益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

染羽天石勝神社

染羽天石勝神社の幻の滝…「清滝」(益田市染羽町)

益田市の『染羽天石勝神社』には、かつては「滝」があったという話のつづきです。

その場所は、国指定重要文化財でもある『染羽天石勝神社本殿』に(向かって)右、正確には右下です。


今でも、その名残はあるわけですが、(前回の投稿でもお見せしましたが)流れ落ちる水量はさほど多くはありません。

染羽天石勝神社の清滝(益田市染羽町)

今回は、ここ益田市の『染羽天石勝神社』のかつての「滝」について、久しぶりに「益田市誌」で調べてみました。

まずは、江戸中期のころの『染羽天石勝神社』境内の様子がわかる図面

滝蔵権現者境内図


滝蔵権現者境内図(江戸中期)
出処:益田市誌 (昭和50年12月20日発行)
上巻 P344

図面内に「清滝」(赤いOで囲んでおきました)という記載があります。

江戸期の後期、当社東側の岸壁へ、付近にある溜池の水を小溝によって導き、滝水として落としている。
世に清滝、又は白糸の滝と呼ぶのがこれである。

出処:益田市誌 (昭和50年12月20日発行)上巻 P345

上の図面が滝蔵権現者境内図が江戸中期ごろで、下の引用文が「江戸期の後期…」から始まっていますが、中期にすでに清滝は記載されています。

益田市誌内で、すでに矛盾があるわけですが、貴重な史料であることには間違いありません。


とにかく、私が知りたかった
『染羽天石勝神社』の幻の滝の名は「清滝」という名であったことがわかりました。


また、「付近にある溜池の水を小溝によって導き、滝水として…」という部分から、「清滝」は人工的に造られた滝であることも知ることができました。

では、なぜ、現在は水量が減ったのか?・・・
については、(詳細はわかりませんが)開発(東高の野球のグランド?)により消失したとききます。
(水源が無くなったわけです。)

であれば、「清滝」古い写真の1枚や2枚は益田市内のどこかに存在しているかもしれませんネ!?


大雨の日には、「清滝」が現れる!?



染羽天石勝神社の御神職様によれば、
「今日は(清滝は)こんな感じですが・・・大雨の日にはこの滝を流れ落ちる水量はかなり増しますよ。」

と、なんか嬉しい話がありました。

「えっ、じゃあ、今度は大雨が降っているときに是非、この「清滝」の真の姿を見たいものですね♪」


と思わず話したところ、


「ええ…ただし!水だけではなく、木の枝や、岩が落ちて来ますのでとても危険です!! 絶対に近寄らないでくださいネ!」

とのことでした。・・・「ハッ、ハイ!了解いたしました(汗)」

というわけで、

(万一)大雨の日に、染羽天石勝神社の「清滝」を見学する際には、滝には近寄らず、遠い場所からにしてくださいませ。

染羽天石勝神社の「幻の滝」を発見!?(益田市染羽町)

益田市の『染羽天石勝神社(本殿は国指定重要文化財)』には、かつては「滝」があったという話、皆さんは、ご存知ですか?

「『染羽天石勝神社』にはのう、昔は滝があったんじゃけぇ」

これは、今は亡き父と6年くらい前に、私が、初めてここ『染羽天石勝神社』に参拝した時に聞いた話です。


「そりゃ、すごいのう!…滝はどこにあったんじゃ?」

と(父に)尋ねたところ、


「そりゃ、知らんが…」と、なんとも、信憑性の無い話だと思いましたが、

ただ、もしも「滝」があったとすれば…それはそれで、凄い!と思いつつ、数年を過ごしていました。


このたびの一連の『染羽天石勝神社』見学参拝投稿特集の初日だったのですが。

家に帰って、どうしても「滝」のことが気になったので、

思い切ってw「染羽天石勝神社」にお電話して聞いてみました。

「お忙しいところ恐れ入ります。『染羽天石勝神社』について教えてほしいことがあるのですが…」


お応えいただいたのは、おそらく、『染羽天石勝神社』の宮司様だと思われます。

「ハイ、何でしょう?」


「実は、『染羽天石勝神社』には、かつて「滝」があったという話を聞いたのですが、どこらへんに(滝は)あったのですか?」

すると、


(染羽天石勝神社)本殿の右!」…と4文字。実にシンプルなご回答をいただきましたw

「ああ、そうですか!すると、まさか、あのチョロチョロと水が流れ落ちてる場所のことでしょうか?」


「そうそう」…と、また4文字のシンプルなご回答。


「分かりました!ありがとうございました!」


というわけで、数日後、ふたたび、益田市の『染羽天石勝神社』に見学参拝したわけです。


そして、益田市の『染羽天石勝神社』現地にて以前、「滝」があったという場所がコチラ!

染羽天石勝神社の幻の滝(益田市染羽町)


この日も、水量こそ少なかったのですが、プチ滝的状態でした。

滝の高さは、ざっと、2~3メートル。本格的な「滝」を想像していた人には、物足りないかと思います。ですが、水琴のような音が本殿まわりでささやくように聞こえてくる。この風情は、なかなかのものです。

お昼近かったのですが、ちょうど滝壺(?)に日光が差し込んでスポットライトのようでした(よかった♪)

益田市 染羽天石勝神社の滝壺


水がはねている様子。わかりますよネ!?

水量さえあれば、庭園などに見る、ミニ滝の部類になるでしょう。


益田市の神社境内に「滝」があるのは、(私が知る限り)『染羽天石勝神社』のみです。


次回は、
⇒益田市の『染羽天石勝神社』の(幻の)「滝」の名前と歴史について
です。

益田市の染羽天石勝神社本殿に感じたクールな「手挟」考

益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟(たばさみ)」について。

「手挟(たばさみ)」は見ての通りの「向拝の補強」部材ですが、あわせて「空間の装飾」という役目をしている部材です。我が日本独自の手法であると聞きます。

インターネットで「手挟(たばさみ) 画像」と検索すれば、全国各地の神社のそれは、それは見事な彫刻を施された画像を見ることができます。

染羽天石勝神社本殿の「手挟」を見てみましょう。

染羽天石勝神社本殿 手挟2


白く塗装された部分「手挟」と呼ばれる部材です。

不思議なのは、拝殿ではなく神殿の「手挟」となると、一般の参拝者は拝見できないと思います。(位置的に)でも、そんな場所でも、こだわる…そういう意味でクラフトマンシップ!を感じています。

で、(ほぼ、いないと思いますが…)インターネットで「手挟 画像」と検索し、豪奢な彫刻が施された「手挟」を見た人は、

益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟」はかなりシンプルなデザインに見えるかもしれません。

ですが!

私は、染羽天石勝神社本殿の「手挟」には他(の神社の「手挟」)にあまりみない、特徴的な技法を感じました!!

もう少し大きい画像で説明します。

先の画像にて2つの「手挟」がありましたが…奥の方が破損がないように思われますので、そちらで解説します。

染羽天石勝神社本殿 手挟 奥s


私が益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟」をクール♪と感じたのは、ここの部分。

染羽天石勝神社本殿 手挟 奥sクール


赤丸の中の部分・・・蔓(つる)のように見えるところ…白い点線をつけていますが、
「これって連続性を感じさせますよね…実際は連続性は無いのですが・・・」

こんな技法は他の神社の(豪奢な彫刻が施された)「手挟」にはみられません。

地味ですが、こんな技巧こそ、クールジャパンですよネ♪

染羽天石勝神社内の大元神社の石段と本殿の「手挟み」(益田市染羽町)

前回の染羽天石勝神社本殿の側面の蟇股を見学した場所までのルートについて。

前回の染羽天石勝神社本殿の側面の蟇股を見学した内容はこちら↓

>>益田市の染羽天石勝神社本殿「蟇股」考。久々の発見「久文字」

益田市の染羽天石勝神社本殿の側面を見学させていただくためには、
本殿に向かって左にある「大元神社」に向かう石段を上ることによって可能になります。
(なお、今回はご神職様よりご許可をいただいたうえでの撮影です。)


早速ですが、
染羽天石勝神社本殿に向かって左の「大元神社」のお姿(正面)。

益田市 染羽天石勝神社の大元神社


そして、この「大元神社」につながる石段は↓こんな感じです。

益田市 染羽天石勝神社の大元神社への石段


この石段、グニャグニャしていますよネ。

石段右の巨木の幹と根が石段にかける圧力によるものです。

おそらく根は石段の数か所を持ち上げていると思われます。
足が弱い私は、石段左の手すりがなければ到底、上ることはできませんでしたよ。この石段・・・

あわせて、植物の持つ凄い力をあらためて感じました…。

実際に、大元神社への、この石段を上っていくときなんですが、)
歩を進めるごとに石段の角度が変化するので、何度か不思議な眩暈をおこし、
それが(かえって)神聖さに近いものとして感じられました。


染羽天石勝神社の、かつての資料(図)によれば、大元神社はこの場所よりももっと奥、そして高い位置にあったようです。また、現在の大元神社の場所には、かつては春日神社があったようです。

(そのあたりは、別の機会に投稿させていただきますネ)


さて、この石段を上りきり、大元神社に参拝した後、染羽天石勝神社本殿の側面を見学させていただけたのですが、

染羽天石勝神社本殿側面左


この場所にて本殿側面の「蟇股」2種を見学させていただいたわけです。

さらに!!

ここまでこの記事に目を通していただいた方への感謝の気持ちとして…♪


この場所でしかみれない部材のひとつ、染羽天石勝神社本殿「手挟(たばさみ)」の画像です。

染羽天石勝神社本殿 手挟2

この「手挟(たばさみ)」かなりこだわっています。

お解り頂けると思いますが…本殿正面からは見えません。見えない場所にもこだわる。・・・否、見えないからこそこだわっている…


これぞ職人魂!…見学、発見できて、うれしい!わけです♪

この「手挟(たばさみ)」…クラフトマンシップについてはこちら↓のページにて。
益田市の染羽天石勝神社本殿に感じたクールな「手挟」考

おやすみなさいませ。

益田市の染羽天石勝神社本殿「蟇股」考。久々の発見「久文字」

今回も益田市の染羽天石勝神社(式内社)その本殿(国指定重要文化財)に関する話題です。

今回は、染羽天石勝神社本殿「蟇股(かえるまた)」について。


「え?蟇股(かえるまた)?何それ?」って人も多分多いでしょう。


「蟇股」は神社建築様式の細部における名称の一つです。


早速、実際に染羽天石勝神社本殿の「蟇股」を見てみましょう。

本殿正面の画像です。

染羽天石勝神社本殿


で、こういった形状の部分が「蟇股」とよばれる部分です。染羽天石勝神社の本殿正面部には手前と奥に計6つの蟇股が施されています。(最初の画像をご参照ください)

蟇股 中央 染羽天石勝神社本殿


「なぜ、蟇股というんじゃ?」という人もいるでしょうが、それは後で説明します。


実は、今回、益田市の染羽天石勝神社本殿の正面奥の「蟇股」である発見をしました♪


久々の発見です!!早速どうぞ!

蟇股 中央奥に久 染羽天石勝神社本殿


わかりますか?
何かの花が咲いている木の中央部に「朱色で」の字が忍ばされているではありませんか?

念のためちょっと目立つように画像加工しました。

蟇股 中央奥に久ss 染羽天石勝神社本殿


益田市の歴史にかかわる「久」の字の意味、わかりますか?
益田市民や益田市ご出身の方ならわかりますよネ!!


ヒントはこの家紋↓です。(画像は染羽天石勝神社の拝殿(神楽殿)の屋根の頂部)

上り藤に久s


上ぼり藤に久」の家紋です。
益田氏の家紋ですネ。また、益田氏の旗紋は「久文字」と称されたように
「久」は益田氏のシンボル的な文字なんです。


ちなみに、本殿正面奥の三つの蟇股はすべて同じデザイン
すべて中央部に「久」の字が忍ばされています。

染羽天石勝神社本殿を撮影した日、(今回の投稿2番目の画像にあたりますが)正面手前の中央の蟇股のデザインは何だろう?と悩んでいた際、偶然発見しました。(正面手前の中央の蟇股のデザインについては今も不明です…)

ご神職様も「(「久」の字、初めて気づいた!!」といっておられました♪


さて、話は「蟇股(かえるまた)」に、またかえりませうw

蟇股とは大蛙(おおがえる)が股を広げて、とび立つ直前の姿勢から名付けられたそうです。
もともと、上部の荷重を支える構造材ですがだんだん飾り的なものになっていったといいます。
特に、室町時代になると、蟇股の内部彫刻が発達し多様化したということです。

(参照…寺院・神社・住宅の見学必携〔総合編〕著者:下村健治 平成10年10月 株式会社 コロナ社)

では、(この際ですので)益田市の染羽天石勝神社の本殿すべての蟇股をご覧いただきましょう。

まずは本殿正面中央

蟇股fc染羽天石勝神社本殿正面中央

本殿正面(向かって)左
蟇股fl染羽天石勝神社本殿正面左

本殿正面(向かって)右
蟇股fr染羽天石勝神社本殿正面右

本殿正面の左右の蟇股のデザインは同じようです。(破損がいくつか見られます)

次に、本殿側面(向かって左側面)…まずは左側面全体のお姿
染羽天石勝神社本殿側面左

身舎(おも)の壁に2つ(2種)の蟇股が施されています。
染羽天石勝神社本殿側面s

向かって左の蟇股…植物の葉、笹でしょうか?
蟇股sl染羽天石勝神社本殿側面

想像ですが、男爵益田氏の家紋が「九枚笹」と聞きますので「笹」も益田氏にゆかりがあるものかもしれませんネ。

最後に向かって右の蟇股…ことらには魚の姿2匹、鮎でしょうか?
蟇股sr染羽天石勝神社本殿側面
鮎の遡上の様子にも見えませんか!?
激しい流れに逆らって川をのぼっていく鮎は「逞しく生きる」という面で、シンボリックな存在だったのかもしれません。
また「鮎の遡上が多い年は秋の収穫も豊作になる」という話もあるようですので…
この魚、鮎だったらいいなぁ♪

※今回は本殿背面(後ろ面)と右側面は確認していません(おそらく右側面は左側と同じ様子だと思います。)

益田市の染羽天石勝神社の本殿の現地の案内看板への疑問

今回も益田市の染羽天石勝神社(式内社)についての投稿です。

前回の投稿で、

「益田市の染羽天石勝神社の本殿(染羽町1-60)と春日氏」

にて染羽天石勝神社の本殿の案内看板について言及しました。

染羽天石勝神社本殿 説明

問題個所↓

本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(おも)の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ、両側のみに高欄付の縁をもちます。

と「益田市の教育委員会」作成の看板には記述されていますが…

染羽天石勝神社の本殿 側面

どうみても、身舎(おも)の側面は2間!・・・私は「土木」の世界しか知りませんが…(建築知らなくても)見ればわかります。

実は、これは、文中の「の」を「。」に修正することで「染羽天石勝神社の本殿」の(より)正確な「お姿の表現」となります。

すなわち、


本殿は三間社流造で、三間×三間身舎(おも)の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ・・・

であれば、完璧ではないです。が…(かろうじて)まぁいいか的記述に修正できます。

そもそも、三間×三間の身舎(おも)で「流造」を造ろうとするなら、
一般の三間社流造のデザイン&バランスを維持することを前提とすれば、前方の張り出した屋根の部分(特に柱による支持がない部分)が長大になるため、強度をもたせる必要があります。
これは、木造では相当な仕掛け(工夫)が必要です。

私にはそんな建築構造的仕掛け(工夫)…想像できません。


といいますか(スイマセン・・・率直に語るべきでした。)

染羽天石勝神社の本殿は前三間×横二間の基本的な作りです。

一体どうして、「本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(もや…意味は「母屋」とほぼ同じ)」という記載を看板にしたのでせうか?

なにより、益田市の染羽天石勝神社の本殿。天正9年(1581年)に消失し再建された建物ですが、

なぜ!板面をさいてまでも、「三間×三間の身舎(もや)」という事、そして・・・両側のみに高欄付の縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。

って、特筆すべきことなのでせうか?…私はどうしても、特筆に値することとは思えないのですよ。

実は、今日も、青空だったので、お昼の時間に、益田市の染羽天石勝神社へお参りに行きましたが、もっともっと魅力的なモノがみつかるんですネ。

それは、今後、記事掲載するとして。


シンプルに益田市の染羽天石勝神社の本殿は天正年間、否、16世紀から残っている「歴史的建造物」。
それだけで十分価値は伝わるのではないでしょうか?

今回の益田市の染羽天石勝神社の本殿に関する「益田市の教育委員会」作成の看板にみられるような、事実と違うこと、誤った価値観などを軽率に看板に載せると、見る人は「無意識レベル」で違和感を覚えるものです。


ですから、「凄い!」とか「感動!」は残らず、「え~、なんで…意味ようわからん!?」といった感覚だけが残りますでしょ!?


「うんうん、それは分かった!じゃが、なにもそこまで細かい事までいわんでもエエじゃろう!?」


と思う人もいるでしょう。

でもね、「染羽天石勝神社の御本殿」は、国指定重要文化財なのですのであえて厳しいお話をさせていただきましたわけです♪

益田市の染羽天石勝神社の本殿(染羽町1-60)と春日氏

益田市の式内社について特集を組んで早1年。

やっとのことで染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)について投稿の機会(決心)を得ることになりました。

染羽天石勝神社は式内社益田市に現存する4つの「延喜式内社」(「式内社」)のうちの一つです。


染羽天石勝神社は「春日氏、春日族」の創設故、これまで以上の緊張感をもって記述しなければなりません。

染羽天石勝神社本殿


■御祭神
主祭神:天石勝命
相殿神:伊邪那岐神 伊邪那美神 天照大神 国常立神 事解男神
    速玉男神 忍穗耳神 瓊々杵神 彦火々出耳神 葺不合神
    軻遇突智神 埴山姫神

染羽天石勝神社の手水舎の傍には、益田市の教育委員会による
「染羽天石勝神社 本殿」に関する案内板があります。

益田市の教育委員会作成の案内板「染羽天石勝神社 本殿」内容…公費でつくった看板ですw

染羽天石勝神社本殿 説明


内容を読み込んでいくと
「染羽天石勝神社本殿」は国指定重要文化財とあります。
「染羽天石勝神社本殿」の案内板では、国指定重要文化財の指定となったのは昭和4年4月6日とあります。
昭和4年・・・1929年のことです。

実は(ご存知の方も多いと思いますが)指定された「昭和4年」時点では「国宝」でした。

益田市の教育委員会が作った「染羽天石勝神社本殿」の案内板…「国指定重要文化財の指定となったのは昭和4年4月6日」という(事実)それ以外を読んでみると、大事な部分がわかりにくい!

これは、教育委員会のスタッフ本人の言葉ではないようです。
いわゆるコピペ、受け売りですねw)・・・3月12日追記です…スイマセン、コピペとか受け売りレベルではないようです。コレ単純に妄想レベルの情報です。見ればわかる記述の間違いがありますんです。
具体的には次の投稿で…

問題個所↓

本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ、両側のみに高欄付の縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。


と書かれてますが。わかります?伝わります?・・・よほど神社建築に精通したひとでなければわかりません。

というか(誰か知りません)書いた本人が分からない述語で述べているのだから、伝わるはずがありませんよネw

そのへんは、後日フォロー(批判)するとして。

フォローしました♪↓(2015年3月12日)
⇒益田市の染羽天石勝神社の本殿の現地の案内看板への疑問

益田市Tips!
益田市の染羽天石勝神社への御参拝は、

晴れた日の「午前中」がおススメです!!

本殿の向きが「東南東」だからです。太陽のパワーは午前中。

さて次回から、より細かく「染羽天石勝神社」について語ります。


場所(MAP):染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)
島根県益田市染羽町1-60

益田市内の(延喜式)式内社を訪ねてみよう(準備編)

益田市で様々な神社を訪ねていくうちに、益田市に存在する神社について、「系統だてて投稿をしていく視点はないのか?」という思いがあり、

※まずは、益田市内で、「式内社」…平安時代の法令「延喜式」により定められた神社というくくりで、まとめてみようと思いました。

※現在の益田市の範囲内(旧美濃郡同じと考えています)式内神社は全部で以下の5社(所在地)
  
佐毘売山神社(島根県 益田市 乙子町51) 
染羽天石勝神社(島根県 益田市 染羽町1-60)     
・櫛代賀姫神社(島根県 益田市 久城町96)
 >>※特集:櫛代賀姫神社
小野天大神之多初阿豆委居命神社(島根県 益田市 戸田町イ-858) 
・菅野天財若子命神社(あえて保留)


このうち、佐毘売山神社に関する話題は本サイトでも以前数回投稿しています。
>>※特集:佐毘売山神社

ところで…
※延喜式とか式内社って何?と思う方も多いのではともいます。
ちょうどわかりやすい資料(書籍)が手元にありましたので、折を見て説明をさせていただきます。


また、上記5つの益田市内の「式内社」うち、
・佐毘売山神社・染羽天石勝神社・櫛代賀姫神社・小野天大神之多初阿豆委居命神社

の4社はすでに何度か参拝をしていますが、(所在地を、「あえて保留」としている)「菅野天財若子命神社」

については、その由緒、所在地については、もう少し調査・考察の時間を必要としています。


最後に…このままでは画像は1枚もないので(汗)

今回は、つい最近、小野村誌(復刻改訂版)により、その所在を知ることとなった

・小野天大神之多初阿豆委居命神社(島根県 益田市 戸田町イ-858)の画像を掲載しておきます。

益田市 小野神社 小野天大神之多初阿豆委居命神社

米原恭庵の「自信」と「勇気」に学ぶ(益田市 染羽天石勝神社 内)

益田市の染羽天石勝神社内では、地元の歴史上の偉大な人物を知ることができます。


その人の名は「米原恭庵」。・・・皆さんご存知でしたか!?


米原恭庵は、江戸時代の医師で、嘉永二年(1849年)、彼が二十一歳のときに高角村(現高津町)で流行したという痘瘡(天然痘)に対し(下記の資料から判断して)おそらく日本人として初めて「牛痘」を施し、その被害を抑えたという方です。

まずは、社団法人 益田市医師会による米原恭庵頌徳碑(よねはらきょうあん しょうとくひ)


米原恭庵頌徳碑 益田市 染羽天石勝神社内

米原恭庵頌徳碑

 米原恭庵は若くして医学を志し、十七歳で江戸に上り西洋法内外科及び牛痘種法等を修学。二十一歳のとき当時の高角村(現高津町)で痘瘡(天然痘)が流行したため、私財を投じて五百余名の地元民に牛痘を施し、大成功を収めこの災疫から救った。

 ジェンナーの種痘法後五十年を経た嘉永二年(1849年)7月17日に、オランダのモーニッケが長崎で日本初の牛痘接種に成功しているが、そのわずか二ヵ月後に僻地に住む恭庵が新しい種痘法を実施したことになる。益田医師会は、全国に先駆け牛痘接種を断行し、防疫に貢献した米原恭庵翁の功績をたたえ遺徳を敬仰し頌徳碑を建立した。
 右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。


社団法人 益田市医師会


「右側後方の碑」、恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる「種痘記念碑」。

種痘記念碑 益田市 染羽天石勝つ神社内


私が米原恭庵に感じたのは(牛痘接種は)当時の段階ではおそらく「効果がわかかっていても、それ(新しいこと)を実行(行動)するには相当な「自信」と「勇気」が必要であっただろう!!」ということです。


【ことば】頌徳(しょうとく):徳をたたえること。


【時代】嘉永2年
「嘉永」は江戸時代徳川幕府時代の元号。ちなみに嘉永2年の4年後(嘉永6年 1853年)は、アメリカの東インド艦隊率いるペリー提督の来航があった。

といえば時代の雰囲気はお分かり頂けるでしょう。

【ジェンナーについて(ついでに調べました)】


 エドワード・ジェンナー(Edward Jenner、1749年5月17日 - 1823年1月26日)は、イギリスの医学者。天然痘ワクチンを開発したことで知られる。

 この時代、イギリスでは天然痘はしばしば流行していた。これに対する予防法としては18世紀初頭に、天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に接種するという方法がアラブ世界からもたらされたが、この予防法では接種を受けた者の2パーセントは重症化して死亡するなど、危険を伴うものであった。

 ジェンナーが医師として活動していた頃には、牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えがあった 。

 天然痘に比べると、牛痘ははるかに安全な病気であった。ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えないかと、1778年から18年にわたって研究を続け、1796年5月14日、ジェームズ・フィップス(w:James Phipps)という8歳の少年に牛痘を接種した。

 少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり、深刻な症状はなかった。6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種したが少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功した。一部の伝記や偉人伝等では「自分の息子に試した」「フィップスはジェンナーの実の息子」と記述されている場合があるが、自分の息子に試したのは、この牛痘接種の7年前の天然痘接種であり、混同して言い伝えられているものである。

 1798年、これを発表し、その後、種痘法はヨーロッパ中にひろまり1802年、イギリス議会より賞金が贈られたが医学界はこの名誉をなかなか認めなかった。また一部の町村では、牛痘を接種すると牛になると言われて苦労したが、接種を「神の乗った牛の聖なる液」と説明したと言われる。しかしその後の天然痘の大流行を機にジェンナーの種痘法は急速に普及し、彼は「近代免疫学の父」と呼ばれるようになった。その後天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘の根絶が宣言された。

鳥の習性にも造詣が深く、カッコウの托卵や鳥の渡りを研究した事でも知られている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

※本題とはそれますが・・・ジェンナーといえば小学校のころに読んだ「わが子の腕に…」という超インパクトのあるキャッチコピーによる記憶があったのですが・・・

1796年5月14日、ジェームズ・フィップス(w:James Phipps)という8歳の少年に牛痘を接種した。(略)
 一部の伝記や偉人伝等では「自分の息子に試した」「フィップスはジェンナーの実の息子」と記述されている場合があるが、自分の息子に試したのは、この牛痘接種の7年前の天然痘接種であり、混同して言い伝えられているものである。(以下略)」

という事だったようです。(知りませんでした)

でも、ジェンナーの偉大な業績(結果)からして、誰の腕で実験しようと(いい意味で)どうでもイイこですよね。


【画像は2010年1月撮影】