益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

扇原関門

岸静江国治の十字長槍と扇原関門の様子を知る(益田市 多田地区)

益田市誌で見つけた「昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑」における歴史的「碑文」…「岸静江国治の戦死の姿態」…岸静江国治の最期の描写。

『剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。』

※全文はコチラ>>扇原関門と岸静江国治の最期 吉田軍人会による記述

この碑文の中に、岸静江国治が「十字長槍ノ達人」とあります。

実は、私はこれまで、岸静江国治の「十字長槍」…そのイメージを具体的に思い描く事ができませんでした。
ですが、最近になって、やっと(偶然に)岸静江国治の「十字長槍」を描写した絵の存在を知りました。
益田市のお隣の市…浜田市の歴史的資料『浜田会誌』にありました。

岸静江 扇原関門の図 浜田会誌より

岸静江 扇原関門の図(『浜田会誌』第3号より)

この絵からは「十字長槍」の形状がわかります。

しかも、当時の扇原関門の様子、建物施設とかの配置を確認できる絵ですね。

山とかの地形等々から判断して、おそらく、長州軍が侵攻した方向、街道の「(現、益田市の)横田地区側からの「構図」であろうと考えられます。

岸静江国治と鉄瓶『唯今がその時、その時が唯今なり』

※今回までの岸静江国治と益田市に関しての投稿は、実は他のブログサービスで、2009年の秋から冬にかけての私の投稿記事を再編集したものです。
実は、岸静江国治に関する一連の投稿は、ある方よりいただいたコメントが契機でした。その方とは…京のブロガー、ハンドルネーム「なまず」さん!益田市出身のお方です。
なまずさんのブログ(トップページ)はこちら>>安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し
なんと!!ご祖父様が岸静江から譲り受けた「鉄瓶」をお持ちだとか…
「岸静江国治、所縁の地について取材投稿しますので…是非「鉄瓶」見せてください!」とコメントしたら…画像投稿してくださいました。
>>岸静江から譲り受けた鉄瓶の画像【なまずの寝床探し】より
これがその鉄瓶です。(なまず様には事前に画像引用の手続きおよび許可をいただき、掲載しています。)


岸静江国治 鉄瓶1
岸静江国治 鉄瓶 蓋


あまりに嬉しかったので…なまず様への感謝の気持ちを込めて「献上物語」をつくってみました。


岸静江国治と鉄瓶『唯今がその時、その時が唯今なり』
 一八六六年六月某日、石州益田 。
 物頭勤方取次の岸静江国治は部下二名を従へ、萬福寺より自ら守を務める扇原関門への途上。

梅雨。空は墨滲むがごとき雲層。赤土で濁った多田川…。「ふぁぁぁ…」静江、馬上にて、大欠伸。一筋の涙が頬を垂れる。静江、思わず微笑する。
 今日、ここ、この世。地味な田舎の風景。そして大欠伸。…この日、静江には、風景を見る、大欠伸の涙が頬をつたわる…この日常些細のことを「生きている証」と感じ、幸せな気持であった。

 岸静江国治 鉄瓶2その日の夕刻。関門にて、岸静江国治、茶をすすりながら、当地で知り合った百姓の息子を相手にしていた。

「関守(岸静江国治)様、ええ鉄瓶じゃのう!?」
「ほう、お前でもわかるか?」静江は若干驚いた。
「うん、すごいのう…」
「ほぅ…よし!これをお前にくれてやる!」
「なっなっ、なんでじゃ!?」
「なんでもクソもねぇ…わしは、じき忙しゅうなる(苦笑)。」
「…?」

「なに、タダでやるとは言わん。お前の親父に、後日、この鉄瓶分の「酒」を手当するよう言ってくれ…

ものは平安光玉堂…この世に「百」のみ!お親父に言えばわかるはずだ(笑)」

岸静江国治 鉄瓶 箱書「酒?…それっぽっちの酒で?」
「うんっ!…これ(鉄瓶)は、お前にやる。さっ、行け!」
「今すぐ!?」
「おうっ!『唯今がその時、その時が唯今なり』…覚えといてくれ…忘れるなよ(薄美笑)」


 



数日後、少年は父親とともに、約束の酒を携え、関門への坂道を全力で走っていた。正直、だいたいの事情はわかっていた。
 やがて、関門が見えた…当然、そこには静江の姿は無い。少年は、あの日の静江の透き通った笑顔を思い出し、あらためてその意味を知り、ひたすら泣いた・・・。


そして、扇原関門跡では今でも、曇りの日には…(見えますか?)


扇原関門と少年

「石州口の戦い」岸静江国治を偲ぶ(益田市 多田町)

益田市多田町の扇原関門(おうぎはらかんもん)遺跡、「石州口の戦い」があった場所です。

扇原関門に通じる山道の入り口付近、舗装道路の反対側に「お墓」があります。


岸静江国治という人物のお墓(益田市指定文化財)です。
まずは、「岸静江国治のお墓」に纏わるお話し。

「岸静江国治の墓」案内


益田市指定文化財(昭和46年6月21日)
岸静江国治の墓

 慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。
 昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

昭和五十二年四月
益田市
益田市教育委員会

※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…凄い人物ですね…勝ち目のない玉砕必至の戦いならば「いらぬ犠牲者を出したくない」という「長」としての考え方。

「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」といいたいところですが…正直、私もこんな決断ができるか…自信は殆どありません。


 この岸静江国治という人物…石見人にも凄い男がいたものだ!と一瞬感動したのですが、後で調べてみると、上野国(こうずけのくに)…現在でいえば「群馬県の館林(たてばやし)」の出身とのことでした。


現在の「岸静江国治の墓」とその周辺の様子

岸静江国治の墓 周囲 益田市多田町


私が二十数年前に初めてこの場所に来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも薄暗くとても静かだったと記憶しています。今では、こんな立派な道路ができています。

岸静江国治の墓と道路


【画像は2009年10月撮影】

MAP・場所・航空写真:岸静江国治の墓



【追記】
30数年位前には市内に「NHK大河ドラマ『花神』の舞台…」といった雰囲気の大きな看板がありました。益田市の中高年の方なら覚えている人は多いはず。