丸山銅山から北約5km のところにあります。 この周辺は当時、中世益田氏の支配下にあり、江戸時代には幕府の直轄領でもありました。銅山の歴史、銅の精錬技術などを知る重要な手がかりになりそうです

「ドキ土器まいぶん No.18 2002年7月発行 編集・発行 島根県埋蔵文化財調査センター編集部」より引用



想像を膨らませると…もしかしたら「銀」鉱石があったのかもしれませんね!?(当時は「銀」の製錬技術はなかったはずですし)…


(この益田市の民話「大蛇のあと」がいつごろの話なのかは不明なので想像はこの辺で…)


「権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな「岩」の上で…」
この「巨岩」は何処の岩の事なのか…存在が気になりますネ

丸山銅山跡と旧安養寺跡、山烏行淵と坂ノ上寔護(益田市 美都町)

前回、益田市美都町の丸山銅山跡で「旧安養寺跡」の様子をお伝えしました。
下の画像をみてもお分かりのように、まるでジャングルの中の古代文明の遺跡のようです。

旧安養寺 遺跡 益田市美都町


丸山銅山が「発見」されたのは平安時代の881年。
日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条に記述されているということでした。


では、一体
①丸山銅山は誰が最初に「発見」したのか?
②旧安養寺が建てられた経緯は?
…そんな素朴な疑問を持っていました。
丸山銅山、旧安養寺に関する2つの疑問の答えは意外にも『益田市誌(昭和50年12月20日発行)』で見つかりました。


益田市誌 上巻の319ページ
第四章 平安時代 
第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
より
「一 都茂丸山銅山の発見」に丸山銅山の発見と旧安養寺が建てられた経緯の記述がありました。

①丸山銅山は誰が最初に発見したのか?についてですが、この益田市誌によると、

旧記から考えてみると、この銅山の最初の発見者は、隋の煬帝(ようだい)の末裔、散位永岑の弟に当たる山烏行淵であった。彼は僧空海の弟子で、諸国遍歴の途上に石見を行脚し、丸山の地に銅鉱を発見したのである。これを兄永岑を通じ、朝廷に奏上した。
そして真髪部安雄が石見に赴く際、行淵は鉱務を掌るよう命じられた。
(益田市誌 上巻 319~320ページ)

山烏行淵という人物が発見者のようです。
この山烏行淵という人物、隋の煬帝の末裔…空海の弟子…なんか凄そうな感じが。
一体、当時、こんな山奥で、どのような手法(ノウハウ)をもって鉱山を発見できたのか…不思議ですよネ。


②旧安養寺が建てられた経緯について
旧安養寺については『益田市誌 上巻』320ページに、ズバリ!「安養寺の移転」で記述されていました。
もともとは、益田市の遠田地区(上遠田)にあったようです。

『益田市誌』の上巻の320~321ページによると

安養寺の移転
丸山に移住した寔護は、郷里の菩提寺である安養寺が、遠くて参詣に不便であること、また同寺を繁栄させたいとの理由から、元慶元年(877年)山烏行淵に託して、同寺を上遠田から丸山へ移した。

当初は正福寺と寺名を改め、真言宗の末寺となった。そして行淵を住僧とし、寔護自身は大檀那となって保護を加えた。そこで行淵は鉱務を子の尚峯に譲り、寺の興隆に努めさせた。

正福寺は後年、元の安養寺に改められた。(中略)今日上遠田にある安養寺の地名を残すところがその址である。丸山大金に移転後の安養寺は、行淵の後、朝旨を受けて鉱務を掌った山烏尚峯が、住僧として後を継いだ。

益田市誌(昭和50年12月20日発行)上巻
第四章 平安時代 第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
二 坂ノ上寔護の丸山赴任 安養寺の移転より引用

【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)


丸山銅山跡(旧安養寺跡)の現在の光景(益田市美都町)

県道314号線の丸山銅山跡入口の標識から歩くこと約10分。

当時は、道はぬかるんで、足もとが悪く、しかも、道は殆ど篠竹が覆いかぶさり前方がよく見えない。
かなり我慢が必要でしたが・・・そんな苦労の甲斐があって…こんな場所に辿りつきました。

丸山銅山跡 旧安養寺跡 益田市美都町


画像の下方に相当古そうな石垣があるのがわかりますか?

よくみると、

旧安養寺跡 案内


旧安養寺跡」と!(安養寺といえば、美都町山本の見事なしだれ桜があるお寺ですね。)

別の石垣からは太い木がニョキっとはえています。

旧安養寺跡 石垣と木 能登川


ここを流れている小川は能登川(の上流)かと思われます。


日本三代実録』によると丸山銅山が発見されたのは平安時代、元慶五年(881年)。

丸山銅山跡 旧安養寺跡2


かつて、ここにどんな建物があって、どんな人々が暮らしていたのでしょうか?
丸山銅山跡と旧安養寺跡とはどんな関係があるのでしょうか?


実は、丸山銅山の歴史につては、「益田市誌」に関連情報がありました。
次回は「益田市誌」で見つけた「丸山銅山の歴史」に関する内容についてです。


【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)


丸山銅山跡入口…丸山銅山の歴史(益田市 都茂鉱山跡)

益田市美都町の都茂鉱山跡探訪記
前回の昭和時代の「丸山坑入口」から、平安時代の「丸山銅山遺跡」へ。

場所は県道314号線を進み、野々峠を超え、少し下ったところにあります。

目印は、「丸山銅山跡入口」と書かれた杭(くい)看板。

丸山銅山跡入口 益田市


丸山銅山跡入口
この鉱山が発見されたのは平安時代881年ということです…

『※日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条」であるということがわかりました。

出処は、IMES…日本銀行金融研究所における論文(ディスカッション・ペーパー・シリーズ)です。

IMES Discussion Paper Series 2002-J-30

「古代銭貨に関する理化学的研究」「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組成分析(PDF)
>>http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/2002/02-J-30.pdf  齋藤努・高橋照彦・西川裕一

の19ページに記載されています。

参考:日本三代実録とは

日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、901年に成立。六国史の第六にあたる。

清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

さらに、丸山銅山はあの世界遺産の「石見銀山」(島根県大田市)とも歴史的に関係があるようです
※山陰中央新報さんのONLINE NEWSでの特集に

特集・石見銀山 : 石見銀山の営み(4)地の恵み 都茂銅山の技術者採掘か
佐毘売山神社を分霊 益田から祭神と移動 (2008年6月22日)
>>http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=504046180

という興味深い記事がありました。(コンパクトで且つわかりやすい記事です))

(尚、島根県の大田市の石見銀山と益田市の都茂銅山(あわせて、益田市の比礼振山(ひれふりやま)(権現山(ごんげんやま)ともいう)の麓にある佐昆賣山神社)との繋がりについては後日特集します。)


また益田市の美都町には銅精錬所跡となる「大年ノ元遺跡」というものがあるそうです。
「webさんいん」さんのサイトにあった山陰中央新報さんの記事
>>美都で銅精錬工房跡 大年ノ元遺跡 炉壁片や滓出土 中世の鉱山都市の可能性 (2002年5月23日)

(上記記事によると「大年ノ元遺跡」は全国的にも珍しく、貴重な遺跡だということです。)


さあ、いよいよ丸山銅山跡へ!

と思って進んでいたのですが!?…こんな状態でした。

丸山銅山跡への道


軽装では無理そうなので、この日はここまで。今回は丸山銅山の予備知識(知的入口)というの事に…

【補足文献資料】
九州大学総合研究博物館の以下の論文(PDF)
>>蛍光X線分析法の製錬津試料への適用(中西 哲也、吉川 竜太、井澤 英二)
九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No.2,149-156,2004

上記論文は、「九州大学地球上源システム工学部門に設置されている蛍光X線分析装置を使用して、銅鉱石・銅製錬津の分析に適用した際の技術的なポイントについて報告する。」ということが主たる論旨にあたります。
※注目すべきは、適用分析例として山口県の長登銅山と島根県益田市美都町の「都茂丸山銅山」の鉱石・製錬津・炉壁試料に関して紹介されています。


【画像は2009年04月撮影】

都茂鉱山跡探訪:昭和時代の丸山坑入口付近(益田市 都茂鉱山跡)

益田市の産業遺産ともいえそうな、美都町の都茂(つも)鉱山跡の探訪記

今回は、昭和時代の丸山坑の入口」付近までです。

県314道号線の都茂鉱山選鉱場が見える地点から、さらに1km強、上り坂の道路を進むと「手書きの道標」がありました。

都茂鉱山 丸山坑 道標


左の未舗装道路(車は進入できません)をいくと「丸山坑」入口だそうです。
(ちなみに匹見町方面の方向へ行くと「野々峠」となります。)


この道標の上方には…コンベア系の鉱山設備の残骸がありました。

都茂鉱山の丸山坑関連設備 残骸 益田市


上から見ると構造がわかります。三本の太いパイプ状のものが配置されています。どうやらベルトコンベアではないようですネ。

都茂鉱山設備の残骸 益田市


歩くこと数百メートル…これが「昭和時代の丸山坑の入口」です。

都茂鉱山 丸山坑 入口


昭和の全盛期のころは、銅と亜鉛の鉱石や、あの都茂鉱tsumoite:BiTe組成 (ビスマス原子とテルル原子の比が1:1の鉱物))が沢山採掘されたのでしょうネ。

倉庫らしき構築物の中には…奥には、巨大な(青色の)モートルの残骸がありました。

都茂鉱山 丸山抗関連施設 残骸 益田市


偶然ですが、都茂鉱山の当時の「岩石採取標識」を発見しました。(沢に向かって落ちていました)

都茂鉱山の「岩石採取標識」


手書きの標識ですね…事務所名からはじまり…採掘の方法:階段採掘法…業務管理者の名前、等々記載されています。

・都茂鉱(tsumoite)の発見
・全盛期を偲ばせる鉱山施設の残骸群
・手書きの道標や岩石採取標識

都茂鉱山跡には昭和時代の益田市の産業遺産・遺跡的なアイテムがゴロゴロありますネ。


【画像は2009年04月撮影】

都茂鉱山跡 その歴史と今の風景(益田市 美都町山本地区)

益田市の美都町山本地区には、「都茂鉱山跡」という場所があることをご存知ですか?

◆かつての都茂鉱山の特徴
島根県を代表する「スカルン鉱床」(※本ページ最下部に用語説明あり)。
都茂鉱(tsumoite)というビスマス(Bi)テルル(Te)から成る独特の鉱物が世界で初めて発見。
最盛期の1970年ごろには、銅と亜鉛の鉱石を日量600トンを処理。


都茂鉱山は最盛期である近現代史的には、「中外鉱業(株)によって操業。1979年以降、都茂鉱業(株)の経営にかわる。1987年都茂鉱業が操業休止。1988年閉山。」という経緯だそうですが、
当地の史料によると当鉱山内の「丸山鉱床」は「平安時代の836年に、すでに採掘が始まっていた」との事です。

※参照:島根地質百選選定委員会による「山陰・島根ジオサイト 地質百選」:都茂鉱山(益田市美都町山本)より

都茂鉱山(益田市美都町山本)
>>http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/tsumokozan.html


都茂鉱山跡(益田市美都町山本)の画像をいくつかピックアップしておきます。
(県道314号線を「野々峠」に向かって進んで(登って)います。)
◆まずは、旧鉱山事務所入り口付近

中外鉱業株式会社 都茂管理事務所


◆都茂鉱山選鉱場跡(美都町教育委員会による)

都茂鉱山選鉱場跡と「案内杭」(美都町教育委員会)


かつての都茂鉱山選鉱場…直径10数メートル以上はあるかと思われる大型の円形工場設備等が見えます。(少しわかりずらいですが…画像中央の錆びて赤茶けた設備。)

都茂鉱山選鉱場跡


さらに、採掘石を移送させたと思われる「コンベア設備」の一部も残っていました。

都茂鉱山選鉱場 コンベア設備


このコンベア設備、以前はこの県道をまたぐ形で反対側の斜面にも続いていたようです。(道の反対側の斜面(法面)の雑木林の中にもコンベア設備の残骸がありました。)


とても静かな場所に、巨大な鉱山施設の残骸群…。


都茂鉱山の最盛期を知る父によると、
・この鉱山には、当時、多くの優秀な鉱山技術者が勤めていた。
・美都町の「葛篭(つづら)」という地区は鉱山町で(「鉱山宿舎」や小学校(分校)もあった程)多くの人々が暮らしていた。
との事でした。
※参考サイト:島根地質百選選定委員会による「山陰・島根ジオサイト 地質百選」
>>http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/geosite.html
【用語:スカルン鉱床】

スカルン鉱床(すかるんこうしょう、skarn deposit)とは、熱水鉱床の一種である。石灰岩などの大規模な炭酸塩岩帯に花崗岩が貫入した際に伴う熱水により、交代作用が生じ形成される。形成温度が低いため、鉄や銅をはじめ亜鉛や鉛など工業用途として有用な金属を大量に含む鉱石が産することで知られる。
( フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


【画像は2009年04月撮影】