益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

連珠三つ巴瓦紋

益田市の佐毘売山神社(式内社)の「鬼瓦」と「連珠三つ巴瓦紋」

今日(2015年2月1日)は益田市に久しぶりに青空と日差しの恵がありました。
「こんないい日は家にこもっていてはもったいない!」

というわけで、久しぶりになりますが益田市の比礼振山(権現山)に行くことに♪

まずは、佐毘売山神社(式内社)に参拝です。

佐毘売山神社(式内社)益田市20150201s


とてもご無沙汰しています。

益田市の佐毘売山神社(式内社)はとても歴史のある神社です。

今回は、かなりニッチな部分で私のお気に入りの佐毘売山神社の「鬼瓦」の画像です。

佐毘売山神社(式内社)鬼瓦と瓦紋 左巴


パワーありますよね!
あともう一つ気づいてほしいことは、「瓦紋」

「連珠三つ巴瓦紋」です、左巴です!!(一番上の「巴の玉」から延びでる尾の位置が、玉の左側にあると「左巴」、右側にあると「左巴」といいいます。通常、どちらかに統一されています。たまに…益田市の櫛代賀姫神社(式内社)のように、修復の際、混在する場合もありますが…)

「連珠三つ巴瓦紋」専福寺浦番所跡から発掘されたもの、と櫛代賀姫神社でも現存するものと共通してます。

※ご参照>>益田市の沖手遺跡 専福寺浦番所跡と櫛代賀姫神社の「紋瓦」

面白いですね!!


さて、佐毘売山神社の名水「権現霊水」をいただき、佐毘売山神社参拝させていただいた後、

いよいよ比礼振山(権現山)の山頂を目指そうと、振り返って、ふと、益田市の日本海沖をみたところ…!!


なんと!「あの島が見えるではないですか!?」


>>佐毘売山神社から見えた「島」とは…

江戸時代の沖手遺跡「丸瓦」の破片を考察

前回投稿の益田市の沖手遺跡の案内板の中にちょっと気になった画像があったので投稿しておきます。

※参照>>益田市のナフコで『沖手遺跡』の案内板を発見

◆江戸時代の沖手遺跡
沖手遺跡は港湾集落として平安時代末~室町時代(12~16世紀)の約400年間が最盛期とされていますが、江戸時代にも「浦番所」という施設があったことがわかっているようです。

江戸時代の沖手遺跡 益田市

浦番所とは江戸幕府が設置した、海の警備や見張りのための施設だそうです。


4.江戸時代の沖手遺跡」の解説文をみると、ここの浦番所の名称は「専福寺浦番所」と呼ばれるもので、浜田藩による管理下にあったことがわかります。

◆「丸瓦」破片の「三つ巴の紋」が気になった…

で、気になったには下の画像↓右の「丸瓦」…三つ巴の紋わかります。(下の画像でで囲んだ部分です

江戸時代の沖手遺跡 丸瓦 益田市



三つ巴瓦紋はポピュラーなものなのでさほど珍しくはないのですが、この丸瓦の破片には三つ巴を囲むように丸い点々があります。

「この特徴的な点々をもとに、沖手遺跡出土の瓦のかけらについて、もう少し深く探ってみたい…」と興味を持ち、早速、調べてみたら、これらの点々は「連珠」と呼ばれるデザインであることがわかりました。

◆連珠(左)三つ巴瓦紋の謎とき

というわけで、この瓦紋は、連珠(左)三つ巴瓦紋であることがわかりました。
※巴の尻尾が向かって左側がわにあるからそう呼ばれるそうです。

この連珠(左)三つ巴瓦紋デザインは、遺跡としては他にどんな所で発掘されているか調べたところ「連珠三つ巴」瓦紋は東京の飯田町遺跡にある「松平家」の丸瓦に多く見られるものであることがわかりました。

松平家って!?…浜田藩の歴史は、ほとんど松平家系ですよね。連珠(左)三つ巴瓦紋は松平家では伝統的に使われていたようです。

浜田城跡の発掘調査記録の浜田城跡(庭園跡の調査 2)P13~15に遺物の記録があり、P15には「連珠三つ巴」瓦紋が確認できるものがあります。

※参照:浜田城跡(庭園跡の調査 2)
立正佼成会浜田教会新築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
2007年10月 島根県浜田市教育委員会

※「丸瓦のかけら」ひとつからでもいろいろと歴史を学ぶことができますネ♪