益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

佐毘売山神社

益田市の佐毘賣山神社と世界遺産「石見銀山」との関係

益田市乙子の佐毘賣山神社

佐毘賣山神社(佐毘売山神社)(益田市乙子町)」は市街地の東側にある比礼振山(標高358.6m)の麓(ふもと)にあります。(比礼振山は「権現山」ともよばれています。)

佐毘売山神社 前 益田市


佐毘賣山神社(佐毘売山神社)の本来の参道「古い石段」上から撮影。

佐毘売山神社 参道石段 益田市


実は、私、この石段がお気に入りです。(この石段から、「佐毘売山神社」を見上げると、なんだかタイムスリップした様な感覚になるからです。)


「佐毘売山神社」と世界遺産「石見銀山」との関係

さて、今回のテーマ「佐毘売山神社」と世界遺産「石見銀山」との関係について、
「佐毘売山神社由緒」という説明板内に記載がありました。

佐毘売山神社由緒 全


文章が長く(横に長いので)①前半部と②後半部の2つの画像に分けてました。
①前半部

佐毘売山神社由緒 前半


②後半部

佐毘売山神社由緒 後半


②の後半、赤いラインの部分に

「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」
と記されています。

実は「佐毘売山神社」から迩摩郡大森銀山へ分霊されたことについては奥田元宋・小由女美術館(広島県三次市)の村上勇館長(益田市ご出身)によると、以下のような意味もあるそうです。

「祭神の移動は祭っていた技術者の動きを示す。石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山の開発があり、人と技術が大森にもたらされ銀が採掘された。」

※詳しくは「山陰中央新報 ONLINE NEWS 『特集・石見銀山 : 石見銀山の営み(4)地の恵み 都茂銅山の技術者採掘か~佐毘売山神社を分霊 益田から祭神と移動~(2008年6月22日) 」をご参照ください。


(大森の)鉱山開発のために都茂銅山の人材(鉱山技術者)とそのノウハウと金山彦命…鉱山の神様がセット移動(異動)したとうこと。美都町の丸山銅山での人と技術が大森(石見銀山)にもたらされ銀が採掘されたと考えられます。

美都町の「都茂銅山」は世界遺産「石見銀山」開発と歴史的な繋がりがあったわけです。益田市の「佐毘売山神社」にて貴重な情報を得る事が出来ました。


【佐毘売山神社について】
『フリー百科事典『ウィキペディア』に益田市の「佐毘売山神社」の掲載がありました。

佐毘売山神社
佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)は、島根県益田市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。石見銀山(大田市)にある佐毘売山神社は当社の分社である。
【祭神 】
金山彦命・金山姫命を主祭神とし、埴山姫命・大山祇命・木花咲耶姫命を相殿に、闇靇神・廣國押武金日天皇(安閑天皇)を別殿に祀る。

【歴史 】
創建の由緒は不詳である。当初は比礼振山(佐毘売山)の山頂に鎮座し、金山姫・埴山姫・木花咲耶姫の三柱の女神を祀り「姫山神社」と称していた。「佐毘売山」は姫山に接頭語「さ」がついたものである。寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・金山彦命を勧請し、さらに山の神・大山祇命も祀って「五社大権現」とも称した。延喜式神名帳に「石見国美濃郡 佐毘賣山神社」と記載され、小社に列している。
貞治4年(1365年)、一帯に旱魃が起こり、比礼振山で雨乞いをしたところ雨が降ったことから、大和国吉野山から水の神・闇靇神と蔵王権現を合祀し、以降は「蔵王大権現」とも称されるようになった。
(以下略)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用


【画像は2009年04月撮影】

MAP(航空写真)・場所:佐毘賣山神社


比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』

鉱山の神様を祭る神社「佐毘売山神社」


益田市美都町の都茂鉱山。そして鉱山の神様・守り神である金山彦命を祭る神社「佐毘売山神社」。

「佐毘売山神社」は益田市の比礼振山(権現山ともいいます、標高358.6m)の麓(ふもと)にあります。

益田市の佐毘売山神社(今年2009年の正月に撮影)

(2009年1月1日に撮影)
比礼振山(権現山…ごんげんさん)の山頂には蔵王権現もあります。(昨年2008年年末ごろ撮影)

比礼振山山頂の蔵王権現(昨年2008年年末ごろ撮影)


益田市の民話『大蛇のあと』


今回の「比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』」から分かったことですが。
どうやら比礼振山(権現山)付近には都茂鉱山で採掘された「鉱石」を運搬する道路があったようです。

「比礼振山(権現山)」と「都茂鉱山」の2つのキーワードが「大蛇のあと」という益田市地元の民話の中で語られている事を発見しました。

「大蛇のあと」

 むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から鉱石を馬で運ぶ往かん還(還は「道」では?)じゃった。

 ある日、益田で用事を済ませた人が、権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな岩の上で一休みしんさった。その時、長さは十二尺(約三、六メートル)、直径は一尺(約三十センチ)ぐらいの大蛇が出てきた。そのあまりの大きさに身震いがして動きがとれんようになった。蛇は煙草が嫌いなのを思い出して、そっと煙草に火をつけ吸いはじめた。そうしよったら大蛇が向きを変えて逃げ去ったというんじゃあ。


 わしも若いころ、わらびを取りに行って、大蛇が這うたように草がなびいているのを見てたまげたことがある。


語り手 城市良吉(乙子)    
「益田の民話(ますだのみんわ)」(益田の文化を育てる会)より引用
>>http://www.group.iwami.or.jp/bfn/masudanominwa/index.htm

ここで、「むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から「鉱石」を馬で運ぶ「道(還は道であろう)」…に関して疑問が湧きます。

(益田市美都町には)銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡(おおとしのもといせき)』があったはずで、「銅」の精錬技術は保有していたはずです。…地元(の精錬所)ではなく、一体どこの精錬所に運んでいたのでしょうか?


因みに銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡』に関しては、島根県埋蔵文化財調査センター編集部による「ドキ土器まいぶん」No.18 2002年7月発行にわかりやすい記事がありました。


発見!銅の精錬工房?

 美都町は古代から銅山開発によって繁栄したと伝えられています。美都町山本地区にある大年ノ元遺跡では、中世の掘立柱建物跡や中世期には珍しい竪穴状の建物跡が4棟見つかりました。

 竪穴状の建物跡の内部や周辺から焼土(地面が焼けた跡)や銅鉱石を溶かすための器(坩堝)片や銅の精錬工程において生じるからみ(不純物の塊)、白磁(中国製の磁器)片、土師質土器片などが見つかりました。これらの建物跡は15世紀頃(室町時代)の銅の精錬工房跡、または銅精錬に何らかの関わりにある施設と思われます。

 遺跡は、9世紀に書かれた「続日本後記」に記載されている丸山銅山から北約5km のところにあります。 この周辺は当時、中世益田氏の支配下にあり、江戸時代には幕府の直轄領でもありました。銅山の歴史、銅の精錬技術などを知る重要な手がかりになりそうです

「ドキ土器まいぶん No.18 2002年7月発行 編集・発行 島根県埋蔵文化財調査センター編集部」より引用



想像を膨らませると…もしかしたら「銀」鉱石があったのかもしれませんね!?(当時は「銀」の製錬技術はなかったはずですし)…


(この益田市の民話「大蛇のあと」がいつごろの話なのかは不明なので想像はこの辺で…)


「権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな「岩」の上で…」
この「巨岩」は何処の岩の事なのか…存在が気になりますネ

益田市の佐毘売山神社の「権現霊水」とは!?

益田市のパワースポットの一つ(と私が思っている)佐毘売山神社。
私が東京を中心に仕事をしていたころでも、毎年2回、盆暮れの帰省の際には必ずお参りしていました。
(現在、当サイトでは、帰郷後2009年頃の以前のブログ記事の内容を再編集し、2記事(「佐毘売山神社と石見銀山の関係」「比礼振山(権現山)の伝説」)掲載しています。このページの最後に、リンクがあります。)

一昨日(2014年2月23日)の事ですが、久しぶりに益田市の「佐毘売山神社」に行ってみたくなりました。
実に、約2年ぶりの参拝となるわけです。
佐毘売山神社 2014年2月23日 益田市

2014年2月23日撮影の益田市の佐毘売山神社の画像です。
本当は、本来の参道である石段の上から撮影したかったのですが…
益田市の佐毘売山神社 石段

倒木が原因なのでしょうか?立ち入りができないように安全柵が設置されていました。

さて、今回のタイトルの中のキーワード「権現霊水」

「権現霊水」については、佐毘売山神社の手水舎(ちょうずや・てみずや)に詳しい説明がありました。
「益田市の佐毘売山神社の「権現霊水」とは!?」続きを読む

三日月岩(益田市の比礼振山、山頂付近の巨石)

益田市の佐毘売山神社~比礼振山(権現山)山頂までは舗装道路が施されています。膝や足首の具合が良くない私には、山頂まで車でいけることは本当にありがたい事です。

比礼振山(権現山)山頂
に向かう道、最後の急カーブ地点に「三日月岩」と記された巨石があります。
これまで数十回はこの大岩の傍を通過しています。ですが、場所がら、じっくり拝見した事はありませんでした。
というのも、この場所、狭い道に車を一旦停めなければなりません。今回は、できるだけ短時間という条件のもとで撮影しました。
比礼振山 三日月岩 益田市

高さ、幅とも2メートル近くあります。
比礼振山(権現山)は岩山とは思えない山…この画像でも分かると思いますが赤土が主体なので、こんな大岩がポッコリとあること自体が、そもそも驚きです。

とは言うもの、(多分、あなたもお気づきでしょうが…)この岩の姿、形にして、なぜ、「三日月岩」と称されるのか?…撮影しながら、私、妙な気分でした。

「この岩は、以前は土に埋もれて、三日月状にその姿を露出していたのではないか?」…そんな仮説も浮かびました。ですが、自宅に戻り、今回撮ったいくつかの「三日月岩」画像を再確認したら…
もしかすると、こういうことかな!?」と閃きました!!
「三日月岩(益田市の比礼振山、山頂付近の巨石)」続きを読む

益田市の佐毘売山神社(式内社)の「鬼瓦」と「連珠三つ巴瓦紋」

今日(2015年2月1日)は益田市に久しぶりに青空と日差しの恵がありました。
「こんないい日は家にこもっていてはもったいない!」

というわけで、久しぶりになりますが益田市の比礼振山(権現山)に行くことに♪

まずは、佐毘売山神社(式内社)に参拝です。

佐毘売山神社(式内社)益田市20150201s


とてもご無沙汰しています。

益田市の佐毘売山神社(式内社)はとても歴史のある神社です。

今回は、かなりニッチな部分で私のお気に入りの佐毘売山神社の「鬼瓦」の画像です。

佐毘売山神社(式内社)鬼瓦と瓦紋 左巴


パワーありますよね!
あともう一つ気づいてほしいことは、「瓦紋」

「連珠三つ巴瓦紋」です、左巴です!!(一番上の「巴の玉」から延びでる尾の位置が、玉の左側にあると「左巴」、右側にあると「左巴」といいいます。通常、どちらかに統一されています。たまに…益田市の櫛代賀姫神社(式内社)のように、修復の際、混在する場合もありますが…)

「連珠三つ巴瓦紋」専福寺浦番所跡から発掘されたもの、と櫛代賀姫神社でも現存するものと共通してます。

※ご参照>>益田市の沖手遺跡 専福寺浦番所跡と櫛代賀姫神社の「紋瓦」

面白いですね!!


さて、佐毘売山神社の名水「権現霊水」をいただき、佐毘売山神社参拝させていただいた後、

いよいよ比礼振山(権現山)の山頂を目指そうと、振り返って、ふと、益田市の日本海沖をみたところ…!!


なんと!「あの島が見えるではないですか!?」


>>佐毘売山神社から見えた「島」とは…

益田市の佐毘売山神社から見島(山口県萩市)が見える

2015年2月1日、久しぶりの益田市の佐毘売山神社(式内社)。
参拝後、比礼振山(権現山)標高359mを目指すぞ!(車でw)

と、振り返って、ふと益田市沖の日本海を見れば!

「なんと!!あの島が見えているではないですか!?」

あの島とは山口県萩市の「見島」です。

益田市役所のホームページの「文化財課」のページから、比礼振山(権現山)の山頂から「見島」が見えるということを知ってはいましたが…

益田市の佐毘売山神社からも見えるんですよ「見島」!!

益田市の佐毘売山神社から見島ss


↑赤い丸で囲ったところですが…えっ、分かりずらい?…ハイ、もう少し倍率を上げてみましょう。

益田市の佐毘売山神社から見島1s

電線が思いっきりかぶっていますネ(汗)。右下に益田市の「ゆめタウン」のイズミさんとジュンテンドーさんが見えます。

※尚、上の2枚の画像はいずれも、(画像)編集(色合いとコントラスト)しています。

※デジカメはNikon COOLPIX P600

佐毘売山神社のおススメの撮影スポットはココ↓

益田市の佐毘売山神社から見島2


この先の日本海海上に見島(赤丸内)が見えます。(ここなら電線が少なく、撮影には適していますよ)


益田市の佐毘売山神社の「場所」と「向き」に関する仮説


比礼振山(権現山)山頂は、周りを遮るものが無い、見晴らしが良い場所です。空気がある程度澄んでいて見通しが良ければ「見島」が見えても当然といえば当然です。

しかし、益田市の佐毘売山神社がある「山の中腹」となると、「見島」が見える場所はかなり限られてきます。


益田市の佐毘売山神社の「場所」と「向き」は「見島」の位置を考慮したのでは!?


という仮説的(空想)がわき起こってきました♪


佐毘売山神社(式内社)益田市20150201

因みに、益田市の佐毘売山神社は万治3年(1660年)…江戸時代(前期)に、この場所に遷座ということです。石見浜田藩の初代藩主、松井松平家2代「松平康映(1615~1674)」の時代です。