益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

三間社流造

益田市の染羽天石勝神社の本殿の現地の案内看板への疑問

今回も益田市の染羽天石勝神社(式内社)についての投稿です。

前回の投稿で、

「益田市の染羽天石勝神社の本殿(染羽町1-60)と春日氏」

にて染羽天石勝神社の本殿の案内看板について言及しました。

染羽天石勝神社本殿 説明

問題個所↓

本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(おも)の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ、両側のみに高欄付の縁をもちます。

と「益田市の教育委員会」作成の看板には記述されていますが…

染羽天石勝神社の本殿 側面

どうみても、身舎(おも)の側面は2間!・・・私は「土木」の世界しか知りませんが…(建築知らなくても)見ればわかります。

実は、これは、文中の「の」を「。」に修正することで「染羽天石勝神社の本殿」の(より)正確な「お姿の表現」となります。

すなわち、


本殿は三間社流造で、三間×三間身舎(おも)の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ・・・

であれば、完璧ではないです。が…(かろうじて)まぁいいか的記述に修正できます。

そもそも、三間×三間の身舎(おも)で「流造」を造ろうとするなら、
一般の三間社流造のデザイン&バランスを維持することを前提とすれば、前方の張り出した屋根の部分(特に柱による支持がない部分)が長大になるため、強度をもたせる必要があります。
これは、木造では相当な仕掛け(工夫)が必要です。

私にはそんな建築構造的仕掛け(工夫)…想像できません。


といいますか(スイマセン・・・率直に語るべきでした。)

染羽天石勝神社の本殿は前三間×横二間の基本的な作りです。

一体どうして、「本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(もや…意味は「母屋」とほぼ同じ)」という記載を看板にしたのでせうか?

なにより、益田市の染羽天石勝神社の本殿。天正9年(1581年)に消失し再建された建物ですが、

なぜ!板面をさいてまでも、「三間×三間の身舎(もや)」という事、そして・・・両側のみに高欄付の縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。

って、特筆すべきことなのでせうか?…私はどうしても、特筆に値することとは思えないのですよ。

実は、今日も、青空だったので、お昼の時間に、益田市の染羽天石勝神社へお参りに行きましたが、もっともっと魅力的なモノがみつかるんですネ。

それは、今後、記事掲載するとして。


シンプルに益田市の染羽天石勝神社の本殿は天正年間、否、16世紀から残っている「歴史的建造物」。
それだけで十分価値は伝わるのではないでしょうか?

今回の益田市の染羽天石勝神社の本殿に関する「益田市の教育委員会」作成の看板にみられるような、事実と違うこと、誤った価値観などを軽率に看板に載せると、見る人は「無意識レベル」で違和感を覚えるものです。


ですから、「凄い!」とか「感動!」は残らず、「え~、なんで…意味ようわからん!?」といった感覚だけが残りますでしょ!?


「うんうん、それは分かった!じゃが、なにもそこまで細かい事までいわんでもエエじゃろう!?」


と思う人もいるでしょう。

でもね、「染羽天石勝神社の御本殿」は、国指定重要文化財なのですのであえて厳しいお話をさせていただきましたわけです♪

益田七尾山 住吉神社「本殿」を拝観(益田市七尾町)

前回は、益田市七尾町の住吉神社の「随身門」と「拝殿」をご案内しました。
※ご参照⇒益田七尾山 住吉神社の随身門と拝殿
今回は住吉神社の「本殿」をご案内いたします。

住吉神社の「本殿」:三間社流造 一間(唐風)向拝付き


「益田七尾山 住吉神社」の「本殿」は、拝殿の前を進み、朱色の連鳥居が施された石段を上がることで間近で拝見できます。
益田七尾山 住吉神社 本殿

全体的にとても雄大かつ精緻な造りの本殿です。(三間社流造ですが、前面に2本の柱で支える形で一間唐風屋根の向拝(階隠し)が伸びているのが印象的です。)

本殿の造り…匠の技の結集!! 出組(一手先)斗栱。大瓶柄さらに、蟇股、懸魚…


益田七尾山 住吉神社 本殿の構造的魅力
出組(一手先)斗栱(ときょう)で軒出しが深い…雄大さのための構造!!大瓶柄(たいへいづか)…なんと両側と手前3か所に、掛け獏木鼻が施されています!! 蟇股(かえるまた)の内部に精緻な彫刻。懸魚(げぎょ)…と、あげればきりがないです。
素晴らしい!!精緻で美しい匠の技の結集ですネ…ありがとうございます♪

ふと疑問?…「花菱の紋」

ふと疑問に思ったのが…本殿の屋根に見た「花菱」の紋
益田七尾山 住吉神社 花菱の紋

益田氏の神社なら「のぼり藤に久」か「丸に九枚笹」の「紋」であるはず… 例えば、益田市の式内社 櫛代賀姫神社の屋根には「のぼり藤に久」
 ※ご参照⇒石見 式内社 櫛代賀姫神社 を拝観 その2(益田市 久城町)
う~ん…何故なんだろう「花菱」の紋って何家なんだろう…?

現在の住吉神社の本殿と拝殿について

益田七尾山 住吉神社 御神徳記によると、
現在の御本殿 拝殿 参道は昭和49年 天皇 皇后両陛下金婚の御儀を記念し氏子崇敬者の尊いご協力御浄財により三ヶ年の歳月を要しご改築申し上げたものであります。
と記載されていました。
住吉神社 改築の記録

「益田七尾山 住吉神社」の本殿や拝殿は、改築前、そして建久3年(1192年…源頼朝が征夷大将軍に任官された年)の築造当初は一体どのようなお姿だったのか興味がわきます。

現在の「益田七尾山 住吉神社」本殿・拝殿ともに西北西を向いています。この地にて、この方向は益田市の市街地平野部とその先の広大な日本海を最も広く眺めることができます。
益田市 住吉神社の拝殿前からの市街地の風景

MAP・場所(航空画像):住吉神社

櫛代賀姫神社 その1(益田市内の式内社を訪ねて)

櫛代賀姫神社(くししろかひめじんじゃ)

「益田市内の式内社を訪ねて」第1番目は『櫛代賀姫神社』

櫛代賀姫神社 益田市


櫛代賀姫神社(くししろかひめじんじゃ)
場所:益田市久城町963
祭神:櫛代賀姫(くししろかひめ)
   応神天皇(おうじんてんのう)第15代天皇

櫛代賀姫神社の「起源」と、「式内社」になったのは「いつ」かについて調べてみました。資料は宮司様からいただいた『石見式内 櫛代賀姫神社略記』で、その「由緒沿革」によると

・祭神は櫛代族の租神にして天平5年丑(うし)5月(733)管長の命により社殿設立。
大同元年(806)石見観察使、藤原緒継が鎌手大浜浦より現在地、久城明星山に御遷座。
人皇第54代仁明天皇の承和7年申8月(840)再建爾来延喜式所載の神社として朝野の尊崇深く…(以下略)

という経緯だそうです。

櫛代賀姫神社 拝殿正面 益田市
【櫛代賀姫神社 拝殿正面】

櫛代賀姫神社はいつごろ「式内社」となったのか?

櫛代賀姫神社はいつごろ「式内社」となったのでしょうか?

櫛代賀姫神社由緒では
・当初(733年)は(益田市の)鎌手地区に設立された。
・806年に現在地(久城明星山)に御遷座(移設)
・840年の再建時に延喜式所載の神社となった。…とあります。


また、櫛代賀姫神社の歴史については櫛代賀姫神社奉賛会による「櫛代賀姫神社 壱千弐百年式年大祭 記念誌」には以下の記述がありました。


櫛代賀姫神社の歴史

 和泉国から当地へ移住した櫛代族は、祖神櫛代賀姫命を奉祭し、天平5年(733年)には管長の命により社殿が建立されました。大同元年(806年)に石見国観察使の藤原緒継によって鎌手の大浜浦から久城の緒継浜に遷宮され、承和7年(840年)に再建されました。その後、万寿3年(1026年)に大津波によって流失したため、現在地の明星山に移転建立されたといわれています。
 平安時代の延長5年(927年)に完成した『延喜式』の「神名帳(官社帳とも呼ばれる)」に美濃郡五座のひとつ
として書き上げられ、いわゆる式内社として長い歴史を有しています。

櫛代賀姫神社 壱千弐百年式年大祭 記念誌 櫛代賀姫神社奉賛会
P6 櫛代賀姫神社の歴史より引用


※上記2つの史料では、現在地の明星山に移設された時期が異なることは気になります。が、延喜式所載…式内社となったのは承和7年(840年)と考えられます。

「本殿」は国登録有形文化財(建造物)

櫛代賀姫神社の本殿(明和2年(1765)造修築)は平成25年6月1日に国登録有形文化財(建造物)に登録されています。

櫛代賀姫神社 本殿  益田市内の国登録有形文化財(建造物)

三間社流造

三間社流造(さんげんしゃながれづくり)
屋根の形状は「流造(ながれづくり)」で正面に柱が4本(三間)となっていますので「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」といえます。

櫛代賀姫神社 三間社流造


※正面上部の部材…木鼻に一部薄く朱色が残っているのでこの本殿は本来は「朱塗り」であったことがわかります。

★屋根は「銅板葺き」です。

櫛代賀姫神社の本殿 屋根 銅板葺き


MAP:櫛代賀姫神社 益田市久城町963

※因みに、この櫛代賀姫神社の本殿は、益田市内2番目の国登録有形文化財(建造物)です。
(1つは益田市立歴史民俗資料館(旧美濃郡役所)です。)
>>益田市の「歴史民俗資料館」の歴史(益田市本町)

次回は益田市の櫛代賀姫神社の現在の様子と私が感じた魅力についてレポートします。