益田市誌で見つけた「昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑」における歴史的「碑文」…「岸静江国治の戦死の姿態」…岸静江国治の最期の描写。

『剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。』

※全文はコチラ>>扇原関門と岸静江国治の最期 吉田軍人会による記述

この碑文の中に、岸静江国治が「十字長槍ノ達人」とあります。

実は、私はこれまで、岸静江国治の「十字長槍」…そのイメージを具体的に思い描く事ができませんでした。
ですが、最近になって、やっと(偶然に)岸静江国治の「十字長槍」を描写した絵の存在を知りました。
益田市のお隣の市…浜田市の歴史的資料『浜田会誌』にありました。

岸静江 扇原関門の図 浜田会誌より

岸静江 扇原関門の図(『浜田会誌』第3号より)

この絵からは「十字長槍」の形状がわかります。

しかも、当時の扇原関門の様子、建物施設とかの配置を確認できる絵ですね。

山とかの地形等々から判断して、おそらく、長州軍が侵攻した方向、街道の「(現、益田市の)横田地区側からの「構図」であろうと考えられます。