竹田番匠、竹藤九衛門のお墓が益田市にあることをご存知ですか?
竹田番匠とは九州岡藩(大分県竹田市)の御用大工の棟梁の総称をさしていて、かつては、飛騨の匠と同様に優れた大工さん(名工)のことをいうそうです。(※「竹田番匠」は「タケタバンジョウ」と読むそうです。)

国道191号線を益田市から津和野方面に向かう途中の、益田市横田町。

益田市市街地方面から(津和野町に向かって)来た場合、高津川にかかる橋、「神田橋」の手前、国道の右側に「竹田番匠の墓」という案内の立札があります。(少し分かりづらいかもしれません)


その先に「竹田番匠の墓」という案内板があり、竹田番匠 竹藤九衛門についての益田市誌(昭和50年発刊)での記事が引用されています。

竹田番匠の墓 看板 益田市


竹田番匠の墓

 
ここに眠る竹田番匠は竹藤九衛門で、壇の医師、松本裕庵の知遇をうけ、向横田(むかいよこた)の丸山八幡宮を改築し、亨保元年壇の地で客死した。

竹田番匠とは九州岡藩(大分県竹田市)の御用大工の棟梁の総称で、飛騨の匠に比肩されるといわれる名工のことである。

(昭和五十年発刊益田市誌より)


神田の田植え囃子の歌詞にも次のようにあります。

「宮島様の御※普請には、どなたが棟梁なされた。飛騨の匠に竹田の番匠、両人棟梁なされた」

「向横田(むかいよこた)の丸山八幡宮を改築し、亨保元年壇の地で客死した。」

亡くなったのは享保元年(西暦で1716年)とのこと。(「壇」というのは、当地(向横田)にある地名です。)
そしてこれが、竹田番匠、竹藤九衛門様のお墓です。


竹田番匠、竹藤九衛門の墓 益田市

竹田番匠、竹藤九衛門さんが手がけたという益田市向横田(むかいよこた)の丸山八幡宮
なんでも、釘を一本も使わないという凄技で建てられたと言いますから…興味が湧きませんか?



【益田市横田町の竹田番匠に関する資料…『ふるさとの歴史と伝説』(著者 石川 寿保 氏)】

この益田市横田町の竹田番匠に関する資料は、私が調べた限りでは、益田市誌(昭和50年発刊)と、
「ふるさとの歴史と伝説」(著者:石川 寿保 氏) にて知ることができました。
(竹田番匠 竹藤九衛門には弟子善右衛門という人がいたようですね)


(※因みに、この本は、益田市の図書館にあるそうです)


◆「ふるさとの歴史と伝説」のデータ

書籍名:ふるさとの歴史と伝説
著者名:石川 寿保
昭和53年2月1日(1987)


・高城地区に於ける人文地理の概要
・柿本人麿の妻と高津川
・和泉式部と鏡の釣井
・向横田城址
・近世以降
・部落の取り決め十二題
・渡場問題と同盟休校事件
 
・県道の誘致とその後の経過
・愛宕神社
・忠魂山系の経営
・向横田節について
・高城地区の旧家について
 松本家の人々
 1.竹田番匠の塚と弟子善右衛門 
 2.歌人松本郷三の作品 
 3.松本淳三の短歌とその生涯

石川氏、坂根氏、齊藤氏、柳井氏、宮崎氏、横田氏、岡本氏、湖氏、広瀬氏、その他の旧家

参考文献外
あとがき

石川氏の著書「ふるさとの歴史と伝説」ですが、益田市の横田町に関するいろいろ興味深い情報が満載です。
できれば復刻してもらいたいものです…


【ことば…※普請(ふしん)について

普請(ふしん)とは、普く(あまねく)請う(こう)とも読み広く平等に奉仕(資金・労力・資金の提供)を願う事であり、社会基盤を地域住民で作り維持していく事を指し、現在では公共の社会基盤を受益する共同の人々または公共事業により建設(建築と土木を併せ建設という)および修繕、維持する事。
端的にいえば互助活動や相互扶助や自治としての建設(修繕、模様替も含まれる)の為の労力や資金の提供を求める事をさす。建設と言う言葉自体が明治時代に外来語を翻訳した時に出来た和製熟語でありそれ以前は普請と言った。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

【画像は2009年6月撮影】