益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の歴史

益田市の「風の丘公園」…地図に無い公園を発見

益田市にはYahooやgoogleの地図に載っていない「公園」があることをご存知ですか?

「そりゃ開発行為にともなう、ちっこい公園のことじゃろうや?」と思う人もいるでしょうが、

いえいえ、そんな小さい公園の話をしているのではありません。
実は、「益田十景」にも取り上げられている、「公園」…「風の丘公園」の事なんです。

先日、偶然、こんな看板?を見つけたのです。
風の丘公園と石見空港

心に刻む益田十景 「風の丘公園と石見空港」とあります。
場所は、益田市の高津方面からの「萩・石見空港」への接続道路(たぶん県道)坂道の中腹です。

 私は、益田十景の 「風の丘公園と石見空港」というタイトルについて、以前、石見空港はよしとして(萩・石見空港は石見空港の愛称だから)「風の丘公園」でななく「風の丘広場」であると正した記事を投稿したことがあります。

 ですが、本当に「風の丘公園」は存在したのです。 でも、Yahooやgoogleの地図に載っていない「公園」であることも確かです。

「風の丘公園」…いったい、いつごろ出来たのでしょうか?

現地でフィールドワークしてみたらこんな看板を見つけました。

萩・石見空港 風の丘公園 創立周年記念植樹

「萩・石見空港 風の丘公園 創立20周年記念植樹 贈益田西ロータリークラブ 平成8年1月」と、

平成8年は西暦で1996年ということなのでその20年前となると1976年。

益田市の「石見空港(愛称:萩・石見空港)」の開港が1993年(平成5年)ですから、この「風の丘公園」がつくられたのは、それより17年も前の事になります。

石見空港の歴史を調べてみると…

石見空港は(略)交通の利便性で著しく劣る島根県西部の高速交通網整備を目的として、島根県が1973年(昭和48年)に石見地方に空港を設置する構想を策定、1987年(昭和62年)の設置許可を経て1993年(平成5年)に出雲空港、隠岐空港に続く島根県下3番目の空港として開港した。

ウィキペディア:石見空港より

とありました。「島根県が1973年(昭和48年)に石見地方に空港を設置する構想を策定」とあるので、1976年は、石見空港の建設推進のための象徴?…イベント的につくられたのかもしれませんネ。

今回もまた、「益田十景」について再編集しなければなりません…

というか、益田市の歴史記述…とくに観光目的のそれはかなり「ゆらぎ」が多いようで混乱します。

言いわけですが…益田十景の絵葉書集では「風の丘公園と石見空港」というタイトルで、「澄川 喜一 先生のTO THE SKY」が描かれていましたんです。…「TO THE SKY」がある場所は「風の丘広場」としてYahooやgoogleの地図に載っています。

益田十景 絵葉書 石見空港風の丘公園

上の絵葉書の場所は「風の丘広場」ですよネ!!

そもそも、「益田十景」という言葉が益田市では「死語」なのかもしれません。

益田市内の絵葉書や観光パンフは稚拙なものが無いことを願います。

益田市の「風の丘公園」場所地図

益田市の沖手遺跡 専福寺浦番所跡と櫛代賀姫神社の「紋瓦」

益田市の歴史、風景(画像を)中心に投稿して、思わぬ歴史的発見がありました♪

今回は当サイトの過去記事間での発見!!…といった内容になります。


きっかけは、今日たまたま、私のこのサイトを訪れた方が気にしていた画像。
撮影は、今年の5月、益田市久城町の石見 式内社 櫛代賀姫神社 を参拝した時のものです。

上り藤に久の字 瓦 櫛代賀姫神社 益田市


※参照⇒石見 式内社 櫛代賀姫神社 を拝観 その2(益田市 久城町)

この画像…一体「どんな興味があって、検索してきたんだろうか?」とぼんやり思いつつ眺めていると、
ちょっと気になるモノが目に飛び込んできました。

連珠三つ巴瓦紋


それがコレ!!矢印の先の部分。「瓦紋」… 櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦周辺の画像です。

櫛代賀姫神社 益田市 連珠(右)三つ巴瓦紋


連珠三つ巴瓦紋です。

「えっ!?『連珠三つ巴瓦紋』…てなに?…何かすごい発見なんか?」

ハイ。すごいかどうかは別として(笑)

益田市の歴史・風景をコツコツ取材している、わたくし的には、とても興味深い発見になりました。

では、早速、話をすすめましょう…♪

『沖手遺跡…専福寺浦番所跡』での出土品の中に!!


『連珠三つ巴瓦紋』…って、益田市でちょっと前まで話題だったの遺跡『沖手遺跡』で発掘された品の中にありましたよネ♪
櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦のそばの紋瓦2つ…そのうち、特に下の「紋瓦」の形状・デザインを見てください。

連珠三つ巴瓦紋(右巻き左巻き混在) 櫛代賀姫神社(益田市)

益田市の沖手遺跡内の、「専福寺浦番所」(江戸時代、浜田藩が管理)跡から発掘されたモノと酷似しています。(ただし!なぜかこの紋瓦…巴が上は「右巻き」、下は「左巻き」なんです!!よくみると…連珠の数的には下の方が、、「専福寺浦番所」の出土品に酷似といえますが…巴の方向が左巻きであるこは気になります。)

江戸時代の沖手遺跡 丸瓦 益田市


(巴の方向は今回は一時保留として)
なぜ、『連珠三つ巴瓦紋』が益田市久城町の「櫛代賀姫神社」に現存しているのか?
このことについて、私なりに合点するには、さほどの時間がかかりませんでした♪

ヒントは「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」にあった!!


浜田藩の歴史は、ほとんど松平家系であることをご存知でしょうか?
そして…松平家では、連珠三つ巴瓦紋は、伝統的に使われていたようです。
※参照⇒江戸時代の沖手遺跡「丸瓦」の破片を考察

で、話を益田市の「櫛代賀姫神社」の歴史について調べてみたところ…

「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」に、

「文政6年(1823年)に石見国二十一個村の総氏子により本殿其の他の大修築をなし…」

という記載があることを発見しました。


「文政6年(1823年)」の浜田藩は松平(松井)家の時代です。


大修築の際の新しい「紋瓦」等に浜田藩(松平家)の素材・造形的趣向が込められていたとも考えられます。(ただし、くどいようですが…瓦紋の巴の巻き方が「1つだけ左」というのは気になります…(笑))

↑こんなことは、実に些細な発見ですが、江戸時代の(益田市の)ここら辺の時代…浜田藩のころの様子に興味が湧いてきました。


編集後記
※あとで分かったのですが…巴の左右は、一番上の玉から伸びる尻尾のような方向で呼び名がつけられているようです。ですから、益田市の沖手遺跡で発掘された巴は「左巴」と呼ばれます。(わたくし的には、回転方向で左巻き、右巻きといったほうがわかりやすいと思い、修正はしておりません。ご容赦ください。)

自分がこれまで地元、益田市の歴史や風景に関して投稿した記事の内容・画像からでも、(これまで益田市に関する史料・資料には無い)思わぬ発見があるものです。
これまで、過去記事を振り返ってみることは(誤字脱字の修正とか小見出しとgoogleMAPの追加程度で)あまりなかったのですが。今回を機会に、当サイト内の投稿記事情報を発掘してみることもアリかと思いました(笑)