前回、益田市美都町の丸山銅山跡で「旧安養寺跡」の様子をお伝えしました。
下の画像をみてもお分かりのように、まるでジャングルの中の古代文明の遺跡のようです。

旧安養寺 遺跡 益田市美都町


丸山銅山が「発見」されたのは平安時代の881年。
日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条に記述されているということでした。


では、一体
①丸山銅山は誰が最初に「発見」したのか?
②旧安養寺が建てられた経緯は?
…そんな素朴な疑問を持っていました。
丸山銅山、旧安養寺に関する2つの疑問の答えは意外にも『益田市誌(昭和50年12月20日発行)』で見つかりました。


益田市誌 上巻の319ページ
第四章 平安時代 
第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
より
「一 都茂丸山銅山の発見」に丸山銅山の発見と旧安養寺が建てられた経緯の記述がありました。

①丸山銅山は誰が最初に発見したのか?についてですが、この益田市誌によると、

旧記から考えてみると、この銅山の最初の発見者は、隋の煬帝(ようだい)の末裔、散位永岑の弟に当たる山烏行淵であった。彼は僧空海の弟子で、諸国遍歴の途上に石見を行脚し、丸山の地に銅鉱を発見したのである。これを兄永岑を通じ、朝廷に奏上した。
そして真髪部安雄が石見に赴く際、行淵は鉱務を掌るよう命じられた。
(益田市誌 上巻 319~320ページ)

山烏行淵という人物が発見者のようです。
この山烏行淵という人物、隋の煬帝の末裔…空海の弟子…なんか凄そうな感じが。
一体、当時、こんな山奥で、どのような手法(ノウハウ)をもって鉱山を発見できたのか…不思議ですよネ。


②旧安養寺が建てられた経緯について
旧安養寺については『益田市誌 上巻』320ページに、ズバリ!「安養寺の移転」で記述されていました。
もともとは、益田市の遠田地区(上遠田)にあったようです。

『益田市誌』の上巻の320~321ページによると

安養寺の移転
丸山に移住した寔護は、郷里の菩提寺である安養寺が、遠くて参詣に不便であること、また同寺を繁栄させたいとの理由から、元慶元年(877年)山烏行淵に託して、同寺を上遠田から丸山へ移した。

当初は正福寺と寺名を改め、真言宗の末寺となった。そして行淵を住僧とし、寔護自身は大檀那となって保護を加えた。そこで行淵は鉱務を子の尚峯に譲り、寺の興隆に努めさせた。

正福寺は後年、元の安養寺に改められた。(中略)今日上遠田にある安養寺の地名を残すところがその址である。丸山大金に移転後の安養寺は、行淵の後、朝旨を受けて鉱務を掌った山烏尚峯が、住僧として後を継いだ。

益田市誌(昭和50年12月20日発行)上巻
第四章 平安時代 第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
二 坂ノ上寔護の丸山赴任 安養寺の移転より引用

【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)