益田市多田町の扇原関門(おうぎはらかんもん)遺跡、「石州口の戦い」があった場所です。

扇原関門に通じる山道の入り口付近、舗装道路の反対側に「お墓」があります。


岸静江国治という人物のお墓(益田市指定文化財)です。
まずは、「岸静江国治のお墓」に纏わるお話し。

「岸静江国治の墓」案内


益田市指定文化財(昭和46年6月21日)
岸静江国治の墓

 慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。
 昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

昭和五十二年四月
益田市
益田市教育委員会

※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…凄い人物ですね…勝ち目のない玉砕必至の戦いならば「いらぬ犠牲者を出したくない」という「長」としての考え方。

「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」といいたいところですが…正直、私もこんな決断ができるか…自信は殆どありません。


 この岸静江国治という人物…石見人にも凄い男がいたものだ!と一瞬感動したのですが、後で調べてみると、上野国(こうずけのくに)…現在でいえば「群馬県の館林(たてばやし)」の出身とのことでした。


現在の「岸静江国治の墓」とその周辺の様子

岸静江国治の墓 周囲 益田市多田町


私が二十数年前に初めてこの場所に来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも薄暗くとても静かだったと記憶しています。今では、こんな立派な道路ができています。

岸静江国治の墓と道路


【画像は2009年10月撮影】

MAP・場所・航空写真:岸静江国治の墓



【追記】
30数年位前には市内に「NHK大河ドラマ『花神』の舞台…」といった雰囲気の大きな看板がありました。益田市の中高年の方なら覚えている人は多いはず。