益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の伝承・伝説

染羽天石勝神社の幻の滝…「清滝」(益田市染羽町)

益田市の『染羽天石勝神社』には、かつては「滝」があったという話のつづきです。

その場所は、国指定重要文化財でもある『染羽天石勝神社本殿』に(向かって)右、正確には右下です。


今でも、その名残はあるわけですが、(前回の投稿でもお見せしましたが)流れ落ちる水量はさほど多くはありません。

染羽天石勝神社の清滝(益田市染羽町)

今回は、ここ益田市の『染羽天石勝神社』のかつての「滝」について、久しぶりに「益田市誌」で調べてみました。

まずは、江戸中期のころの『染羽天石勝神社』境内の様子がわかる図面

滝蔵権現者境内図


滝蔵権現者境内図(江戸中期)
出処:益田市誌 (昭和50年12月20日発行)
上巻 P344

図面内に「清滝」(赤いOで囲んでおきました)という記載があります。

江戸期の後期、当社東側の岸壁へ、付近にある溜池の水を小溝によって導き、滝水として落としている。
世に清滝、又は白糸の滝と呼ぶのがこれである。

出処:益田市誌 (昭和50年12月20日発行)上巻 P345

上の図面が滝蔵権現者境内図が江戸中期ごろで、下の引用文が「江戸期の後期…」から始まっていますが、中期にすでに清滝は記載されています。

益田市誌内で、すでに矛盾があるわけですが、貴重な史料であることには間違いありません。


とにかく、私が知りたかった
『染羽天石勝神社』の幻の滝の名は「清滝」という名であったことがわかりました。


また、「付近にある溜池の水を小溝によって導き、滝水として…」という部分から、「清滝」は人工的に造られた滝であることも知ることができました。

では、なぜ、現在は水量が減ったのか?・・・
については、(詳細はわかりませんが)開発(東高の野球のグランド?)により消失したとききます。
(水源が無くなったわけです。)

であれば、「清滝」古い写真の1枚や2枚は益田市内のどこかに存在しているかもしれませんネ!?


大雨の日には、「清滝」が現れる!?



染羽天石勝神社の御神職様によれば、
「今日は(清滝は)こんな感じですが・・・大雨の日にはこの滝を流れ落ちる水量はかなり増しますよ。」

と、なんか嬉しい話がありました。

「えっ、じゃあ、今度は大雨が降っているときに是非、この「清滝」の真の姿を見たいものですね♪」


と思わず話したところ、


「ええ…ただし!水だけではなく、木の枝や、岩が落ちて来ますのでとても危険です!! 絶対に近寄らないでくださいネ!」

とのことでした。・・・「ハッ、ハイ!了解いたしました(汗)」

というわけで、

(万一)大雨の日に、染羽天石勝神社の「清滝」を見学する際には、滝には近寄らず、遠い場所からにしてくださいませ。

益田市高島の「お伊勢物語」の内容を比較してみた(高島脱出編)

益田市の土田海岸沖2㎞にある「伊勢島(いせじま)」
益田市の伝説「お伊勢物語」で、高島から泳いできた、お伊勢(イセ)が命をおとしたといわれる島(岩礁)です。

伊勢島と鳥の群れ 益田市の風景

「お伊勢物語」の内容は、


①『まんが日本昔ばなし』
②『石見舟歌に生きる「おイセ」の物語』(益田市鎌手にある案内板)
③『謎の高島<復刊>』
④『益田の民話』


それぞれで、異なった描写がされています。今回はお伊勢が津田村への望郷の念がピークに達し、高島から三里(12㎞)はなれた津田村まで「泳ぎ出す」…高島脱出という行動に出るまでの内容(プロセス)について比較してみました。


地元、益田市での「お伊勢物語」では・・・

高島の風景 益田市


一周一里(約4㎞)といわれる高島の周りの海を3周(四里、約12㎞)泳げれば津田村まで戻ることができる。それを知ったお伊勢は、三周泳げるかどうかを試す。」というくだりがあります。


実は、『まんが日本昔ばなし』の「お伊勢物語」では、この内容(情報)はありません。


①『まんが日本昔ばなし』の「お伊勢物語」

(お伊勢は、毎日、毎日、迎えの船を待っていた。そして、ある日、あん様に「父母に会いとうなりました。すぐ帰ります。」と手紙を残し家を出た。)

その朝は、そのころにしてはめずらしく海は凪いでおった。
きのうと同じように海鳥が楽しげに舞い。
津田の村に向かって羽ばたいていった。

お伊勢は海に入ると、津田に向かって力いっぱい泳ぎだした。
海辺で育ったお伊勢には、三里はなれた津田村まで泳ぐ自信があった。…
(『まんが日本昔ばなし』No.0958の「お伊勢物語」)


以下②案内板『石見舟歌に生きる「おイセ」の物語』、③『謎の高島<復刊>』では、表現こそことなりますが、

高島の周りを三周泳いぐことができた。そして、喜びのあまり、そのまま津田村に向かって泳いで行った。

という内容は共通しています。


②益田市の鎌手にある案内板、『石見舟歌に生きる「おイセ」の物語』

石見舟歌に生きるおイセの物語(拡大)




ある日、島の周囲は一里(4キロ)あり、三周できると対岸に泳ぎつけることに気づいた。
波静かな日、おイセは試みに泳いだところ、島を三周することができた。
「これで帰ることができる」という喜びに疲れも忘れ、
そのまま対岸を目指し泳ぎ始めた。


③矢富熊一郎先生の著書『謎の高島<復刊>』

謎の高島




(それは)島の周囲が一里、対岸荒磯までの距離が、三里ほどあるのだから、
島の周囲を泳いで三周することが出来たら、対岸への到着は、大成功だと信じたからである。
腕に覚えのある彼女は早速これを決行にうつした。
ある天気静穏な日を選び、先ずその準備行動として、遂に島を泳いで三周することに成功した。

喜びに身をふるわせた彼女は、前後を忘れるほどの有頂天さであった。そして疲労の事も何も考えないで、そのまま対岸目指してまっしぐらに突進した。…

(『謎の高島<復刊>』第二章「高島の一瞥とおいせの伝説」P8より引用)


高島の周りを三周泳いぐことができた!! そして、喜びのあまり、そのまま津田村に向かって泳いで行った。…お伊勢はよほど望郷の念が強かったのでしょう。そしてとても嬉しかったのでしょう。


④『益田の民話』では、「三周泳ぐことができた、そして、そのまま津田村に向かって泳ぎ始めた」のまえに、泳力をつけるために毎晩トレーニングしていたという内容があります。


④『益田の民話』(2002年3月「益田の文化を育てる会」)

益田の民話 益田市の伝承・伝説資料



どれくらい泳げばよいかけんとうがつかない。
そこで島の人に、「自分の親もとまでは何里ぐらいあるんじゃろうかねえ」
と聞いたところが、「まあ、三里じゃろうねえ。」というんじゃあ。
「三里じゃとすると、この島が一里じゃから、三回泳いでまわれたら家に帰れることになる。」と思ったお伊勢さんは、それから毎晩泳ぐ練習をして、とうとう島を三周することができたんじゃ。

「これなら大丈夫。」と、うれしさのあまりそのまま親もとの方角に向かって泳ぎ出した。…

(『益田の民話』P50~51「お伊勢島」より引用)

※万一、今回の記事をここまで読んでいただけた方がおられたら…

「エッ!? アンタは、 お伊勢が「毎晩泳ぐ練習をして…を知ってほしくて、この記事を書いたんか?

あっ、はい、実は、『益田の民話』P50~51「お伊勢島」の内容こそが、私が記憶していた「お伊勢物語」だったのです。

私が小学生のころ、学校で見た「劇」での「お伊勢物語」の内容です。


※実は私、この劇をみて、長いこと

「お伊勢物語」は益田での本当の出来事だと思っておりました。


長文おつきあいいただき本当にありがとうございました。

益田市高島の「お伊勢物語」の内容を比較してみた(冒頭部編)


益田市の伝承・伝説で『まんが日本昔ばなし』にも取り上げられた「お伊勢物語」

前回は、益田市の土田海岸の沖約2㎞にある「伊勢島」の姿を中心にした内容を投稿しました。

※前回の内容はコチラ⇒益田市沖の伊勢島と『まんが日本昔ばなし』お伊勢物語の姿を見る

今回は、『まんが日本昔ばなし』を含めた3つの「お伊勢物語」の内容…微妙な内容の違いをとりあげます。

まずは、『まんが日本昔ばなし』の「お伊勢物語」
まんが日本昔ばなし~データベース~サイトで『まんが日本昔ばなし』での「お伊勢物語」を知ることができます。
※ご参照:『まんが日本昔ばなし』データベース

http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=958

実際に『まんが日本昔ばなし』No.0958の「お伊勢物語」放送日:1987年06月13日(昭和62年06月13日)をご覧になった事がある方はご存知だと思いますが、


冒頭部では、主人公である「お伊勢」がおかれていた状況(津田の村でとても貧しい家に育っていた)と高島に嫁ぐまでの経緯(いきさつ)がとても可哀そうなものとして具体的に描写されています。


・「お伊勢」の家は「(津田)村で一二を争うくらい貧しかった」
・一生懸命育てた作物(大根)も、みんなカラス達が先に齧っていく。(このシーンは特に可哀そう(涙))
・「お伊勢」は家族(老いた父母、幼い弟妹)の事を考えると、自分は一刻も早く嫁いでいかなければと感じていた…「口減らし」のためである。
・ある日、「お伊勢」の嫁ぎ先が決まる…(益田市沖の)「高島」だった。定期的な船の交通などなく、高島へ渡ってしまえば簡単には家族に会いに戻ることはできないという場所だった。


以上が『まんが日本昔ばなし』の「お伊勢物語」での内容だったわけですが、

益田市の鎌手にある案内板、『石見舟歌に生きる「おイセ」の物語』

石見舟歌に生きるおイセの物語(拡大)


また、
矢富熊一郎先生の著書『謎の高島』

謎の高島


さらに、
益田市内のいろいろな民話をあつめた大型本『益田の民話』(2002年3月「益田の文化を育てる会」)

益田の民話 益田市の伝承・伝説資料


以上、地元益田市の資料3つのには、一切、お伊勢が嫁ぐまでの情報、具体的な説明、描写はないのです!!


★順を追って確認してみましょう。

案内板『石見舟歌に生きる「おイセ」の物語』の冒頭は、

 津田村の娘おイセが高島の若者に嫁いだ。


矢富熊一郎先生の著書『謎の高島』の「おいせの伝説」の冒頭は、

ある年おいせと言う女が対岸の津田からこの島へ嫁いだ。


書籍『益田の民話』の「お伊勢島」での冒頭は、

お伊勢さんちゅう娘(むすめ)さんが、あの海の向こうに見える高島にお嫁にいったんじゃ。


「お伊勢物語」の地元、益田市の資料すべて、「お伊勢物語」の冒頭は、共通して…(いきなり)「「お伊勢」が高島に嫁いでいった。」という感じで始まっているのです。


あっ、今回の投稿、
『まんが日本昔ばなし』のストーリーテラーが素晴らしい!(脚本家の小国英雄 的な起承転結の構成で見事!)ということを、ことさら強調するものではありません。

むしろ、益田市の一次「的」伝承・伝説情報が、物語の「起」部が、なんで、こんなに、異常にシンプルなのか…

私は気になりました。

あなたはどうですか?…どんな、空想、仮説が湧きましたか?

もしよろしければ、コメントくださいまし♪


わたくし的視点では、あまりにもシンプルすぎる冒頭部の話は、

当時の益田あたりでは、津田村の貧しさは周知のとおりで、あえて具体的に表現しなくても…当時の地元益田では語り継がれるうえでは、十分理解されていたのでは…と。

高島と伊勢島と洞の鼻のこの風景…距離観。もしかしたら「お伊勢物語」は、実話ではないか?とも思えてきました。(高島から手前の砂浜まで約10㎞…ちなみに、高島から津田の海岸までは約12㎞)

益田市 高島 伊勢島 洞の鼻

益田市の「高島」と「伊勢島」そして「洞ノ鼻」付近の海岸(砂浜)の風景(撮影は2015年2月14日)

伊勢島が何処なのかわからん!という方向けに(説明付きで↓)
益田市 高島 伊勢島 洞の鼻 説明


※次は⇒益田市高島の「お伊勢物語」の内容を比較してみた(高島脱出編)です。

益田市沖の伊勢島と『まんが日本昔ばなし』お伊勢物語の姿を見る

益田市の日本海沖に「伊勢島」という島があることをご存知ですか?


今年(2015年)の2月、益田市の鎌手方面の散策は、実は「唐音水仙公園」が主たるテーマではなく、益田市の鎌手地区…土田海岸沖にあるという「伊勢島」確認のためのものでした。


「伊勢島」については、益田市沖の「高島」がらみの伝説「おイセの物語」としてご存知の方も多いのではないかと思います。


「え?おイセの物語…わしゃ、そんな田舎の話は知らん」

という方もいるでしょうが…


「あの『まんが日本昔ばなし』でも取り上げられた話だよ」

ということとなれば、少しは関心を持ってくれる益田市民もいるのではないでしょうか?


※ご参照:『まんが日本昔ばなし』データベース
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=958
⇒No.0958お伊勢物語 放送日:1987年06月13日(昭和62年06月13日)

今回は(まず、とりあえず)「伊勢島」の存在を確認する。ということを目的に投稿します。実は、「伊勢島」を確認するには、結構苦労しました。

私、益田市の鎌手地区には、地元に詳しい人の人脈がありません。


(事前にネットで調べたのですが)「伊勢島は益田市の土田海岸沖2㎞にある」という情報のみでした。


今年(2015年…平成27年)は2月8日(日)と14日(土)の2回、伊勢島の確認のために益田市の鎌手地区にいったわけですが。

初回(2月8日)は「伊勢島」…らしき「島」…というか「岩礁」は確認できましたが、それが、正しく「伊勢島」なのか!?全く自信がありません。


そこで、益田市の鎌手公民館(鎌手地区振興センター)に問い合わせてみました。

「お忙しいところ、本当にスイマセン。私、今、益田市の土田海岸沖にあるという『伊勢島』を探しているのですが、とんとわかりません。『伊勢島』ってどこら辺にあるのでしょうか?」

すると、男性の方が

「ああ、『伊勢島』ですか…ありゃ、「島」というか、「瀬」ですよ。」

「瀬?ですか岩礁みたいな?…異様な白波がたってる所でしょうか?」


「ハイ、ハイ、そうです。土田海岸沖では、瀬(岩礁)は1つしかないので、それです!!」


おおっ、さすが!!益田市の鎌手公民館(鎌手地区振興センター)!!


「土田海岸沖では、瀬(岩礁)は1つしかないので、それです!!」って言葉に勇気づけられ、2月14日(土)、晴れていて気温も10℃程度だったので、あらためて、益田市の鎌手地区にいったのであります。


そして、偶然にも、見つけました。「伊勢島にまつわる看板」…「石見舟歌に生きる「おイセ」の物語」


場所は、益田市市街地側から入って「唐音水仙公園」への道(おそらく林道)入り口をすぎ、土田海岸へ向かう下り坂途中。これです!(というか…前回投稿した場所と同じです(笑))

石見舟歌に生きるおイセの物語 案内板


正面から、左にあるのは、前回の投稿で掲載した、益田十景心に刻む 益田十景 鎌手のスイセンの里からみた高島』の看板です。
※参照⇒水仙の里と唐音水仙公園と益田十景の関係について(益田市鎌手地区の風景考)

石見舟歌に生きるおイセの物語の看板 全



この地点から確認した『伊勢島』と高島の「位置関係」

益田市高島と伊勢島の風景

もう少し近づいてみましょう(ズーム)

伊勢島1益田市風景


日本海の波しだいで、こんな風景も↓

伊勢島の風景 益田市2波


伊勢島3UMA 益田市風景

こんなの見たら、益田市の日本海にUMAがいるんじゃないかと…初めての人にはコメントされそうです♪

最後に、これが、倍率MAXで撮影した『伊勢島』の姿↓(撮影機種はNIKON COOLPIXP600)

伊勢島 益田市鎌手風景


案内板『石見舟歌に生きる「おイセ」の物語』の拡大画像

石見舟歌に生きるおイセの物語(拡大)


この島…岩礁で、おイセは息を耐えたと…(涙)

益田市の水仙の里「鎌手」。そして「唐音水仙公園」まできたのなら…ぜひとも、この、場所に来て、伊勢島と高島の風景も楽しんでくださいまし。


益田市の「伊勢島」の話、というか「お伊勢」について…
※ちょっと気になるところがあるので…
⇒益田市高島の「お伊勢物語」の内容を比較してみた(冒頭部編)

ご参照※「伊勢島(岩礁)の場所の画像」


※とてもわかりづらいかもしれませんが、画像の左下「洞ノ鼻」という場所から、北北西の沖に、小さな白い点があります。見えますか?位置的にも距離的にも伊勢島(岩礁)であると考えられます。
(私は最初パソコンのモニターについた「ほこり」かと思いました。)

「柿本人麿伝承岩」(その2.聖なる岩)(益田市 小野地区)

前回に引き続き益田市の小野地区にある「柿本人麿伝承岩」について、
柿本人麿伝承岩とよばれる2つの大きな岩。「足型岩」と「聖なる岩」
「足型岩」については前回の投稿をご参照ください。
>>「柿本人麿伝承岩」の秘密(その1.足型岩)(益田市 小野地区)

「聖なる岩」の場所と画像


さて、今回は「聖なる岩」について
この岩は、「足型岩」から、500m。元気な人で徒歩5~6分程度の場所にあります。
(上り坂で、未舗装ですが、道幅は広いです。)
※参照ページ↓
>>「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

「聖なる岩」はこんな感じです。(2~3年ぐらい前に撮影した画像です。)

聖なる岩と筆柿 益田市 戸田


>>「聖なる岩」の傍の「筆柿」の謎(益田市 戸田)

「聖なる岩」の伝承について


今回も「益田の民話」より知ることができました。(以下、抜粋要約)

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今から1300年以上前(…つまり7世紀ごろ。)
この地に突如、7~8歳の子どもがあらわれた。
その子は、「家もなく、両親もない。和歌の道のみ知っている。」と。

ある日、近くの山へ連れて行ったとき、その子はこの岩にあがり、
手に持った鎌の先で歌のようなものを刻んだという…

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【参照書籍「益田の民話」(2002年3月25日 益田の文化を育てる会)
P36~P37「人麿が鎌で刻んだ岩」より】

なるほど!そういうこと(伝承)だったのですネ。

次回、この「聖なる岩」に行ったときには、人麿さんが幼いころ鎌で刻んだという歌(のようなものが)見つかるかもしれません。※人麿さんの時代からして(まだ平仮名がなかったころだから)「漢字」で刻まれているはずです。

編集後記…益田市のような地方・無名の郷土歴史の学び方

益田市のように、地方で無名の地域では歴史的なもの伝承・伝説的なものに触れる機会がかなり少なくなります。しかも現状の益田市の地元メディアでも露出度はかなり低いため一般の益田市民には「知られざる」ものとなる傾向があります。

ただ、歴史的な遺跡や伝承物の意味や価値は、歴史的な情報(伝承)を何かのはずみで(笑)知ることができれば、不思議と目にはいってくるもので…地元、益田市の歴史からはじまり郷土に対する愛情も芽生えてくる市民もいるはずです。 


いいかえれば、いくら「歴史的価値がある」というモノでも、歴史的な情報(伝承)について、「無知」「未知」であれば、これといって、深く感じるものがありません。

実は、前回の「足型岩」も、事前に「9歳ごろ足跡のような窪み」という情報を得て、やっと、目に入ってきたんです。今は「なぜ、ここで、こんな伝承が生まれたのか…!?」その背景を探ることも私にとってはテーマになっていますよ♪(5年かかりました(汗)) …要は「きっかけ」ですネ。

「柿本人麿伝承岩」の秘密(その1.足型岩)(益田市 小野地区)

2つの「柿本人麿伝承岩」

益田市の戸田地区には柿本人麿伝承岩とよばれる大きな岩が2つあります。
2つの岩は「足型岩」と「聖なる岩」とよばれています。
私、ここにはかれこれ、4~5回は訪れていますが、

毎回疑問に思うこと…

「どういう理由で『足型岩』とか『聖なる岩』とよばれるようになったのか?」
>>「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)を探る(益田市 小野地区)

と疑問を抱えつつも、とりわけ深く調べるわけでなく、気づけば5年近くたっていましいた。

今回、やっと「柿本人麿伝承岩」(足型岩・聖なる岩)の伝承の
内容わかりました♪今回は、まず「足型岩」について情報をシェアすることにしました。

「柿本人麿伝承岩」についての「伝承」…「足型岩」

まずは、「足型岩」の画像。撮影は2014年5月

柿本人麿伝承岩 足型岩 全体 益田市 小野地区


この画像を撮影した時点で、私が「足型岩」について知っていたことは、
人麿の「足型岩」は、

人麿の「幼少時の足跡の窪み」がある岩…ということ。のみでした。
(「伝承」としては少し魅力を感じませんネ)


(上の画像で、「幼少時の足跡の窪み」ってわかりますか?…実は、私、この画像の撮影時、初めてそれらしき窪み(2か所…両足分)に気づきました。 この記事の最後に拡大画像を掲載しておきます。)

「足型岩」の伝承とは!?

つい先日、私が尊敬する知人から「益田の民話」という絵本を貸してもらい、偶然にもその絵本の中に「足型岩」の伝承の記述があったのです!!

内容(要約)は以下のとおりです。
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足跡は人丸が9歳のころとのこと。
家の人と草刈りに行ったときはいつも(この)岩の上で遊んでいたと。
そして、一仕事終えた家の人が、人丸に「もう帰ろう」と。
すると、人丸さんは「おい」と叫んで手を三つ叩いたら…なな、なんと!!

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…続きは以下の「益田の民話」サイトで確認してくださいまし♪
⇒益田の民話「人丸さん」
(書籍は益田市の図書館とか高津公民館にあるはずです。)

【参照書籍「益田の民話」(2002年3月25日 益田の文化を育てる会)P35「人丸さん」より」】

「足型岩」の足型について

(今回は、あくまで、私なりの解釈ですョ)

おまけ画像として、私が「これが足型だろうなぁ」と感じた部分を拡大して掲載しておきます。

柿本人麿伝承岩 足型岩 足型部拡大 益田市 小野地区

あなたには見えましたか?

◆もう一つの伝承岩:「聖なる岩」
>>柿本人麿伝承岩その2「聖なる岩」についてはコチラ

編集後記…「ひとまろ」は「人麻呂」?「人麿」?
益田市では柿本人麻呂は柿本人麿と表記することが一般的です。
その理由について、地元、島根県や益田市で著名な歴史家の方々の説を耳にします。
ですが、わたくし的には腑に落ちる説明はありません。

ただ、私がいろいろ益田市の歴史、特に高津柿本神社を調べていくうちに、(現時点では仮説ですが)ヒントをみつけました。
今しばらく時を要すると思いますが、いずれこのサイトで公開しますネ♪

高津柿本神社の伝説「龍燈の松」と大久保長安の奉納品

益田市の高津柿本神社の前身となる「松崎の社殿」は1608年(慶長13年)に再建されたという記録があります。
この再建は、初代石見銀山奉行・大久保長安が携わり、長安からの奉納品「銅製六角釣灯籠」が現在も残っています。

大久保長安の奉納品「銅製六角釣灯籠」については、以前投稿しています。
>>益田市の高津柿本神社の歴史(後篇)「大久保長安 奉納 銅製六角釣灯籠」画像付

大久保長安奉納銅製六角釣灯籠s


「銅製六角釣灯籠」という名称ですが、札には『金燈篭』とかかれています。
奉納時は、金色に輝いていたことが想像できます。

今回、あらためて、この「銅製六角釣灯籠」を取り上げたのは、『高津町誌』から高津柿本神社にかかわる、ある伝説を知り「何か関係がありそう!?」と思ったからです。

その伝説の名は「龍燈の松」。なんと、この物語には「黄金の燈籠」が取り上げられているのです!!

「高津柿本神社の伝説「龍燈の松」と大久保長安の奉納品」続きを読む

比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』

鉱山の神様を祭る神社「佐毘売山神社」


益田市美都町の都茂鉱山。そして鉱山の神様・守り神である金山彦命を祭る神社「佐毘売山神社」。

「佐毘売山神社」は益田市の比礼振山(権現山ともいいます、標高358.6m)の麓(ふもと)にあります。

益田市の佐毘売山神社(今年2009年の正月に撮影)

(2009年1月1日に撮影)
比礼振山(権現山…ごんげんさん)の山頂には蔵王権現もあります。(昨年2008年年末ごろ撮影)

比礼振山山頂の蔵王権現(昨年2008年年末ごろ撮影)


益田市の民話『大蛇のあと』


今回の「比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』」から分かったことですが。
どうやら比礼振山(権現山)付近には都茂鉱山で採掘された「鉱石」を運搬する道路があったようです。

「比礼振山(権現山)」と「都茂鉱山」の2つのキーワードが「大蛇のあと」という益田市地元の民話の中で語られている事を発見しました。

「大蛇のあと」

 むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から鉱石を馬で運ぶ往かん還(還は「道」では?)じゃった。

 ある日、益田で用事を済ませた人が、権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな岩の上で一休みしんさった。その時、長さは十二尺(約三、六メートル)、直径は一尺(約三十センチ)ぐらいの大蛇が出てきた。そのあまりの大きさに身震いがして動きがとれんようになった。蛇は煙草が嫌いなのを思い出して、そっと煙草に火をつけ吸いはじめた。そうしよったら大蛇が向きを変えて逃げ去ったというんじゃあ。


 わしも若いころ、わらびを取りに行って、大蛇が這うたように草がなびいているのを見てたまげたことがある。


語り手 城市良吉(乙子)    
「益田の民話(ますだのみんわ)」(益田の文化を育てる会)より引用
>>http://www.group.iwami.or.jp/bfn/masudanominwa/index.htm

ここで、「むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から「鉱石」を馬で運ぶ「道(還は道であろう)」…に関して疑問が湧きます。

(益田市美都町には)銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡(おおとしのもといせき)』があったはずで、「銅」の精錬技術は保有していたはずです。…地元(の精錬所)ではなく、一体どこの精錬所に運んでいたのでしょうか?


因みに銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡』に関しては、島根県埋蔵文化財調査センター編集部による「ドキ土器まいぶん」No.18 2002年7月発行にわかりやすい記事がありました。


発見!銅の精錬工房?

 美都町は古代から銅山開発によって繁栄したと伝えられています。美都町山本地区にある大年ノ元遺跡では、中世の掘立柱建物跡や中世期には珍しい竪穴状の建物跡が4棟見つかりました。

 竪穴状の建物跡の内部や周辺から焼土(地面が焼けた跡)や銅鉱石を溶かすための器(坩堝)片や銅の精錬工程において生じるからみ(不純物の塊)、白磁(中国製の磁器)片、土師質土器片などが見つかりました。これらの建物跡は15世紀頃(室町時代)の銅の精錬工房跡、または銅精錬に何らかの関わりにある施設と思われます。

 遺跡は、9世紀に書かれた「続日本後記」に記載されている丸山銅山から北約5km のところにあります。 この周辺は当時、中世益田氏の支配下にあり、江戸時代には幕府の直轄領でもありました。銅山の歴史、銅の精錬技術などを知る重要な手がかりになりそうです

「ドキ土器まいぶん No.18 2002年7月発行 編集・発行 島根県埋蔵文化財調査センター編集部」より引用



想像を膨らませると…もしかしたら「銀」鉱石があったのかもしれませんね!?(当時は「銀」の製錬技術はなかったはずですし)…


(この益田市の民話「大蛇のあと」がいつごろの話なのかは不明なので想像はこの辺で…)


「権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな「岩」の上で…」
この「巨岩」は何処の岩の事なのか…存在が気になりますネ

益田市の秘境「蛇瀧」の伝説と今(真砂地区)

益田市の真砂地区の日晩山(ひぐらしやま:標高744m)の山麓にある滝…「蛇瀧」

蛇瀧伝説とは!?

早速に【蛇瀧伝説】から…

その昔、滝壺に大蛇が住んでいて両岸の山は、大木がおい繁り昼間でも薄暗く村人から恐れられていたが、宝暦3年の夏大洪水に見まわれ、滝壺が流され濁流と共に大蛇は海へ流された。


村人達はこの大蛇をあわれみ、此の処へ観音堂を建て霊をなぐさめた。
そして大蛇は観音様の権化(ごんげ)として、下流の田畑を潤す神として崇(あが)められ、現地には農耕の菩薩として馬頭観音が祀(まつ)られており、古来信仰の対象となっており、下流の村人達が年1回の大祭、泥落しを兼ね報恩会(え)として盛大に行った。

往時は神楽芸能、盆踊り等の奉納や接待もあり、近郷の老若男女が参詣し大変賑わった。

又、断崖は、向かいあってそびえ立ち、左側の壁には大蛇が登ってつけたと言う跡が残っている。

(島根県・益田市・真砂地区活性化協議会)


「村人にとって恐ろしかった大蛇がナント!洪水で流された…そしたら、村人は、その(恐ろしい)大蛇のことを憐れんでここに観音堂を建て大蛇の霊をなぐさめた」

というお話し。


蛇瀧の入口

さて!これが実際に蛇瀧の入口から撮った画像です。巨大な岩の割れ目が
(正直これほどのものがここ益田市の真砂地区にあるとは…)
蛇瀧前~1

「…又断崖は、向かいあってそびえ立ち…」です。


因みに、この日(2009年03月23日)は水量、ほとんどありませんでした。

画面中央奥左に建設用の足場でつくられたルートを進みます。
※足場に向かう手前数メートルは一人がやっと歩ける狭さ…かなりの注意が必要です!

この割れ目を上から見たところ…
蛇瀧上~1

【上記「蛇瀧伝説」引用もとの看板です:島根県・益田市・真砂地区活性化協議会】


益田市の蛇滝