益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

十字槍

岸静江国治の十字長槍と扇原関門の様子を知る(益田市 多田地区)

益田市誌で見つけた「昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑」における歴史的「碑文」…「岸静江国治の戦死の姿態」…岸静江国治の最期の描写。

『剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。』

※全文はコチラ>>扇原関門と岸静江国治の最期 吉田軍人会による記述

この碑文の中に、岸静江国治が「十字長槍ノ達人」とあります。

実は、私はこれまで、岸静江国治の「十字長槍」…そのイメージを具体的に思い描く事ができませんでした。
ですが、最近になって、やっと(偶然に)岸静江国治の「十字長槍」を描写した絵の存在を知りました。
益田市のお隣の市…浜田市の歴史的資料『浜田会誌』にありました。

岸静江 扇原関門の図 浜田会誌より

岸静江 扇原関門の図(『浜田会誌』第3号より)

この絵からは「十字長槍」の形状がわかります。

しかも、当時の扇原関門の様子、建物施設とかの配置を確認できる絵ですね。

山とかの地形等々から判断して、おそらく、長州軍が侵攻した方向、街道の「(現、益田市の)横田地区側からの「構図」であろうと考えられます。

扇原関門と岸静江国治の最期 吉田軍人会による記述

益田市誌に昭和八年に吉田軍人会によって建てられた記念碑の碑文…岸静江国治の戦死の姿態(諸説あるうちの一つとして)に関する記述がありました。

「徳川幕府ノ末期、天下挙ッテ騒然タルノ時、岸静江源国治、浜田藩ノ命ニ依リ、我ガ扇原関門ヲ預リ往ス。斯テ長州再征ノ役起ルヤ、時ハ慶応弐年六月十六日、幕軍ノ西下ニテ先チ、長軍ノ一隊、東進スベク来襲シテ開門ヲ請フ。然ルニ靜江、只管命ノ重キヲ奉ジ、頑トシテ之ヲ肯ゼズ。而モ敵ハ、奇兵ノ大勢ナリ。爰ニ於テ、既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。サレド奈何セン、剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。為ニ敵兵ヲシテ、大ニ之ヲ訝ラシメ、暫シ進軍ヲ躊躇セシム。其層壮烈人咸感嘆セザルナシ。亨年三十一歳。 昭和八年四月二十五日、靖国神社ニ合祀。」

益田市誌(下巻)P213~214より引用

昭和五十三年六月三十日 発行 編纂者 益田市誌編纂委員会 発行者 益田市

「既ニ意ヲ決シタル靜江ハ、先ズ猟銃ヲ携ヘ、加勢ニ集エル付近ノ農民ニハ、旨ヲ諭シ退散ヲ命ジ置キ、挺身武装ヲ固メ、以テ防戦ニ之レ力ム。」何度読んでも感動的です。

「剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ…」岸静江国治は「十字長槍」の達人だったんですね!「十字長槍」ってどんな槍なのでしょうか?

「既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。」…この部分の話!!…昭和時代に益田市が「花神」で盛り上がっていた頃、学校の先生からも聞いたお話でした。(岸静江国治の最後は他にも色々な説があるそうです)


また益田市誌(下巻)P214には「関址に建てられた静江の碑」として、

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)で掲載した「岸静江 戦死之地」の碑の画像(モノクロ)も掲載されています。

これは現在の「岸静江 戦死之地」の碑

岸静江 戦死之地の碑


【画像は2009年10月撮影】
この「岸静江 戦死之地」碑には、この文字を書いた方の名前が併記されています。

陸軍中将 野島忠孝 書』とあります。

軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』によると、

野島 忠孝(のじま ちゅうこう)
官位 : 陸軍中将
主な補職 : 歩兵第10旅団長
兵科 : 歩兵
学校 :士官生徒8 陸大8
出身地 : 島根県
生歿年 : 元治1年9月6日 - 昭和19年3月13日

野島忠孝陸軍中将とはどんな方なのか?調べてみたのですがあまり詳しくはわかりませんでした。ただ、野島忠孝陸軍中将の「像」は島根県の浜田市にあるそうです。(詳しい場所は不明)