益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

扇原関門跡

扇原関門跡 浜田藩と津和野藩…彷徨った藩境(益田市誌より)

石州口の戦い…岸静江国治、扇原関門跡について調べていると、この益田市周辺の幕末・近代史にもいろいろと興味深い出来事があることがわかりました。


今回は、当時、地政学的に特異な位置に存在した益田市の地での2つの彷徨った「標柱」のお話しです。


「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」

浜田、津和野藩境 益田市


扇原関門跡(益田市多田町)にて撮影
※2つの標柱の画像を編集(連結)しています。現在は旧街道跡をはさんで対峙して配置されています。

実は、この2本の標柱、かつて、それぞれ益田市の民家の庭におかれていた時期があったようです。

浜田藩 標柱 益田市


津和野藩 標柱 益田市


【画像出処:益田市誌 下巻 P209
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市
私が初めて扇原関門跡でこの2つの標柱をみたとき「このような歴史的に貴重なものが、よくもまぁ、ありのまま残っていたもんだ!」と素朴に感じました。しかし、冷静に考えてみれば…扇原関門跡の「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」は明治時代では不要物であったはずです。
(政権交代のすえ、廃藩置県で浜田藩、津和野藩は両者消滅したのですから…ネ)

益田市誌で発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真

岸静江国治の事を調べていたら、偶然、明治時代の扇原関門跡のモノクロ画像に出会いました。
この画像の情報源は益田市誌です。
益田市誌の下巻「政治篇」(P205~)にて
「第一章 明治維新」第一節 長州征伐と石見地方
扇原関門と岸静江(下巻P213~P214)に掲載されていました。

益田市誌(上・下巻)昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市

明治時代の扇原関門画像 益田市誌


明治時代の扇原関址と静江の墓(円内)(明治43年5月15日の石見実業時報から)という画像情報があります。

『明治時代の扇原関址と静江の墓(円内)』…円が確認できないのですが、岸静江国治の墓は当初は扇原関門跡地にあったようですね。
そして、この画像は、旧街道上の向井横田側から撮影したと思われます。

このモノクロ写真を見ると、(現在の薄暗い感じのする扇原関門跡と比べ)随分、全体的に開けて明るい感じです。大きな松らしき樹木も確認できますね。…「ここにかつて関門(関所)があった」という雰囲気があります。

【余談記事:かつて乃木希典陸軍大将が益田の地に!?】
益田市誌(下巻)には、益田戦争における戦死者に関する記述(「征長の役の戦死者」P214)があり、ここで新たな史実を知りました。

長州藩の戦死者の中に乃木三蔵という方がおられたそうです。この方はあの乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将の従兄弟にあたる方だそうです。そして、乃木希典陸軍大将が第三軍司令官として旅順攻撃を指揮した翌々年の明治三十九年には(乃木大将)御自ら益田市の妙義寺山内の従兄弟の三蔵氏の墓を詣でたと…かつて、この益田市の地にかの、乃木希典大将が!!…驚きでした。

乃木三蔵が戦死したのは1886年6月17日。この日は扇原関門での戦い(岸静江国治が戦死した日:1886年6月16日)の翌日です。益田市の萬福寺(益田市東町25-33)での戦闘乃木三蔵は戦死したということです。

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)

今回は益田市指定文化財 扇原関門跡(おうぎはらかんもんあと)、
場所は「岸静江国治の墓」(益田市指定文化財)から山道を歩いて約10分。薄暗い林の中の上り坂(途中から未舗装)進むと「扇原関門跡」が見えてきます。

扇原関門跡 遠景 益田市多田


逆光で最初は一瞬「人影」かと思いました。
近寄ると、それは石碑でした…「岸静江 戦死之地(岸静江が戦死した場所)」と記されていました。

岸静江 戦死之地


そばに「扇原関門跡」に関する案内看板がありました。

扇原関門跡 案内


益田市指定文化財
扇原関門跡

 元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
 慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。

   圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。

益田市
益田市教育委員会


「圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ…」岸静江国治の伝説的な壮絶な最期の姿です。


扇原関門跡が「跡」と呼ばれる痕跡。
扇原関門跡 石垣石碑「岸静江 戦士之地」の後方からもと来た道に沿って、このような石積み、石垣あります。
何らかの関所、防御陣(建物)があったようです。













さらに旧街道方向に歩いていくと「浜田藩」と「津和野藩」の藩境を示す2本の石柱がありました。

浜田藩


「從是北濱田領」…これより北は浜田藩の領地

津和野藩


「00南津和野領」…(解読不能)南は津和野藩の領地
旧街道をはさんで配置されている2本の石柱…ここが「石州口の戦い」の口火となった場所。当時の緊張感を一瞬感じました。
【画像は2009年11月撮影】

MAP・場所:益田市指定文化財 扇原関門跡