益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

小野地区

「柿本人麿伝承岩」(その2.聖なる岩)(益田市 小野地区)

前回に引き続き益田市の小野地区にある「柿本人麿伝承岩」について、
柿本人麿伝承岩とよばれる2つの大きな岩。「足型岩」と「聖なる岩」
「足型岩」については前回の投稿をご参照ください。
>>「柿本人麿伝承岩」の秘密(その1.足型岩)(益田市 小野地区)

「聖なる岩」の場所と画像


さて、今回は「聖なる岩」について
この岩は、「足型岩」から、500m。元気な人で徒歩5~6分程度の場所にあります。
(上り坂で、未舗装ですが、道幅は広いです。)
※参照ページ↓
>>「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

「聖なる岩」はこんな感じです。(2~3年ぐらい前に撮影した画像です。)

聖なる岩と筆柿 益田市 戸田


>>「聖なる岩」の傍の「筆柿」の謎(益田市 戸田)

「聖なる岩」の伝承について


今回も「益田の民話」より知ることができました。(以下、抜粋要約)

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今から1300年以上前(…つまり7世紀ごろ。)
この地に突如、7~8歳の子どもがあらわれた。
その子は、「家もなく、両親もない。和歌の道のみ知っている。」と。

ある日、近くの山へ連れて行ったとき、その子はこの岩にあがり、
手に持った鎌の先で歌のようなものを刻んだという…

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【参照書籍「益田の民話」(2002年3月25日 益田の文化を育てる会)
P36~P37「人麿が鎌で刻んだ岩」より】

なるほど!そういうこと(伝承)だったのですネ。

次回、この「聖なる岩」に行ったときには、人麿さんが幼いころ鎌で刻んだという歌(のようなものが)見つかるかもしれません。※人麿さんの時代からして(まだ平仮名がなかったころだから)「漢字」で刻まれているはずです。

編集後記…益田市のような地方・無名の郷土歴史の学び方

益田市のように、地方で無名の地域では歴史的なもの伝承・伝説的なものに触れる機会がかなり少なくなります。しかも現状の益田市の地元メディアでも露出度はかなり低いため一般の益田市民には「知られざる」ものとなる傾向があります。

ただ、歴史的な遺跡や伝承物の意味や価値は、歴史的な情報(伝承)を何かのはずみで(笑)知ることができれば、不思議と目にはいってくるもので…地元、益田市の歴史からはじまり郷土に対する愛情も芽生えてくる市民もいるはずです。 


いいかえれば、いくら「歴史的価値がある」というモノでも、歴史的な情報(伝承)について、「無知」「未知」であれば、これといって、深く感じるものがありません。

実は、前回の「足型岩」も、事前に「9歳ごろ足跡のような窪み」という情報を得て、やっと、目に入ってきたんです。今は「なぜ、ここで、こんな伝承が生まれたのか…!?」その背景を探ることも私にとってはテーマになっていますよ♪(5年かかりました(汗)) …要は「きっかけ」ですネ。

「柿本人麿伝承岩」の秘密(その1.足型岩)(益田市 小野地区)

2つの「柿本人麿伝承岩」

益田市の戸田地区には柿本人麿伝承岩とよばれる大きな岩が2つあります。
2つの岩は「足型岩」と「聖なる岩」とよばれています。
私、ここにはかれこれ、4~5回は訪れていますが、

毎回疑問に思うこと…

「どういう理由で『足型岩』とか『聖なる岩』とよばれるようになったのか?」
>>「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

と疑問を抱えつつも、とりわけ深く調べるわけでなく、気づけば5年近くたっていましいた。

今回、やっと「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)の伝承の
内容わかりました♪今回は、まず「足型岩」について情報をシェアすることにしました。

「柿本人麿伝承岩」についての「伝承」…「足型岩」

まずは、「足型岩」の画像。撮影は2014年5月

柿本人麿伝承岩 足型岩 全体 益田市 小野地区


この画像を撮影した時点で、私が「足型岩」について知っていたことは、
人麿の「足型岩」は、

人麿の「幼少時の足跡の窪み」がある岩…ということ。のみでした。
(「伝承」としては少し魅力を感じませんネ)


(上の画像で、「幼少時の足跡の窪み」ってわかりますか?…実は、私、この画像の撮影時、初めてそれらしき窪み(2か所…両足分)に気づきました。 この記事の最後に拡大画像を掲載しておきます。)

「足型岩」の伝承とは!?

つい先日、私が尊敬する知人から「益田の民話」という絵本を貸してもらい、偶然にもその絵本の中に「足型岩」の伝承の記述があったのです!!

内容(要約)は以下のとおりです。
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足跡は人丸が9歳のころとのこと。
家の人と草刈りに行ったときはいつも(この)岩の上で遊んでいたと。
そして、一仕事終えた家の人が、人丸に「もう帰ろう」と。
すると、人丸さんは「おい」と叫んで手を三つ叩いたら…なな、なんと!!

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…続きは以下の「益田の民話」サイトで確認してくださいまし♪
⇒益田の民話「人丸さん」
(書籍は益田市の図書館とか高津公民館にあるはずです。)

【参照書籍「益田の民話」(2002年3月25日 益田の文化を育てる会)P35「人丸さん」より」】

「足型岩」の足型について

(今回は、あくまで、私なりの解釈ですョ)

おまけ画像として、私が「これが足型だろうなぁ」と感じた部分を拡大して掲載しておきます。

柿本人麿伝承岩 足型岩 足型部拡大 益田市 小野地区

あなたには見えましたか?

◆もう一つの伝承岩:「聖なる岩」
>>柿本人麿伝承岩その2「聖なる岩」についてはコチラ

編集後記…「ひとまろ」は「人麻呂」?「人麿」?
益田市では柿本人麻呂は柿本人麿と表記することが一般的です。
その理由について、地元、島根県や益田市で著名な歴史家の方々の説を耳にします。
ですが、わたくし的には腑に落ちる説明はありません。

ただ、私がいろいろ益田市の歴史、特に高津柿本神社を調べていくうちに、(現時点では仮説ですが)ヒントをみつけました。
今しばらく時を要すると思いますが、いずれこのサイトで公開しますネ♪