益田市の七尾町にある「益田兼堯」の像。
この「益田越中守兼堯公像」は益田市観光協会にて平成四年に設置されたとの事です。
今回は、この「益田兼堯」像の傍にある御影石の石碑(記念碑)の内容をご紹介します。
益田越中守兼堯公は益田城第十五代当主で益田氏中興の英主である
幼くして総領職と家督を継ぎ石見地方切っての豪族となる
寛正二年畠山義就と嶽山で戦い戦功により引付衆の一員となり応仁の乱では大内政弘に属して西軍に加わり大内道頓の反乱では女婿陶弘護を助けて鎮定した
また深い文化の庇護者で山口雲谷庵より雪舟を招き中世文化を開花させた
雪舟筆「益田兼堯像」や醫光寺萬福寺庭園は兼堯に対する報恩の表われである
文明十七年菩提寺であの万歳山妙義寺塔頭 大雄庵で死没 法名は大雄院殿全国瑞兼である
(以下略)
平成四年十月二日
益田市観光協会
「幼くして総領職と家督を継ぎ石見地方切っての豪族となる…」益田兼堯の人生にも、いろいろ興味深いエピソードがありそうですネ。
益田兼堯の自信に満ちた表情。目力。…この像の作者は誰かは調べていませんが、きっと、益田兼堯の人生・境遇等々より導き出した姿ではないか?と思いました。
この日、この碑より、益田兼堯も含め「益田氏」について、本格的に調べてみたくなりました。
Wikipediaでの「益田兼堯」の記載事項も掲載(引用)しておきます。
益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年5月23日(1485年7月14日))は、室町時代後期の武将。石見の国人領主益田氏当主で第15代益田城城主。益田兼理の子、常兼の弟。貞兼、兼久、女子(陶弘護妻)の父。官位は越中守。
永享3年(1431年)、父と兄が大内盛見に従い九州の少弐氏、大友氏と戦い、盛見と共に戦死したため家督を継いだ。以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず室町幕府とも直接誼を通じ、着実に戦功を積み勢力を拡大させた。応仁の乱の際は大内政弘に従い西軍に属し、文明2年(1470年)の大内教幸(道頓)の反乱の際には、婿の陶弘護を支援し石見の有力国人の吉見信頼らを制圧した。一方で、東軍の細川勝元とも通じていたとされる。晩年は子の貞兼に家督を譲って隠居した。
雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像(益田市立雪舟の郷記念館蔵)は国の重要文化財に指定されている。
Wikipedia「益田兼堯」より引用