今回は「益田兼堯(ますだ かねたか)」の話題。

益田市で益田兼堯といえば、すぐに頭に浮かぶものの一つに「雪舟筆の益田兼堯像」があります。有名ですよね。
雪舟筆 益田兼堯像」は益田市の「市立 雪舟の郷記念館」に収蔵されています。

実は私、未だ鑑賞できていません。
「益田兼堯像」くらい、常時見せてくれてもいいのに…と愚痴のような事を言っていたら、
ある人が「益田兼堯の銅像ならいつでも見れるぞ!」と教えてくれました。

益田兼堯の銅像 アップ 益田市 七尾町


場所は益田市七尾町の妙義寺の(道をはさんで)正面におられました。

益田兼堯の銅像 益田市 七尾町


この益田兼堯像…何処を見つめ何を思っておられるのでしょうか?

正面から見ると台座には益田越中守兼堯公像と記されています。

益田兼堯の銅像 正面


越中守」とはどのような意味を示すのでしょうか?…役職名の類でしょうか…結構調べたんですが未だにスッキリ解明できていません。

また、この像の横には、益田兼堯に関する益田市観光協会による説明文があります。

益田兼堯 説明


内容については改めてページを作る予定です。
今回は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用です。

益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年(1485年))。は、室町時代後期の人物。石見の国人領主益田氏当主で第15代益田城城主。益田兼理の子。益田常兼の弟。益田貞兼、女子(陶弘護妻)の父。越中守

益田兼堯 銅像 遠景永享3年(1431年)、父と兄が大内盛見に従い九州の少弐氏、大友氏と戦い、盛見と共に戦死したため家督を継いだ。以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず幕府とも直接、誼を通じ、それぞれの戦いで着実に戦功を積み勢力を拡大させた。応仁の乱の際は大内氏に従い西軍に属し、文明2年(1470年) 大内教幸(道頓)の反乱の際には、女婿の弘護を支援し石見の有力国人の吉見信頼らを制圧した。その一方で、東軍の細川氏とも通じていたとされる。晩年は子の貞兼に家督を譲って隠居した。

雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像は国の重要文化財に指定されている。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用】

この内容だけからも、「益田兼堯」にはいろいろ興味が湧くものがあります。