益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

櫛代賀姫神社

櫛代賀姫神社 その1(益田市内の式内社を訪ねて)

櫛代賀姫神社(くししろかひめじんじゃ)

「益田市内の式内社を訪ねて」第1番目は『櫛代賀姫神社』

櫛代賀姫神社 益田市


櫛代賀姫神社(くししろかひめじんじゃ)
場所:益田市久城町963
祭神:櫛代賀姫(くししろかひめ)
   応神天皇(おうじんてんのう)第15代天皇

櫛代賀姫神社の「起源」と、「式内社」になったのは「いつ」かについて調べてみました。資料は宮司様からいただいた『石見式内 櫛代賀姫神社略記』で、その「由緒沿革」によると

・祭神は櫛代族の租神にして天平5年丑(うし)5月(733)管長の命により社殿設立。
大同元年(806)石見観察使、藤原緒継が鎌手大浜浦より現在地、久城明星山に御遷座。
人皇第54代仁明天皇の承和7年申8月(840)再建爾来延喜式所載の神社として朝野の尊崇深く…(以下略)

という経緯だそうです。

櫛代賀姫神社 拝殿正面 益田市
【櫛代賀姫神社 拝殿正面】

櫛代賀姫神社はいつごろ「式内社」となったのか?

櫛代賀姫神社はいつごろ「式内社」となったのでしょうか?

櫛代賀姫神社由緒では
・当初(733年)は(益田市の)鎌手地区に設立された。
・806年に現在地(久城明星山)に御遷座(移設)
・840年の再建時に延喜式所載の神社となった。…とあります。


また、櫛代賀姫神社の歴史については櫛代賀姫神社奉賛会による「櫛代賀姫神社 壱千弐百年式年大祭 記念誌」には以下の記述がありました。


櫛代賀姫神社の歴史

 和泉国から当地へ移住した櫛代族は、祖神櫛代賀姫命を奉祭し、天平5年(733年)には管長の命により社殿が建立されました。大同元年(806年)に石見国観察使の藤原緒継によって鎌手の大浜浦から久城の緒継浜に遷宮され、承和7年(840年)に再建されました。その後、万寿3年(1026年)に大津波によって流失したため、現在地の明星山に移転建立されたといわれています。
 平安時代の延長5年(927年)に完成した『延喜式』の「神名帳(官社帳とも呼ばれる)」に美濃郡五座のひとつ
として書き上げられ、いわゆる式内社として長い歴史を有しています。

櫛代賀姫神社 壱千弐百年式年大祭 記念誌 櫛代賀姫神社奉賛会
P6 櫛代賀姫神社の歴史より引用


※上記2つの史料では、現在地の明星山に移設された時期が異なることは気になります。が、延喜式所載…式内社となったのは承和7年(840年)と考えられます。

「本殿」は国登録有形文化財(建造物)

櫛代賀姫神社の本殿(明和2年(1765)造修築)は平成25年6月1日に国登録有形文化財(建造物)に登録されています。

櫛代賀姫神社 本殿  益田市内の国登録有形文化財(建造物)

三間社流造

三間社流造(さんげんしゃながれづくり)
屋根の形状は「流造(ながれづくり)」で正面に柱が4本(三間)となっていますので「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」といえます。

櫛代賀姫神社 三間社流造


※正面上部の部材…木鼻に一部薄く朱色が残っているのでこの本殿は本来は「朱塗り」であったことがわかります。

★屋根は「銅板葺き」です。

櫛代賀姫神社の本殿 屋根 銅板葺き


MAP:櫛代賀姫神社 益田市久城町963

※因みに、この櫛代賀姫神社の本殿は、益田市内2番目の国登録有形文化財(建造物)です。
(1つは益田市立歴史民俗資料館(旧美濃郡役所)です。)
>>益田市の「歴史民俗資料館」の歴史(益田市本町)

次回は益田市の櫛代賀姫神社の現在の様子と私が感じた魅力についてレポートします。


石見 式内社 櫛代賀姫神社 を拝観 その2(益田市 久城町)

前回の投稿に引き続き益田市の式内社の一つ
櫛代賀姫神社(益田市 久城町963)


今回は益田市の式内神社、櫛代賀姫神社の現在の様子と私が感じたことについてのレポートです。


★前回の投稿はコチラ
>>櫛代賀姫神社 その1(益田市内の式内社を訪ねて)

鳥居をくぐったところから撮影した、櫛代賀姫神社の正面の全体画像です。

櫛代賀姫神社 益田市


狛犬が左右に配置されています。どっしりとした大型の狛犬です。右側の狛犬(阿吽の「阿」の方)ですが、よく見ると口の中に石の「玉」が施されています。

狛犬 右 阿 櫛代賀姫神社 益田市


◆拝殿の内部の様子
櫛代賀姫神社の魅力なのですが拝殿の扉が開放されていているので、拝殿の内部の高貴で神聖な雰囲気…日本神道の伝統を生で感じることができます。

具体的に語りますと…まずは何と言っても、「神鏡」。そして、その背部の左右に「釣下げ型の金幣」等々…神祭具を拝見することができるのです。益田市の櫛代賀姫神社は、いつ訪れても、心、安寧…外気の寒暖関係なく、涼しげに感じることができ、落ち着けますヨ♪

神鏡に紙垂 櫛代賀姫神社 益田市


(「神鏡」に「紙垂(しで)」が映り込んでいますネ。)


ところで、拝殿の奥の上部に「のぼり藤に久」の家紋が並んでいるのがわかりますか?


◆「のぼり藤に久」の家紋

「のぼり藤に久」の家紋といえば、益田市の方なら、ご存じである人も多いと思いますが…
「益田氏」の家紋ですネ。

※宮司様からいただいた『石見式内 櫛代賀姫神社略記』によると…

殊に益田氏 七尾城入場後は崇敬厚く、人皇第百六代 正親町天皇(おおぎまちてんのう)の天正12年(1584)甲申 ※益田越中守全昌公 社殿を再建し社領12石を奉納せらる。

との記載がありました。

※益田越中守全昌公とは益田藤兼(ますだ ふじかね 益田氏第19代当主)公であり、益田藤兼は晩年は、所領の神社仏閣を再建し、手厚く保護した人物であったということです。(因みに益田藤兼の息子が益田元祥(ますだ もとなが)です。)

家紋「のぼり藤に久」は櫛代賀姫神社の様々な場所で見ることができます。

例えば、拝殿の鬼瓦部に…

上り藤に久の字 瓦 櫛代賀姫神社 益田市


また、本殿の銅葺き屋根ではこのような場所にも…

上り藤に久の字 櫛代賀姫神社 益田市


益田市の石見 式内社 櫛代賀姫神社 その3 御朱印(久城町)

益田市の式内社「櫛代賀姫神社」に関する投稿の3回目

櫛代賀姫神社でも御朱印をいただける


益田市内で御朱印をいただける神社は(ネット上で調べてみると)
・高津の柿本神社(益田市 高津町イ2612-1)
・染羽天石勝神社(益田市 染羽町1-60) 
2社であることがわかっていました。


今回の「櫛代賀姫神社」の特集を始めるにあたり、お電話にて(念のためと思い)

「櫛代賀姫神社には御朱印はありませんか?」…と、宮司様にお尋ねしたところ、「ありますよ!!」と嬉しいお言葉をいただきました。

「では、事前にお電話をしてから、お訪ねしますので…どうか(御朱印を)よろしくお願いいたします。」
「はい、どうぞ(笑)」と宮司様…

という経緯で…益田市の式内社「櫛代賀姫神社」にも「御朱印」ありました♪

櫛代賀姫神社の御朱印


早速ですが、櫛代賀姫神社(益田市 久城町96)のでいただいた御朱印です(2014年5月11日)。

御朱印 櫛代賀姫神社 益田市


※御朱印をいただくには「初穂料」をお納めください。
(念のため…)


画像:櫛代賀姫神社の本殿(平成25年6月1日に国登録有形文化財(建造物)に登録)

櫛代賀姫神社の本殿 益田市



【追記】

高津柿本神社の御朱印はこちらのページで以前ご紹介しております。

>>「高角山 正一位 柿本神社」の御朱印(益田市 高津地区)

また、染羽天石勝神社は益田市内の式内社ですので、近いうちにご紹介できると思います。

※参照:>>益田市内の(延喜式)式内社を訪ねてみよう

益田市「櫛代賀姫神社(式内社)」の本殿、懸魚と狛犬

益田市の式内社「櫛代賀姫神社」4回目の投稿です。

櫛代賀姫神社の本殿(明和2年(1765)造修築)は、平成25年6月1日に国登録有形文化財(建造物)に登録されたことでも話題になりました。

本殿の外観等は、以前の投稿
>>櫛代賀姫神社 その1(益田市内の式内社を訪ねて)
の後半部分で取り上げています。

今回は、益田市の「櫛代賀姫神社」にて私が興味を持ったコト2点。
1つめは本殿の「懸魚」、もう一つは「狛犬」です。

まずは本殿の「懸魚(けぎょ)」
懸魚 櫛代賀姫神社 益田市

櫛代賀姫神社の本殿屋根の切妻部分には懸魚が3つ施されています。ちなみに破風の頂部にある懸魚は「拝懸魚(おがみけぎょ)」といいます。「拝懸魚(おがみけぎょ)」の斜め下方左右の懸魚は「降懸魚(くだりけぎょ)」といいます。

(因みに、2つの「降懸魚(くだりけぎょ)」は本殿の桁の木口を保護という役割があります。画像をよくみれば、ご理解できると思います。)

「拝懸魚(おがみけぎょ)」を拡大してみてみましょう。
猪の目懸魚 櫛代賀姫神社 益田市
ハート形にくりぬかれている部分(2か所)があります。(わかりますか?)
このような加工をされた懸魚は形状的に「猪目懸魚(いのめけぎょ)」と呼ばれます。

懸魚の目的は、風雨から守るために設置されています。そのため、風化も進みやすい物です。

益田市の「櫛代賀姫神社」は、海(日本海)のすぐ近くの小高い山(丘)の上にあるので、この懸魚には通常より風雨の負荷も厳しいことが考えられます。・・・そのためでしょうか?
※櫛代賀姫神社の懸魚には(通常ではみられない)左右に薄い板で(支持)補強が施されています。

懸魚について長くなりました。

最後にどうしても掲載したかった画像1点。

益田市の「櫛代賀姫神社」の本殿前の「狛犬」です。塀の隙間からの撮影です。
櫛代賀姫神社 本殿 懸魚 狛犬

「櫛代賀姫神社」の鳥居のそばにある狛犬には大きさを感じました。
本殿の狛犬には「守護」のパワー、凄みを強く感じることができます。

益田市の沖手遺跡 専福寺浦番所跡と櫛代賀姫神社の「紋瓦」

益田市の歴史、風景(画像を)中心に投稿して、思わぬ歴史的発見がありました♪

今回は当サイトの過去記事間での発見!!…といった内容になります。


きっかけは、今日たまたま、私のこのサイトを訪れた方が気にしていた画像。
撮影は、今年の5月、益田市久城町の石見 式内社 櫛代賀姫神社 を参拝した時のものです。

上り藤に久の字 瓦 櫛代賀姫神社 益田市


※参照⇒石見 式内社 櫛代賀姫神社 を拝観 その2(益田市 久城町)

この画像…一体「どんな興味があって、検索してきたんだろうか?」とぼんやり思いつつ眺めていると、
ちょっと気になるモノが目に飛び込んできました。

連珠三つ巴瓦紋


それがコレ!!矢印の先の部分。「瓦紋」… 櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦周辺の画像です。

櫛代賀姫神社 益田市 連珠(右)三つ巴瓦紋


連珠三つ巴瓦紋です。

「えっ!?『連珠三つ巴瓦紋』…てなに?…何かすごい発見なんか?」

ハイ。すごいかどうかは別として(笑)

益田市の歴史・風景をコツコツ取材している、わたくし的には、とても興味深い発見になりました。

では、早速、話をすすめましょう…♪

『沖手遺跡…専福寺浦番所跡』での出土品の中に!!


『連珠三つ巴瓦紋』…って、益田市でちょっと前まで話題だったの遺跡『沖手遺跡』で発掘された品の中にありましたよネ♪
櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦のそばの紋瓦2つ…そのうち、特に下の「紋瓦」の形状・デザインを見てください。

連珠三つ巴瓦紋(右巻き左巻き混在) 櫛代賀姫神社(益田市)

益田市の沖手遺跡内の、「専福寺浦番所」(江戸時代、浜田藩が管理)跡から発掘されたモノと酷似しています。(ただし!なぜかこの紋瓦…巴が上は「右巻き」、下は「左巻き」なんです!!よくみると…連珠の数的には下の方が、、「専福寺浦番所」の出土品に酷似といえますが…巴の方向が左巻きであるこは気になります。)

江戸時代の沖手遺跡 丸瓦 益田市


(巴の方向は今回は一時保留として)
なぜ、『連珠三つ巴瓦紋』が益田市久城町の「櫛代賀姫神社」に現存しているのか?
このことについて、私なりに合点するには、さほどの時間がかかりませんでした♪

ヒントは「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」にあった!!


浜田藩の歴史は、ほとんど松平家系であることをご存知でしょうか?
そして…松平家では、連珠三つ巴瓦紋は、伝統的に使われていたようです。
※参照⇒江戸時代の沖手遺跡「丸瓦」の破片を考察

で、話を益田市の「櫛代賀姫神社」の歴史について調べてみたところ…

「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」に、

「文政6年(1823年)に石見国二十一個村の総氏子により本殿其の他の大修築をなし…」

という記載があることを発見しました。


「文政6年(1823年)」の浜田藩は松平(松井)家の時代です。


大修築の際の新しい「紋瓦」等に浜田藩(松平家)の素材・造形的趣向が込められていたとも考えられます。(ただし、くどいようですが…瓦紋の巴の巻き方が「1つだけ左」というのは気になります…(笑))

↑こんなことは、実に些細な発見ですが、江戸時代の(益田市の)ここら辺の時代…浜田藩のころの様子に興味が湧いてきました。


編集後記
※あとで分かったのですが…巴の左右は、一番上の玉から伸びる尻尾のような方向で呼び名がつけられているようです。ですから、益田市の沖手遺跡で発掘された巴は「左巴」と呼ばれます。(わたくし的には、回転方向で左巻き、右巻きといったほうがわかりやすいと思い、修正はしておりません。ご容赦ください。)

自分がこれまで地元、益田市の歴史や風景に関して投稿した記事の内容・画像からでも、(これまで益田市に関する史料・資料には無い)思わぬ発見があるものです。
これまで、過去記事を振り返ってみることは(誤字脱字の修正とか小見出しとgoogleMAPの追加程度で)あまりなかったのですが。今回を機会に、当サイト内の投稿記事情報を発掘してみることもアリかと思いました(笑)