益田市飯浦町の人形峠(じんぎょう峠)
その最高地点の「駕籠立(かごたて)」から戸田方向に少し下っていくと、こんな案内板がありました。
白いボード状の素材に手書きによる「人形道碑」です。
この人形道碑の内容を知る事でこの道が「単なる旧道」といった感覚は無くなりました。

人形道碑 益田市人形峠

人形道碑 (訳)東京作詞家 伊吹とおる


道はもと山の頂上にあって、非常に険しく、往来する人達にとっては、誠に難儀なことでありました。
庄屋、中島正喜は、その事を大変心配し、ひとつこれはなんとかしようと思い立ち、公の仕事として、人々を動員し、工事にかかりました。弘化三年(一八四六)冬から嘉永元年(一八四八)夏までかかって、道を現在地に移す工事を仕上げたのです。

今ではこの道を往来する人々は何の苦労もありません。以前の山道を知っていた人たちも、何かのはずみで、そのことを忘れてしまい、しかも中島庄屋を初めとする、力役に参加した人々の功績を知らないなど、まことに残念なことであります。

そこで、碑にそのことを刻み、残したいと思います。

山を切り開いて、道を移したというその効果、現在、人々が何の苦労も知らず往来できるという現実として現われていることは、仁(いつくしみ)というものは、剣よりも鋭く強いものであるということを知るべきだと思います。

中島庄屋とその労務に参加し労働を提供した人々の功績は忘れてはならないものであります。
良く心の中の眼のくらみをはらって、もう一度その功績というものをみつめようではありませんか。

明治十五年一月立碑 飯塚正おり書


重機など当然無い時代…しかもこの場所(現場)。…さぞや難工事だったでしょう。
「人形道」は片側は、覗いてみると真下に海と岩場…ほぼ垂直の険しい断崖です。

人形道からの海


「道はもと山の頂上にあって、非常に険しく、往来する人達にとっては、誠に難儀なことでありました。」
どれほど「難儀」か、具体的にその位置的なものを確認してみましょう。

人形道と山頂

現在の人形道の「駕籠立(かごたて)」付近が赤矢印、「道はもと山の頂上にあって」という頂上付近が青矢印
当初は今の約3倍の高さを登る必要があったようです。
現在は、この山を「人形トンネル(国道191号線)」が開通しているのでさらに便利になっています。
「人形道」は既に「旧道」…「駕籠立(かごたて)」等の「景観スポットへの道」というのが主な役割でしょう・・・しかし、この人形道碑の内容を知れば、遠い昔、この道を往来したであろう多くの人々の「感謝の声」が聞こえてくるような気がするのです。
【画像は2008年12月撮影】