益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

柿本人麻呂

島根県立万葉公園の「人麻呂展望広場」を楽しむ(益田市高津)

益田市の高津にある「島根県立万葉公園」。
広大な公園で、総面積は48.4haといいいます。
(※面積は公園管理センターの方から教えてもらいました。)


「万葉」という名がつく公園なので、公園内にはいたるところに万葉集にある数々の古の歌がしるされた立札があります。

不思議なもんで、自分がよく知っている歌をみつけると、なんとなく親しみが持てるものです。
その歌がつくられた背景とか周辺知識がぶわっと頭の中に広がってくるんですネ♪


「島根県立万葉公園」には、テーマを持った「広場」がいくつかあります。
今回、注目したのは「人麻呂展望広場」…人麻呂に関連する35(首)の石の歌碑が集められています。

まずは、広大な「県立万葉公園」内での「人麻呂展望広場」の場所

人麻呂展望広場の場所 島根県立万葉公園 (益田市)


「人麻呂展望広場」の場所、上の案内板を部分拡大してみましょう。

人麻呂展望広場 拡大 島根県立万葉公園 (益田市)


「人麻呂展望広場」入り口はこんな感じ…

人麻呂展望広場 入口 島根県立万葉公園内


「人麻呂展望広場」とは!?

島根県立万葉公園の「人麻呂展望広場」とはいったいどんなコンセプトで造られたのでしょうか?
「人麻呂展望広場」にはこの広場だけを特集したガイドパンフレットがあります。

島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 パンフレット


このパンフレット内にわかりやすい説明がありました。


人麻呂展望広場
 この広場には「歌聖・柿本人麻呂」が天武・持統朝時代(七世紀後半)に大和で宮廷歌人として詠った歌、人麻呂や地域にゆかりのある歌の中から三十五首を歌碑として配置しています。歌碑は島根県産の福光石の板に彫り込んでいます。広場は万葉集にちなんだ植物や石によって人麻呂の旅した山河や、石見の風景を表現しています。また広場からは石見の雄大な海をはじめ、万葉集に詠われた山々を望むことができます。

 万葉の花や美しい景色を楽しみながら、ゆったりと人麻呂の歌心にふれてみませんか。


    パンフレット:『島根県立万葉公園 人麻呂展望広場「柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭」』より


「人麻呂展望広場」の構成について


人麻呂展望広場の構成 島根県立万葉公園 益田市t

パンフレット内のイラストをみると、「人麻呂展望広場」は「大和・旅の広場」と「石見の広場」の2つの広場で構成されていることがわかりました。


それぞれの広場にある「歌(歌碑)」は

・大和・旅の広場…人麻呂が宮廷歌人として大和で詠った歌、旅の途中で詠った歌
・石見の広場…人麻呂が石見で詠った歌をはじめ、島根にちなんだ万葉歌

という考え方で分類され集められているといいます。


私論「人麻呂展望広場」の楽しみ方

「人麻呂展望広場」は、歌碑を楽しみながらゆったりとすごす場所です。
万葉の時代をある程度もった人が数名で、一つ一つの歌碑を前にして、歌にかかわること…解釈からはじまり作者の事や時代背景について「語り合う(知識を交換する)」…なんて楽しみ方ができたら、それはそれは最高の時を過ごせると思いますぞ。


おまけ…「人麻呂展望広場」…豆知識

ここまで、読んでくれた方へのささやかな感謝の気持ちとして「人麻呂展望広場」豆知識。

歌碑は「福光石」でできている

ここの歌碑の素材は「福光石」…。(これはパンフレットを見なかったら知ることもなかったでしょう♪)


ちなみに、「福光石」は「ふくみついし」と読むそうです。島根県大田市温泉津町福光が産地とのこと。
また、世界遺産「石見銀山」の「五百羅漢」のすべての羅漢像、そして「五百羅漢」にある3つの石橋、ともに福光石でできているそうですよ♪


柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌


パンフレット:『島根県立万葉公園 人麻呂展望広場「柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭」』で、この歌碑(三番歌碑)は、万葉集2巻194とあります。


島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 歌碑三番 



題詞 柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌 ですネ♪

県立万葉公園「人麻呂展望広場」の万葉仮名の歌碑(益田市にて)

先日、益田市高津にある島根県立万葉公園の「人麻呂展望広場」という場所に行きました。

※ヒトマロの表記はこの広場では「人麻呂」で、益田市で好まれる「人麿」ではありません。
(個人的には、柿本人麻呂の表記の方を好みます。)


島根県立万葉公園の「人麻呂展望広場」パンフレットを読んでみたところ、この広場には全部で35の自然石の歌碑があるそうです。

島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 パンフレット

碑に刻まれている「歌」は、この地に合わせ、万葉集、人麻呂の歌を中心となっています。


この広場の奥の四阿(あずまや)に進むと、とある歌碑が目に入りました。

人麻呂展望広場 稲岡耕二氏 自筆の歌碑の場所

理由は…

稲岡耕二氏 自筆の歌碑 小竹之葉者


小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆  
柿本人麻呂


この歌碑だけが「万葉仮名」で文字が刻まれているんですネ。

(万葉集は原文…万葉仮名で感じるのが一番!と思っていますので「これは、イイね♪」って思うわけですよw…初心者はちょっと苦労はしますけど)


で、気になったので、この「万葉仮名」の歌碑につて調べたところ、かの稲岡耕二先生による自筆の歌碑であることがわかりました。

パンフレットには以下の説明がありました。

稲岡耕二氏自筆の歌碑
東京大学名誉教授。柿本人麻呂研究の第一人者であり、多くの著書も出版している。平成十一年万葉公園「まほろばの園」の竣工を記念して設置した稲岡氏自筆(万葉仮名)の歌碑を移設したもの。

パンフレット:『島根県立万葉公園 人麻呂展望広場「柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭」』より



稲岡耕二先生の著書は、

万葉表記論 、人麻呂の表現世界等々「歌」そのものの表記、構造についての詳細な解析的内容が多く、読み手側にもある程度の専門知識と集中力がいります。(益田市立図書館にも何冊かありますよ♪)

ただ、『王朝の歌人 柿本人麻呂 集英社 1985年4月25日』に関しては、柿本人麻呂の伝記的内容です。

王朝の歌人1柿本人麻呂 稲岡耕二


この本は、気楽に読めて、内容も面白かったなぁ…という記憶があり、今回を機会に再読しています。

鳥詠む 小竹之葉者

益田市の高津川と高角橋ごしに高津の柿本神社を眺めたら

「高津川」と「高角橋」と「高角山 正一位柿本神社」

益田市を流れる清流日本一の「高津川」
高津川下流にある土木遺産「高角橋」
そして…益田市、いや、島根県、いや、日本の至宝の一つ
高津の「高角山 正一位柿本神社

これら、益田市が誇るBIGキーワードが3つもそろった画像を撮影できました。

高津川と高角橋と高津柿本神社

いかがですか?
・清流日本一の「高津川
・JSCE土木学会の「選奨土木遺産」…「高角橋
そして、柿本人麻呂公(益田市では柿本人麿という表記も混在)を祀る
・「高角山 正一位柿本神社(高津柿本神社)
凄い画像ですよね!…だって、わたくし達が暮らす益田市のBIGキーワードが3つもそろった画像ですよ♪

「う~ん…ごちゃごちゃしとって、ワシには何がなんやらようわからん?」
「え~?…マジですか?」

確かに、益田市のキーワード欲張りすぎたかも!?…ですが、!わたくし的には大変に気に入った画像なんです。

高角山 正一位柿本神社(高津柿本神社)


特に「高角山 正一位柿本神社」…高津柿本神社の社殿を含めた建物・屋根がたくさん、そして複雑に写っていているのが素敵です♪
高角橋と高津柿本神社
※ 本殿、拝殿、楼門… あなたは、高津柿本神社の建物・屋根…どれがどの屋根だかわかりますか?
解答編は後日あらためてこのサイトで…♪
編集後記:撮影場所近くでもすごい画像が!?

撮影日:2014年9月11日
撮影場所は、ダイワボウレーヨン(株) 益田工場工務のでっかい煙突の近くです。
ダイワの煙突 益田市
晴れた日、青空の午前中が撮影チャンスです!!
実はこの大きな煙突…最近、改良というか「改造」されたのですよ!ご存知でした?
ダイワボウレーヨン…(私が子どもの頃は「大和紡績」…「だいわぼう」と呼んでいました。)

「柿本人麿伝承岩」の秘密(その1.足型岩)(益田市 小野地区)

2つの「柿本人麿伝承岩」

益田市の戸田地区には柿本人麿伝承岩とよばれる大きな岩が2つあります。
2つの岩は「足型岩」と「聖なる岩」とよばれています。
私、ここにはかれこれ、4~5回は訪れていますが、

毎回疑問に思うこと…

「どういう理由で『足型岩』とか『聖なる岩』とよばれるようになったのか?」
>>「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

と疑問を抱えつつも、とりわけ深く調べるわけでなく、気づけば5年近くたっていましいた。

今回、やっと「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)の伝承の
内容わかりました♪今回は、まず「足型岩」について情報をシェアすることにしました。

「柿本人麿伝承岩」についての「伝承」…「足型岩」

まずは、「足型岩」の画像。撮影は2014年5月

柿本人麿伝承岩 足型岩 全体 益田市 小野地区


この画像を撮影した時点で、私が「足型岩」について知っていたことは、
人麿の「足型岩」は、

人麿の「幼少時の足跡の窪み」がある岩…ということ。のみでした。
(「伝承」としては少し魅力を感じませんネ)


(上の画像で、「幼少時の足跡の窪み」ってわかりますか?…実は、私、この画像の撮影時、初めてそれらしき窪み(2か所…両足分)に気づきました。 この記事の最後に拡大画像を掲載しておきます。)

「足型岩」の伝承とは!?

つい先日、私が尊敬する知人から「益田の民話」という絵本を貸してもらい、偶然にもその絵本の中に「足型岩」の伝承の記述があったのです!!

内容(要約)は以下のとおりです。
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足跡は人丸が9歳のころとのこと。
家の人と草刈りに行ったときはいつも(この)岩の上で遊んでいたと。
そして、一仕事終えた家の人が、人丸に「もう帰ろう」と。
すると、人丸さんは「おい」と叫んで手を三つ叩いたら…なな、なんと!!

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…続きは以下の「益田の民話」サイトで確認してくださいまし♪
⇒益田の民話「人丸さん」
(書籍は益田市の図書館とか高津公民館にあるはずです。)

【参照書籍「益田の民話」(2002年3月25日 益田の文化を育てる会)P35「人丸さん」より」】

「足型岩」の足型について

(今回は、あくまで、私なりの解釈ですョ)

おまけ画像として、私が「これが足型だろうなぁ」と感じた部分を拡大して掲載しておきます。

柿本人麿伝承岩 足型岩 足型部拡大 益田市 小野地区

あなたには見えましたか?

◆もう一つの伝承岩:「聖なる岩」
>>柿本人麿伝承岩その2「聖なる岩」についてはコチラ

編集後記…「ひとまろ」は「人麻呂」?「人麿」?
益田市では柿本人麻呂は柿本人麿と表記することが一般的です。
その理由について、地元、島根県や益田市で著名な歴史家の方々の説を耳にします。
ですが、わたくし的には腑に落ちる説明はありません。

ただ、私がいろいろ益田市の歴史、特に高津柿本神社を調べていくうちに、(現時点では仮説ですが)ヒントをみつけました。
今しばらく時を要すると思いますが、いずれこのサイトで公開しますネ♪

「聖なる岩」の傍の「筆柿」の謎(益田市 戸田)

このサイトでは以前、地元の柿本人麻呂(柿本人麿)伝説に纏わるスポットとして、
益田市の戸田地区の、とある山の中腹にある「聖なる岩」を取り上げたことがあります。
※参照 >>「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

今回は、その岩の傍らにある「筆柿」の画像を発見したので投稿しておきます。

※出処は私のデジカメのSDカード内です。

筆柿 聖なる岩 益田市 戸田


「筆柿」は小ぶりな柿の実です。形が筆の穂先のように見えますネ。

画像の記録によると2010年1月。結構、古い画像です。早生種だという「筆柿」。時期的に終わり頃でした。
3個(3粒)残っています(最後まで残っている3粒は…かなり渋いものだったのかもしれませんねネ。)

モノクロ、シルエット風に撮れていて、なかなか味のある画像だと(自画自賛ですが(汗))思います。

益田市で「筆柿」といえば、戸田柿本神社の拝殿、向かって右にある「御神木」の「筆柿の木」は、地元益田市では結構、有名です。


ですが、「聖なる岩」といわれる柿本人麻呂(柿本人麿)の伝承岩の傍にある「筆柿」は、もっと神聖さがあるように感じられます。 …皆さんいかがでしょうか?

聖なる岩と筆柿 益田市 戸田


画像の大岩の左にある、Y字型の木が上記画像の「筆柿の木」です。

実は、この「聖なる岩」という「岩」が、益田市の戸田の歴史上、一体何の由緒があって「聖なる」モノなのか…?

今もって不明なのです。

しかし、このたび「聖なる岩」の由緒について、来月(平成26年5月)にでも、具体的な史料が復刻されるという事で、現在益田市の郷土史家達には静かな話題となっております。

私も、このサイトでレポートする予定です。
楽しみにしていてくださいネ。

※追記:2014年8月21日
「聖なる岩」の謎…地元の伝承がわかりました!!
>>「柿本人麿伝承岩」(その2.聖なる岩)(益田市 小野地区)

益田市の高津柿本神社の歴史(前篇:起源編)

益田市の重要な歴史的建造物の一つ「柿本神社本殿:島根県指定有形文化財(指定 昭和57年6月18日)」

当神社には平成8年3月に益田市教育委員会によって作成された「柿本神社本殿」の説明板があり。以下の3つの情報(事柄)が記載されています。

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)に関する情報

高津 柿本神社 本殿


※全文については⇒益田市の高津 柿本神社「本殿」の説明板を読んでをご参照ください。)

今回は
1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
の記載内容について細かく見て行きます。(前半篇と後半編の2部構成にしています。)

まずは「柿本神社本殿」の説明板の当該部分の前半篇

 柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。

 鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。

高津「柿本神社」の起源…「伝説」的な事柄。人麿の終焉地「鴨島」から始まります。
万寿三年(1026年)の大地震の大津波で「鴨島」にあったとされる「人麿尊像」が、高津の「松崎」に漂着し、松崎の地に改めて社殿が再建された…ということ。


この部分は、益田市の高津浜地区にある「松崎の碑」に記載されている内容ですネ。
※参照⇒「松崎の碑」とは!? (益田市の「高津連理の松」遺跡内)

松崎の碑文 益田市 高津浜地区

※補足:上記画像「松崎の碑」は高津の浜地区、かつての「高津の連理松」の地内にあります。
この碑は本来は、異なる場所、現在の「益田道路」地内にあったそうで、移設され、当地となったようです。(現時点では、私は、本来の「松崎の碑」があった場所は把握できてない状態です。)

「万寿三年(1026年)の大地震とそれによる大津波の発生」について
1992年~1993年(平成4年~5年)にかけての「鴨島学術調査」における「トレンチ発掘調査」にて、この津波の痕跡は確認されました。ですが(肝心の)「鴨島」の「場所」については「益田市の中須沖」説は立証できていないようです。
次回は、確かな記録がある1600年代からの「柿本神社」建立に関する歴史について考察します。

(万寿三年(1026年)より、なんと約600年後からのお話しとなります。)

益田市の高津柿本神社「本殿」の説明板を読んで(島根県指定有形文化財)

益田市 高津の「柿本神社」。
石段がはじまる鳥居から楼門~と少しずつ石段を上がっていくと、手水舎(ちょうずや・てみずや)がある広場に出ます。

この手水舎の左には「柿本神社本殿」の説明板が設置されています。
(因みに、画像左の石段…あと10数段で、いよいよ柿本神社です。)

この説明板から知ることのできる情報は大きく分けて3つ。

高津の柿本神社に関して

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)に関する情報

が記載されています。(本記事の後半にも記していますが、この説明板の上記3つの情報を手掛かりにし、私が興味を持って探求したより詳細な内容を次回以降あらためて投稿していきますネ。)

高津 柿本神社説明板と手水舎


今回は、まず「全文」をご紹介します。


島根県指定有形文化財 柿本神社本殿(指定 昭和57年6月18日)

柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
①鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長13年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文11年(1671年)には津和野藩主 亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。 
 そして、延宝9年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
 
②本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入(いりもやづくりつまいり)、桧皮葺(ひわだぶき)で、唐破風造(からはふうづくり)の向拝(こうはい)を有し、津和野の方角を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇(しゅみだん)があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。

 
③また、柿本神社は享保8年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊(ごほうらくごたんざく)が奉納されています。 
平成8年3月 益田市教育委員会


限られたスペースの中で
1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史
2.柿本神社本殿の建造物的価値(魅力)
3.社宝(『御法楽御短冊』)

3つの重要事項がコンパクトに纏められています。と私は解釈しています。


私が初めて、この説明文を読んだ時
「なんだか、歴史的にも、文化財的にも、厚み・価値があって…凄そう!!」と感心しました。

この「凄そう!!」とう思いがきっかけで、現在、高津 柿本神社…柿本人麿(柿本人麻呂)…万葉集等々、興味を広げ、調査・探求を楽しんでいます。


次回からは、以下の3点の項目

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)の情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)についての情報

それぞれについて、段階的に自分が調査・探求した情報より、補足・解説を試みたいと思います。

MAP・場所:高津柿本神社(正一位柿本神社)

高津柿本神社の昭和10年頃の姿(画像)(島根県益田市)

益田市の高津地区にある全国的にも有名な『高津柿本神社』。

「本殿」は昭和57年(1982年)6月18日に島根県の有形文化財(建造物)に指定されています。

このたび、この高津柿本神社の古い画像を発見したので、投稿しておきます。
出拠は『高津町誌』(復刻版『高津町誌』)からです。「高津連理の松」の古い画像を探している際に、本誌にて偶然発見しました。(この画像は、昭和10年前後に撮影されたものと思われます。)

昭和10年前後撮影の高津 柿本神社の画像


本画像、手前(旧)拝殿の奥に見える建物が「島根県の有形文化財(建造物)指定」の『柿本神社 本殿』。
そして、この画像を手がかりにして、同じアングルの想定…というか、5~6m下がって、撮影した現在の当地の画像です。

高津柿本神社平成10年の拝殿新築後


「拝殿」のサイズがかなり大きくなっているのがわかります。
実は、益田市の高津柿本神社の「拝殿」は「平成10年(1998年)2月に新築」されたそうです。
新しくできた銅版葺の拝殿…つくりも凝っていて(特に屋根が)…見た目、豪華です。

しかしながら、「拝殿」前の広場からは「本殿の姿」は殆ど見る事ができない状態です。

実は、5年前、益田市に戻り、本当に久しぶりにこの神社を訪れた際、なんとなく違和感をありましたが、それが、何によるものなのかはその時はわかりませんでした。
今回、たまたま、昭和の時代の「拝殿」と、平成10年(1998年)2月に新築された「拝殿」を比較して、初めて「何が違和感を引き起こしたのか!?」がわかりました。

少し残念な気がします。

但し、この拝殿、建て替えで本殿が見えなくなったことで、新たな気付きもありました。
「この高津柿本神社の敷地…とにかく「狭い」という、地形的な制約条件の下で建てられている」という事です。

日本の多くの神社は表参道を進む、(石段を登る)と「正面」の姿を現わすのが一般的ですよね。

ところが、柿本神社の場合は、神社建物の側面に向かって、参道が配置されているのです。
参道の石段、途中、有名な「柿本神社の『楼門』」をくぐり、さらに登りつめた所、その終点で見上げると柿本神社の「拝殿の側面」が構えています。



益田市 高津柿本神社 参道の終点


ここから、画像左の最後の石段を登り、さらに、向かって左側に回り込むことにより柿本神社の正面の姿を拝むことができるのです。(石段右側の説明板「柿本神社本殿」の内容は、正面に見える「拝殿」について記載されたものと錯覚する観光客…きっと多いでしょうネ)

当地を訪れた方は記憶にあるかも(いえ、多分気付いていないでしょうが)、拝殿・神殿の敷地面積がかなり狭いため、拝殿周囲には神殿を拝見できる場所(ゆとり)が無いのです。

この「狭い敷地」という制約のゆえ、「本殿と拝殿の建物サイズの構成(バランス)」センス的な見方で、旧「拝殿」の方がサイズ的に「絶妙」に配慮され、優れていた、と感じられるのです。…(私はネ)

「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

益田市の戸田から、有名な「中垣内の棚田」へ通じる道を進んでいく途中、道路右側に

二つの柿本人麿伝承岩 入口」(ひとまろの里小野推進(協)作成)という地図付きの案内板があります。

二つの柿本人麿伝承岩 看板 益田市小野地区


二つの柿本人麿伝承岩 地図

「柿本人麿の伝承岩」は、「足型岩」と「聖なる岩」の2つ。
早速、この看板地点から未舗装の山道を歩いて進んでみました。

まずは「足型岩

足型岩


案内ボードは、立てかけてある状態なので、この岩が「足型岩」であると断定できない状況でした。
とりあえず、別角度からも撮影。…正直、「足型岩」と呼ばれる所以はわかりません。

◆追記(2014.8.19)「足型岩」伝承の内容がわかりました!!
>>「柿本人麿伝承岩」の秘密(その1.足型岩編)(益田市 小野地区)

足型岩2


そして、「足型岩」から上り坂、山道を進むこと約500m(と案内看板に書いてあります。)

柿本人麿伝承岩の2つ目「聖なる岩」です。この岩についても、何故!?「聖なる岩」と呼ばれるのか…その理由は分かりませんでした。(調査・探索意欲が湧いてきました♪)

柿本人麿伝承岩 「聖なる岩」


そしてここには「筆柿」という柿の木がありました。
筆柿とは、「筆の穂先の形」の様な「柿の実」がなることから
名付けられたそうです。

この「聖なる岩」の目印はこの黄色い看板(手書き)

柿本人麿伝承岩の2つ目「聖なる岩」 黄色い看板

「聖なる岩」は「ひとまろ岩」ともよばれているようですネ!?
ちなみに、この看板を見落とせば…「聖なる岩」へたどり着くことはまず不可能なので注意が必要ですよ!!
【画像は2010年1月に撮影】

MAP・場所:柿本人麿伝承岩。入り口看板付近


「松崎の碑」の内容を知る (益田市の「高津連理の松」遺跡内)

益田市の高津浜地区で、かつて名所であった「高津連理の松」。この松は平成15年3月に枯れたため今はその姿ありません。「天然記念物 高津連理ノ松」と標された「石碑」とその「説明板」があるので、かろうじて、その痕跡と概要を知ることができる状態です。


さて、今回の記事タイトルに記載しましたが、この「高津連理の松」があった地に「松崎の碑」と呼ばれる石碑があります。

松崎の碑 益田市高津 20150322


「益田市」縁で日本史上の有名人といえば「柿本人麿」と「雪舟」。
例えば、われら益田高等学校「校歌一番」の冒頭の、「歌の聖と~♪」の歌詞。
この「歌の聖」…「柿本人麿」にまつわる事柄が「松崎の碑」に刻まれています。
現地の案内看板

松崎の碑 説明板


松崎の碑
柿本人麿公は神亀元年(七二四年)に高津沖にあった鴨島で没し、そこに人麿公がご自身で作られた木造を安置する祠が建てられたと伝えられています。その後、萬寿三年(一O二六年)の地震による大津波で鴨島は水没しましたが、人麿公の木像は祠の傍らにあった二又の松の大木に乗って、この付近の松林に漂着しました。松の霊力によって佐()け起こされたという意で、この地は「松佐起(松崎)」と呼ばれるようになりました。付近の住民はその神徳を偲び、社殿を建て、延宝九年(一六八一年)に現在の社地に移転されるまでの約六百年間守り続けてきました。
 ところが、社地が移転された後、この由緒ある土地が人々の記憶から薄れていくのを憂えた津和野藩主亀井矩賢公が藩士河田孫兵衛に命じられ、京の正二位芝山卿藤原持豊公に撰文を依頼し、文化十一年(一八一四年)この碑が造立されました。松崎の碑文が別名「芝山卿碑文」と呼ばれるのはこのためです。


また、この案内板の後半には「松崎の碑の全文」が掲載されていました。

松崎の碑 全文 益田市高津   石見の国高津の沖に鴨島となんいひて大なる島山あり。

神亀元年甲子三月十八日柿本のおほん神かむさりませし所にて御辞世のやまと歌、萬葉集、拾遺集にのせられたり。

此所に御廟尊像は自らつくらせ給うとなん寺をば人丸寺と名づく。

都より北海に渡海の船、此地によせ来り、賑わしくさかんなりし地なりしに後一条院の御宇、萬寿三年丙寅の五月、高波のため彼の島をゆりこぼたれ、宮寺を初め民屋残りなく海中に没しぬ。

しかありしに、彼鴨島のおほん社の前に二枝にわかれたる松あり、此松の枝、尊像を帯て高角浜によせ来りぬ。

此処を松佐起社と名づく。人々信感に堪えず、其処に社と寺を造り尊像をもすえ奉りしに、延宝九年に今の高角山に社地をうつし奉りしまで、年凡そ六百有余年此松崎にて祭事をいとなみ奉るとなん。

この松崎に二枝の松の古木ありて御腰掛の松ととなえ来りぬ。

しかあるに、大方古木となりし故に、植かゆることたびたびなれども、もとより西北の大海の辺にて風のかくる砂に吹きまくられ、または枯れることあまたたびするがゆゑに、彼の松のかたはらに石を立てて古跡のしるしとして後世につたへつぎつぎうゑそへんとす。

くらふの輩かたちにあはせて此事をこたびをこなふにつきてそのことを書せよ。ある人もてあつらふるにいなみがたくあせながれてせなかをつるほすながら秀筆を記すものにこそ。

 
神もさそふこきなかれと守るらし里のおきなのたてし石ふみ



【編集後記および追記

芝山 持豊
(しばやま もちとよ 1742~1815)が前権中納言であったのは、寛政11年(1799年)~文化11年(1814年)ということです。

2015年3月22日、本ページの3枚の画像を新しくしました(以前のものが、画質が悪かったため)

撰文について、最後の和歌の原文を確認するために調査しています。(2015年3月)

理由は、
説明板の表記では、意味がわからないという点と、
現地で原文をみると何か違和感があるためです。

現在(松崎の)碑の文字に風化のため解読が困難な部分があり、過去の研究資料等をさがしている段階です。

高津柿本神社の「楼門(ろうもん)」を鑑賞(益田市 高津)

益田市の高津町にある、島根県の文化財の柿本神社(かきのもと神社)


柿本神社は、万葉の歌人である柿本人麿(かきのもとひとまろ)をまつっている神社です。

柿本人麿は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えていたといいます。
そして、ここ益田市には神亀元年(724年)、益田市沖にあったという鴨島という島で亡くなられたという「伝説」があります。

柿本人麿は諸説があり現在でも、特定できないという謎だらけの人物。だから、生誕地とか没した場所とかについては具体的な「一次資料」…つまりは考古学での「木簡」レベルの品が出てくるまでは、決して特定できないわけです…現在の、「証拠」のレベルは、空想というか妄想によるもので、議論の価値を感じていません。

さて、今回、ご紹介するのは、高津柿本神社に実存する「楼門(ろうもん)」について語る事にしませう。

高津柿本神社 楼門 光


               撮影:2015年4月21日

柿本神社楼門(ろうもん)は本殿、拝殿に向かう石段の中ほどに建立されています。

高津柿本神社 楼門



※楼門について調べてみました。


「楼門(ろうもん)」 とは、2階建てで1重目には縁のみを持ち、最上重に屋根を持つもの。楼門は、二階造りの門のことで、二重門も本来は楼門といった。2重の屋根のあるものとそうでないものがあるため現在は、楼門と二重門に分類されている

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

柿本神社楼門


柿本神社楼門(向かって右斜め前より撮影)

柿本神社楼門 斜め右より


この楼門の傍に「柿本神社楼門由緒」という説明看板があります。

柿本神社楼門由緒


柿本神社楼門由緒より一部引用

   現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝9年(1681)、高角山に本殿、拝殿、楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。

  この楼門は、初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で、屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け。勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。


まさに匠の技による堅牢かつ豪華なつくりの楼門です。
しかも、かなりの歴史と由緒があるようです。

益田市を代表する歴史的建造物であることは間違いありませんね♪

柿本神社 鳥居と楼門


                【撮影:2009年4月】