岸静江国治の事を調べていたら、偶然、明治時代の扇原関門跡のモノクロ画像に出会いました。
この画像の情報源は益田市誌です。
益田市誌の下巻「政治篇」(P205~)にて
「第一章 明治維新」第一節 長州征伐と石見地方
扇原関門と岸静江(下巻P213~P214)に掲載されていました。

益田市誌(上・下巻)昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市

明治時代の扇原関門画像 益田市誌


明治時代の扇原関址と静江の墓(円内)(明治43年5月15日の石見実業時報から)という画像情報があります。

『明治時代の扇原関址と静江の墓(円内)』…円が確認できないのですが、岸静江国治の墓は当初は扇原関門跡地にあったようですね。
そして、この画像は、旧街道上の向井横田側から撮影したと思われます。

このモノクロ写真を見ると、(現在の薄暗い感じのする扇原関門跡と比べ)随分、全体的に開けて明るい感じです。大きな松らしき樹木も確認できますね。…「ここにかつて関門(関所)があった」という雰囲気があります。

【余談記事:かつて乃木希典陸軍大将が益田の地に!?】
益田市誌(下巻)には、益田戦争における戦死者に関する記述(「征長の役の戦死者」P214)があり、ここで新たな史実を知りました。

長州藩の戦死者の中に乃木三蔵という方がおられたそうです。この方はあの乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将の従兄弟にあたる方だそうです。そして、乃木希典陸軍大将が第三軍司令官として旅順攻撃を指揮した翌々年の明治三十九年には(乃木大将)御自ら益田市の妙義寺山内の従兄弟の三蔵氏の墓を詣でたと…かつて、この益田市の地にかの、乃木希典大将が!!…驚きでした。

乃木三蔵が戦死したのは1886年6月17日。この日は扇原関門での戦い(岸静江国治が戦死した日:1886年6月16日)の翌日です。益田市の萬福寺(益田市東町25-33)での戦闘乃木三蔵は戦死したということです。