益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

松崎の碑

益田市の高津柿本神社の歴史(前篇:起源編)

益田市の重要な歴史的建造物の一つ「柿本神社本殿:島根県指定有形文化財(指定 昭和57年6月18日)」

当神社には平成8年3月に益田市教育委員会によって作成された「柿本神社本殿」の説明板があり。以下の3つの情報(事柄)が記載されています。

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)に関する情報

高津 柿本神社 本殿


※全文については⇒益田市の高津 柿本神社「本殿」の説明板を読んでをご参照ください。)

今回は
1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
の記載内容について細かく見て行きます。(前半篇と後半編の2部構成にしています。)

まずは「柿本神社本殿」の説明板の当該部分の前半篇

 柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。

 鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。

高津「柿本神社」の起源…「伝説」的な事柄。人麿の終焉地「鴨島」から始まります。
万寿三年(1026年)の大地震の大津波で「鴨島」にあったとされる「人麿尊像」が、高津の「松崎」に漂着し、松崎の地に改めて社殿が再建された…ということ。


この部分は、益田市の高津浜地区にある「松崎の碑」に記載されている内容ですネ。
※参照⇒「松崎の碑」とは!? (益田市の「高津連理の松」遺跡内)

松崎の碑文 益田市 高津浜地区

※補足:上記画像「松崎の碑」は高津の浜地区、かつての「高津の連理松」の地内にあります。
この碑は本来は、異なる場所、現在の「益田道路」地内にあったそうで、移設され、当地となったようです。(現時点では、私は、本来の「松崎の碑」があった場所は把握できてない状態です。)

「万寿三年(1026年)の大地震とそれによる大津波の発生」について
1992年~1993年(平成4年~5年)にかけての「鴨島学術調査」における「トレンチ発掘調査」にて、この津波の痕跡は確認されました。ですが(肝心の)「鴨島」の「場所」については「益田市の中須沖」説は立証できていないようです。
次回は、確かな記録がある1600年代からの「柿本神社」建立に関する歴史について考察します。

(万寿三年(1026年)より、なんと約600年後からのお話しとなります。)

「松崎の碑」の内容を知る (益田市の「高津連理の松」遺跡内)

益田市の高津浜地区で、かつて名所であった「高津連理の松」。この松は平成15年3月に枯れたため今はその姿ありません。「天然記念物 高津連理ノ松」と標された「石碑」とその「説明板」があるので、かろうじて、その痕跡と概要を知ることができる状態です。


さて、今回の記事タイトルに記載しましたが、この「高津連理の松」があった地に「松崎の碑」と呼ばれる石碑があります。

松崎の碑 益田市高津 20150322


「益田市」縁で日本史上の有名人といえば「柿本人麿」と「雪舟」。
例えば、われら益田高等学校「校歌一番」の冒頭の、「歌の聖と~♪」の歌詞。
この「歌の聖」…「柿本人麿」にまつわる事柄が「松崎の碑」に刻まれています。
現地の案内看板

松崎の碑 説明板


松崎の碑
柿本人麿公は神亀元年(七二四年)に高津沖にあった鴨島で没し、そこに人麿公がご自身で作られた木造を安置する祠が建てられたと伝えられています。その後、萬寿三年(一O二六年)の地震による大津波で鴨島は水没しましたが、人麿公の木像は祠の傍らにあった二又の松の大木に乗って、この付近の松林に漂着しました。松の霊力によって佐()け起こされたという意で、この地は「松佐起(松崎)」と呼ばれるようになりました。付近の住民はその神徳を偲び、社殿を建て、延宝九年(一六八一年)に現在の社地に移転されるまでの約六百年間守り続けてきました。
 ところが、社地が移転された後、この由緒ある土地が人々の記憶から薄れていくのを憂えた津和野藩主亀井矩賢公が藩士河田孫兵衛に命じられ、京の正二位芝山卿藤原持豊公に撰文を依頼し、文化十一年(一八一四年)この碑が造立されました。松崎の碑文が別名「芝山卿碑文」と呼ばれるのはこのためです。


また、この案内板の後半には「松崎の碑の全文」が掲載されていました。

松崎の碑 全文 益田市高津   石見の国高津の沖に鴨島となんいひて大なる島山あり。

神亀元年甲子三月十八日柿本のおほん神かむさりませし所にて御辞世のやまと歌、萬葉集、拾遺集にのせられたり。

此所に御廟尊像は自らつくらせ給うとなん寺をば人丸寺と名づく。

都より北海に渡海の船、此地によせ来り、賑わしくさかんなりし地なりしに後一条院の御宇、萬寿三年丙寅の五月、高波のため彼の島をゆりこぼたれ、宮寺を初め民屋残りなく海中に没しぬ。

しかありしに、彼鴨島のおほん社の前に二枝にわかれたる松あり、此松の枝、尊像を帯て高角浜によせ来りぬ。

此処を松佐起社と名づく。人々信感に堪えず、其処に社と寺を造り尊像をもすえ奉りしに、延宝九年に今の高角山に社地をうつし奉りしまで、年凡そ六百有余年此松崎にて祭事をいとなみ奉るとなん。

この松崎に二枝の松の古木ありて御腰掛の松ととなえ来りぬ。

しかあるに、大方古木となりし故に、植かゆることたびたびなれども、もとより西北の大海の辺にて風のかくる砂に吹きまくられ、または枯れることあまたたびするがゆゑに、彼の松のかたはらに石を立てて古跡のしるしとして後世につたへつぎつぎうゑそへんとす。

くらふの輩かたちにあはせて此事をこたびをこなふにつきてそのことを書せよ。ある人もてあつらふるにいなみがたくあせながれてせなかをつるほすながら秀筆を記すものにこそ。

 
神もさそふこきなかれと守るらし里のおきなのたてし石ふみ



【編集後記および追記

芝山 持豊
(しばやま もちとよ 1742~1815)が前権中納言であったのは、寛政11年(1799年)~文化11年(1814年)ということです。

2015年3月22日、本ページの3枚の画像を新しくしました(以前のものが、画質が悪かったため)

撰文について、最後の和歌の原文を確認するために調査しています。(2015年3月)

理由は、
説明板の表記では、意味がわからないという点と、
現地で原文をみると何か違和感があるためです。

現在(松崎の)碑の文字に風化のため解読が困難な部分があり、過去の研究資料等をさがしている段階です。