益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

岸静江国治

史跡再訪 岸静江国治の墓を訪ねて(益田市指定文化財)

先日(2014年2月)、旧益田方面に用があり、せっかくなので御無沙汰している「岸静江国治のお墓」を拝んで帰ろうと、多田方面へ。益田市の指定文化財「史跡 岸静江国治のお墓」…約4年ぶりです。

この地については、約4年前に一度投稿しています。
(当時、利用していいたブログサービスが今年2014年の1月に閉鎖ということで、本ブログでは2014年01月28日に若干の再編集をし再投稿しています。)
⇒「石州口の戦い」岸静江国治を偲ぶ(益田市 多田町)【2009年10月撮影】

まずは当地の2014年2月20日の様子。あえて、「縦撮り」してみました。
岸静江国治の墓 益田市指定文化財2014年2月撮影

新しくなった説明版「史跡 岸静江国治の墓」


上記リンク先の4年前の画像と比較して、構図的には大きな変化はありませんが、平成22年3月に説明板がリニューアルされたようです。
岸静江国治の墓 益田市指定文化財 説明板


4年前の投稿画像にある以前の説明板にくらべ、岸静江国治に関する情報は増えたように感じます。と言って、前説明板にも、独特の趣もあり、甲乙を付ける気もありませんし(そもそもそんな立場でもありませんw)

濱田藩岸静江墓

今回、新しくなった説明板で、新たに学んだ事…見えたコトがありました。それは…
「史跡再訪 岸静江国治の墓を訪ねて(益田市指定文化財)」続きを読む

岸静江国治の十字長槍と扇原関門の様子を知る(益田市 多田地区)

益田市誌で見つけた「昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑」における歴史的「碑文」…「岸静江国治の戦死の姿態」…岸静江国治の最期の描写。

『剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。』

※全文はコチラ>>扇原関門と岸静江国治の最期 吉田軍人会による記述

この碑文の中に、岸静江国治が「十字長槍ノ達人」とあります。

実は、私はこれまで、岸静江国治の「十字長槍」…そのイメージを具体的に思い描く事ができませんでした。
ですが、最近になって、やっと(偶然に)岸静江国治の「十字長槍」を描写した絵の存在を知りました。
益田市のお隣の市…浜田市の歴史的資料『浜田会誌』にありました。

岸静江 扇原関門の図 浜田会誌より

岸静江 扇原関門の図(『浜田会誌』第3号より)

この絵からは「十字長槍」の形状がわかります。

しかも、当時の扇原関門の様子、建物施設とかの配置を確認できる絵ですね。

山とかの地形等々から判断して、おそらく、長州軍が侵攻した方向、街道の「(現、益田市の)横田地区側からの「構図」であろうと考えられます。

岸静江国治と鉄瓶『唯今がその時、その時が唯今なり』

※今回までの岸静江国治と益田市に関しての投稿は、実は他のブログサービスで、2009年の秋から冬にかけての私の投稿記事を再編集したものです。
実は、岸静江国治に関する一連の投稿は、ある方よりいただいたコメントが契機でした。その方とは…京のブロガー、ハンドルネーム「なまず」さん!益田市出身のお方です。
なまずさんのブログ(トップページ)はこちら>>安住の地を求めて・・・なまずの寝床探し
なんと!!ご祖父様が岸静江から譲り受けた「鉄瓶」をお持ちだとか…
「岸静江国治、所縁の地について取材投稿しますので…是非「鉄瓶」見せてください!」とコメントしたら…画像投稿してくださいました。
>>岸静江から譲り受けた鉄瓶の画像【なまずの寝床探し】より
これがその鉄瓶です。(なまず様には事前に画像引用の手続きおよび許可をいただき、掲載しています。)


岸静江国治 鉄瓶1
岸静江国治 鉄瓶 蓋


あまりに嬉しかったので…なまず様への感謝の気持ちを込めて「献上物語」をつくってみました。


岸静江国治と鉄瓶『唯今がその時、その時が唯今なり』
 一八六六年六月某日、石州益田 。
 物頭勤方取次の岸静江国治は部下二名を従へ、萬福寺より自ら守を務める扇原関門への途上。

梅雨。空は墨滲むがごとき雲層。赤土で濁った多田川…。「ふぁぁぁ…」静江、馬上にて、大欠伸。一筋の涙が頬を垂れる。静江、思わず微笑する。
 今日、ここ、この世。地味な田舎の風景。そして大欠伸。…この日、静江には、風景を見る、大欠伸の涙が頬をつたわる…この日常些細のことを「生きている証」と感じ、幸せな気持であった。

 岸静江国治 鉄瓶2その日の夕刻。関門にて、岸静江国治、茶をすすりながら、当地で知り合った百姓の息子を相手にしていた。

「関守(岸静江国治)様、ええ鉄瓶じゃのう!?」
「ほう、お前でもわかるか?」静江は若干驚いた。
「うん、すごいのう…」
「ほぅ…よし!これをお前にくれてやる!」
「なっなっ、なんでじゃ!?」
「なんでもクソもねぇ…わしは、じき忙しゅうなる(苦笑)。」
「…?」

「なに、タダでやるとは言わん。お前の親父に、後日、この鉄瓶分の「酒」を手当するよう言ってくれ…

ものは平安光玉堂…この世に「百」のみ!お親父に言えばわかるはずだ(笑)」

岸静江国治 鉄瓶 箱書「酒?…それっぽっちの酒で?」
「うんっ!…これ(鉄瓶)は、お前にやる。さっ、行け!」
「今すぐ!?」
「おうっ!『唯今がその時、その時が唯今なり』…覚えといてくれ…忘れるなよ(薄美笑)」


 



数日後、少年は父親とともに、約束の酒を携え、関門への坂道を全力で走っていた。正直、だいたいの事情はわかっていた。
 やがて、関門が見えた…当然、そこには静江の姿は無い。少年は、あの日の静江の透き通った笑顔を思い出し、あらためてその意味を知り、ひたすら泣いた・・・。


そして、扇原関門跡では今でも、曇りの日には…(見えますか?)


扇原関門と少年

扇原関門跡 浜田藩と津和野藩…彷徨った藩境(益田市誌より)

石州口の戦い…岸静江国治、扇原関門跡について調べていると、この益田市周辺の幕末・近代史にもいろいろと興味深い出来事があることがわかりました。


今回は、当時、地政学的に特異な位置に存在した益田市の地での2つの彷徨った「標柱」のお話しです。


「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」

浜田、津和野藩境 益田市


扇原関門跡(益田市多田町)にて撮影
※2つの標柱の画像を編集(連結)しています。現在は旧街道跡をはさんで対峙して配置されています。

実は、この2本の標柱、かつて、それぞれ益田市の民家の庭におかれていた時期があったようです。

浜田藩 標柱 益田市


津和野藩 標柱 益田市


【画像出処:益田市誌 下巻 P209
益田市誌(上・下巻)
昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市
私が初めて扇原関門跡でこの2つの標柱をみたとき「このような歴史的に貴重なものが、よくもまぁ、ありのまま残っていたもんだ!」と素朴に感じました。しかし、冷静に考えてみれば…扇原関門跡の「浜田(濱田)藩の領界を示す標柱」と「津和野藩の領界を示す標柱」は明治時代では不要物であったはずです。
(政権交代のすえ、廃藩置県で浜田藩、津和野藩は両者消滅したのですから…ネ)

益田市誌で発見!扇原関門跡 明治時代のモノクロ写真

岸静江国治の事を調べていたら、偶然、明治時代の扇原関門跡のモノクロ画像に出会いました。
この画像の情報源は益田市誌です。
益田市誌の下巻「政治篇」(P205~)にて
「第一章 明治維新」第一節 長州征伐と石見地方
扇原関門と岸静江(下巻P213~P214)に掲載されていました。

益田市誌(上・下巻)昭和五十三年六月三十日 発行
編纂者 益田市誌編纂委員会
発行者 益田市

明治時代の扇原関門画像 益田市誌


明治時代の扇原関址と静江の墓(円内)(明治43年5月15日の石見実業時報から)という画像情報があります。

『明治時代の扇原関址と静江の墓(円内)』…円が確認できないのですが、岸静江国治の墓は当初は扇原関門跡地にあったようですね。
そして、この画像は、旧街道上の向井横田側から撮影したと思われます。

このモノクロ写真を見ると、(現在の薄暗い感じのする扇原関門跡と比べ)随分、全体的に開けて明るい感じです。大きな松らしき樹木も確認できますね。…「ここにかつて関門(関所)があった」という雰囲気があります。

【余談記事:かつて乃木希典陸軍大将が益田の地に!?】
益田市誌(下巻)には、益田戦争における戦死者に関する記述(「征長の役の戦死者」P214)があり、ここで新たな史実を知りました。

長州藩の戦死者の中に乃木三蔵という方がおられたそうです。この方はあの乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将の従兄弟にあたる方だそうです。そして、乃木希典陸軍大将が第三軍司令官として旅順攻撃を指揮した翌々年の明治三十九年には(乃木大将)御自ら益田市の妙義寺山内の従兄弟の三蔵氏の墓を詣でたと…かつて、この益田市の地にかの、乃木希典大将が!!…驚きでした。

乃木三蔵が戦死したのは1886年6月17日。この日は扇原関門での戦い(岸静江国治が戦死した日:1886年6月16日)の翌日です。益田市の萬福寺(益田市東町25-33)での戦闘乃木三蔵は戦死したということです。

扇原関門と岸静江国治の最期 吉田軍人会による記述

益田市誌に昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述がありました。

「徳川幕府ノ末期、天下挙ッテ騒然タルノ時、岸静江源国治、浜田藩ノ命ニ依リ、我ガ扇原関門ヲ預リ往ス。斯テ長州再征ノ役起ルヤ、時ハ慶応弐年六月十六日、幕軍ノ西下ニテ先チ、長軍ノ一隊、東進スベク来襲シテ開門ヲ請フ。然ルニ靜江、只管命ノ重キヲ奉ジ、頑トシテ之ヲ肯ゼズ。而モ敵ハ、奇兵ノ大勢ナリ。爰ニ於テ、既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。サレド奈何セン、剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。為ニ敵兵ヲシテ、大ニ之ヲ訝ラシメ、暫シ進軍ヲ躊躇セシム。其層壮烈人咸感嘆セザルナシ。亨年三十一歳。 昭和八年四月二十五日、靖国神社ニ合祀。」

益田市誌(下巻)P213~214より引用

昭和五十三年六月三十日 発行 編纂者 益田市誌編纂委員会 発行者 益田市

「既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。」何度読んでも感動的です。

「剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ…」岸静江国治は「十字長槍」の達人だったんですね!「十字長槍」ってどんな槍なのでしょうか?

「既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。」…この部分の話!!…昭和時代に益田市が「花神」で盛り上がっていた頃、学校の先生からも聞いたお話でした。(岸静江国治の最後は他にも色々な説があるそうです)


また益田市誌(下巻)P214には「関址に建てられた静江の碑」として、

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)で掲載した「岸静江 戦死之地」の碑の画像(モノクロ)も掲載されています。

これは現在の「岸静江 戦死之地」の碑

岸静江 戦死之地の碑


【画像は2009年10月撮影】
この「岸静江 戦死之地」碑には、この文字を書いた方の名前が併記されています。

陸軍中将 野島忠孝 書』とあります。

軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』によると、

野島 忠孝(のじま ちゅうこう)
官位 : 陸軍中将
主な補職 : 歩兵第10旅団長
兵科 : 歩兵
学校 :士官生徒8 陸大8
出身地 : 島根県
生歿年 : 元治1年9月6日 - 昭和19年3月13日

野島忠孝陸軍中将とはどんな方なのか?調べてみたのですがあまり詳しくはわかりませんでした。ただ、野島忠孝陸軍中将の「像」は島根県の浜田市にあるそうです。(詳しい場所は不明)

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)

今回は益田市指定文化財 扇原関門跡(おうぎはらかんもんあと)、
場所は「岸静江国治の墓」(益田市指定文化財)から山道を歩いて約10分。薄暗い林の中の上り坂(途中から未舗装)進むと「扇原関門跡」が見えてきます。

扇原関門跡 遠景 益田市多田


逆光で最初は一瞬「人影」かと思いました。
近寄ると、それは石碑でした…「岸静江 戦死之地(岸静江が戦死した場所)」と記されていました。

岸静江 戦死之地


そばに「扇原関門跡」に関する案内看板がありました。

扇原関門跡 案内


益田市指定文化財
扇原関門跡

 元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
 慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。

   圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。

益田市
益田市教育委員会


「圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ…」岸静江国治の伝説的な壮絶な最期の姿です。


扇原関門跡が「跡」と呼ばれる痕跡。
扇原関門跡 石垣石碑「岸静江 戦士之地」の後方からもと来た道に沿って、このような石積み、石垣あります。
何らかの関所、防御陣(建物)があったようです。













さらに旧街道方向に歩いていくと「浜田藩」と「津和野藩」の藩境を示す2本の石柱がありました。

浜田藩


「從是北濱田領」…これより北は浜田藩の領地

津和野藩


「00南津和野領」…(解読不能)南は津和野藩の領地
旧街道をはさんで配置されている2本の石柱…ここが「石州口の戦い」の口火となった場所。当時の緊張感を一瞬感じました。
【画像は2009年11月撮影】

MAP・場所:益田市指定文化財 扇原関門跡


「石州口の戦い」岸静江国治を偲ぶ(益田市 多田町)

益田市多田町の扇原関門(おうぎはらかんもん)遺跡、「石州口の戦い」があった場所です。

扇原関門に通じる山道の入り口付近、舗装道路の反対側に「お墓」があります。


岸静江国治という人物のお墓(益田市指定文化財)です。
まずは、「岸静江国治のお墓」に纏わるお話し。

「岸静江国治の墓」案内


益田市指定文化財(昭和46年6月21日)
岸静江国治の墓

 慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。
 昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

昭和五十二年四月
益田市
益田市教育委員会

※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…凄い人物ですね…勝ち目のない玉砕必至の戦いならば「いらぬ犠牲者を出したくない」という「長」としての考え方。

「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」といいたいところですが…正直、私もこんな決断ができるか…自信は殆どありません。


 この岸静江国治という人物…石見人にも凄い男がいたものだ!と一瞬感動したのですが、後で調べてみると、上野国(こうずけのくに)…現在でいえば「群馬県の館林(たてばやし)」の出身とのことでした。


現在の「岸静江国治の墓」とその周辺の様子

岸静江国治の墓 周囲 益田市多田町


私が二十数年前に初めてこの場所に来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも薄暗くとても静かだったと記憶しています。今では、こんな立派な道路ができています。

岸静江国治の墓と道路


【画像は2009年10月撮影】

MAP・場所・航空写真:岸静江国治の墓



【追記】
30数年位前には市内に「NHK大河ドラマ『花神』の舞台…」といった雰囲気の大きな看板がありました。益田市の中高年の方なら覚えている人は多いはず。