平成8年3月に益田市教育委員会によって作成された「柿本神社本殿」の説明板…限られたスペースの中で絶妙に興味をそそるキーワードが散りばめられています。
今回は引き続き、1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報について。
前篇では、益田市高津の「柿本神社」の「起源」についての情報をとりあげました。
⇒益田市の高津「柿本神社」の歴史(前篇:起源編)
今回は後篇なります。まずは当該内容について
その後、近世に入り慶長13年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文11年(1671年)には津和野藩主 亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
高津の柿本神社の歴史のお話は、万寿三年(1026年)から、一気に約600年後!慶長13年(1608年)
(当該地は、現在の柿本神社ではなく現在の益田市、高津浜地区の「松崎」となります。)
※なお、「石見銀山奉行大久保長安によって造営され…」とありますが、正しくは、社殿を「再建」です。
◆大久保長安 奉納銅製六角釣灯籠
江戸幕府の第2代征夷大将軍「徳川秀忠」の命により、石見銀山奉行「大久保長安」によって造営され…島根県が誇る『世界遺産:石見銀山』の大久保長安の登場です。
事実、益田市高津の「柿本神社」の「宝物殿」には「大久保長安 奉納銅製六角釣灯籠」が保管されています。(笠の装飾、羽根状のモノが一枚(正面部)欠損していることがわかります。)
説明書きは
大久保長安 奉納銅製六角釣灯籠
慶長13年(1608年)正月 高さ52cm
初代石見銀山奉行・大久保長安が慶長13年
松崎にあった社殿を再建した際に奉納したもので、火袋に次の銘が刻まれている。
奉寄進石州高津之人丸
慶長拾三年戊申正月吉日 大久保石見守敬白
※「金燈篭(灯籠)」とありますが銅製です。
…それにしても、なぜ、銀山奉行様が「柿本神社」の再建なのか!?(この件については、いずれ解説します。)
以降は現在の高津 柿本神社の創設と津和野藩に関するお話し。
そして、延宝9年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
亀井茲政(これまさ)による現「柿本神社」地への移設について「風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転」…
この記載事項の背景は…江戸時代の元和2年(1616年) 津和野藩主 亀井正矩(かめいまさのり)による「名越(なごし)」の「水刎(みずはね)工事」による新河川の開削があります。
この「新河川」が松崎の地を(基本、砂地なので…)徐々に浸食し、石見銀山奉行「大久保長安」によって再建された「柿本神社」を取り巻く環境を脅かしたのでは?と私は推測しています。
さて、次回は(いよいよ)高津の「柿本神社 本殿」の建造物としての魅力。その解説です。