益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の神社とお寺

鍋島山八幡宮にあった「水神社」と「川丁の水神社」(益田市 高津)

前回は、鍋島山八幡宮の「水神社」について調べてみました。

蟠竜湖にあった「水神社」は明治39年、鍋島山八幡宮に合祀されたということでした。そして、現在では鍋島山八幡宮があった山自体が無くなっています。

昭和3年頃に撮影された鍋島山が写っていいる写真に現在の画像を重ねてみると、鍋島山の姿が現在は確認できないことがよくわかります。
※画像中央の高圧線の鉄塔(現在)が見えますが、その背後の小山が「鍋島山」(昭和3年ごろの画像)となります↓(久々の「今昔写考学」です♪)

昭和3年鍋山写真と現在比較(益田市高津)s

昭和40年前後に開発工事か何かの目的で「鍋島山」は崩され、その際(鍋島山)八幡宮は高津柿本神社の山の中腹に移転されたようです。


※以上参照⇒蟠竜湖から鍋島山八幡宮に移った「水神社」(益田市 高津)

現在の高津柿本神社の山の中腹にある「(鍋島山)八幡宮」、現地には「水神社」らしき「祠」や(鍋島山)八幡宮そのものの「由緒記述」がないため、その後(水神社が)どうなったかは知ることができません。


「これで、水神社の手掛かりはつきた…」と諦めかけたところ……


先日、偶然にも、


高津の「川丁(かわちょう)」とよばれる場所に「水神社」が祀られている
ことを知りました。


また、ラッキーにも、地元の大先輩が


「川丁の水神社なら知っとるよ。案内しちゃるけぇ」

(大感謝!!)


で、早速、行って見ました「川丁の水神社」

水神社 益田市高津川丁


大先輩の案内が無ければ、おそらく発見できなかったでしょう。(そもそも「川丁(かわちょう)という地名すら知らなかったですけぇ…)

こうして、スムーズに「川丁の水神社」を発見することができたのですが…

この「水神社」が、これまで調べてきた、蟠竜湖から鍋島山八幡宮に移った「水神社」と同じ由緒のものか?

その疑問について、川丁に在住の「長老」、何人かに尋ねてみたものの、「川丁の水神社は、いつごろ、この地に祀られたのか?」についてすら、手掛かりとなる情報はありませんでした。


ただ、川丁の、とある「長老」からこんな話を聞くことができました。


「(水神社がいつごろ建てられたかは知らんが…)
この「水神社」というのは「水産」と「防災」の神様なんじゃ。

・水産とは「魚」…高津川の「鮎の豊漁をもたらしてくれる神様」
・防災とは高津川の「水害から守ってくれる神様」


ということなんじゃよ。」


※水神様は、本来、農業神というイメージがあるのですが、
「川丁の水神様」に関して言えば、水産と防災神へと変異しているようです。
これはこれで、民俗学的に面白いことではないでしょうか?


場所:高津川丁の水神社(中央の目印「高津川漁協鮎組合~高津支所」(←現在は多分、運営していない)ある建物の前です。)

★おまけ画像(2枚)
川丁の水神社の祠の前から撮影した、高津川周辺の風景


①土木遺産の「高角橋」

水神社から高角橋


②ダイワボウレーヨンさんの工場

水神社からダイワボウレーヨン

蟠竜湖から鍋島山八幡宮に移った「水神社」(益田市 高津)

以前の投稿で、益田市の蟠竜湖には江戸時代に「水神社」があったということをお伝えしました。

(高津町誌(復刻版)によると明和四(1767)年に建てられたということです)

※参照⇒蟠竜湖には昔、神社があった(益田市 蟠竜湖 水神社跡)

今回は、この蟠竜湖の「水神社」のその後について。

高津町誌での水神社に関する記述を今一度、見てみましょう。


水神社跡

所在地 高津町大字高津字水神堂


史実の大要及考證資料

唯心居士の疏通せる沖田灌漑用水の水源は沖田山の背後なる湖水 蟠龍湖より流出せる者にして、此の湖水の守護を祈願する為に津和野藩主の命により小祠を建て、明和四亥年來神主兩人立会ひ毎年祭事を行へり。

祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて此所より湖水全部を観眺すべく風光幽閑なる位置なりしが、神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。

現状 松林繁茂せる平坦面積二十坪許りの山地あり。


(高津町誌(復刻版)107~108ページ)


「神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。」とあります。


この鍋島山八幡宮…当初はどこにあるのかさっぱりわかりませんでした。

ですが、地元の先輩に詳しい方がいて、その場所について知ることができました。

場所は、高津柿本神社のすぐそば…ただし、現在その場所には明治39年に「水神社」が合祀されたという「鍋島山八幡宮」はありません。

「鍋島山八幡宮」…せめて神社跡でも!!と思ったのですが…

実は、「鍋島山八幡宮」があった山そのものが現在は存在しないのです!!


昭和40年前後に「鍋島山八幡宮」があった山は(土木工事にて、人の手で)崩されたということなんです。


「えっ、高津柿本神社の傍に、もう一つ別な山があったん?」


と不思議に思う人もいるでしょう。

益田市の高津公民館にて、昭和3年(1928年)頃の高津川の写真に、「鍋島山八幡宮」が写っているものを見つけました。

昭和3年頃 鍋山

※高津公民館さんには許可をいただき掲載しています。


「えっ!?、どこ?」と思われる人もいるでしょうから「矢印」つけておきます。

昭和3年頃 鍋山 解説


具体的な場所は、現在の高津柿本神社の下にある広い駐車場あたりということです。益田市高津公民館(高津地区振興センター)と高津柿本神社の間に小山があったんですネ…

ちなみに上の写真を撮影したであろう場所(近く)で撮影した今の画像がコチラ↓
(現地は草ぼうぼうなので、河原までいけませんでした。堤防からの撮影ですのでカメラアングルはかなり異なります)

現在の高津柿本神社がある山と周辺(益田市高津)



「鍋島山八幡宮」があった「鍋島山(鍋山)」の姿はありません。


「じゃあ、今、『鍋島山八幡宮』はどこにあるのか?」

高津柿本神社の楼門前から向かって右側にすすんだところに移築されています。


鍋島山八幡宮 益田市高津


鍋島山八幡宮2 益田市高津


「(鍋島山)八幡宮が見つかったってことは、水神社もここ↑に?」


という疑問が浮かんでくるのですが…今のところわかりません。


ですが…最近になって、益田市高津の高津川沿いに独立して「水神社」の祠があることが分かりました。


次回は、高津川沿いにある「水神社」の祠についてです♪
※つづきはコチラ!!(↓)
⇒鍋島山八幡宮にあった「水神社」と「川丁の水神社」(益田市 高津)

場所:(鍋島山)八幡宮

蟠竜湖には昔、神社があった(益田市 蟠竜湖 水神社跡)

先日、高津町誌(復刻版)をながめていたら、ちょっと気になる地図がありました。


それは、益田市の高津の蟠竜湖(ばんりゅう湖 蟠竜湖県立自然公園)に関する事なんですが…

益田市の蟠竜湖(ばんりゅう湖)に昔、神社があったようなんです。


場所は蟠竜湖のこの場所、「水神社跡」と記載されています。

高津町誌 蟠竜湖水神社跡

蟠龍湖看取圖 高津町誌(復刻版)139ページ


蟠竜湖の表記について…現在は蟠「竜」湖ですが、本来は蟠「龍」湖だったようです。(私見ですが、「龍」のほうが、この湖の形状などを視覚的にも表現できていますネ♪)

上の図を見ると、かつては、蟠竜湖の「上ノ湖」と「下ノ湖」は完全に分かれていたことがわかります。(今はつながっていますが)

「水神社跡」の位置は、蟠竜湖の上ノ湖と下ノ湖をわける尾根上にあるようです。

「水神」とは一体どんな神様!?

水神社…「水神」とはそもそも、どんな神様なのでしょうか?まずは(手始めですが)wikipedia(ウィキペディア)で調べてみました。

水神(すいじん、みずがみ)は、水(主に淡水)に関する神の総称である。


日本の水神

農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神は田の神と結びついた。田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多い。

また、水源地に祀られる水神(水分神(みくまりのかみ))は山の神とも結びついている

農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場に水神が祀られる。

水神の象徴として河童、蛇、龍などがあり、これらは水神の神使とされたり、神そのものとされたりする。


以上、wikipedia(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%A5%9E
より引用。

蟠竜湖にナゼ「水神社」があったのか?

では、蟠竜湖になぜ「水神社」があったのでしょうか?
益田市の高津地区の歴史に詳しい方ならご存知でしょうけど…蟠竜湖って昔は貴重な灌漑用水源だったんです。

再び、高津町誌をみてみましょう。

蟠竜湖に「水神社」がおかれた経緯が記されていました。


水神社跡
所在地 高津町大字高津字水神堂


史実の大要及考證資料

唯心居士の疏通せる沖田灌漑用水の水源は沖田山の背後なる湖水 蟠龍湖より流出せる者にして、此の湖水の守護を祈願する為に津和野藩主の命により小祠を建て、明和四亥年來神主兩人立会ひ毎年祭事を行へり。


祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて此所より湖水全部を観眺すべく風光幽閑なる位置なりしが、神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。


現状 松林繁茂せる平坦面積二十坪許りの山地あり。

(高津町誌(復刻版)107~108ページ)


蟠竜湖に「水神社」がおかれたのは「明和四年」、西暦で1767年ですから…今から約250年前になります。

ちなみに沖田灌漑用水(沖田疏水)の完成は宝永(寳永)4年(1707年)といわれています。
(※高津町誌(復刻版)134ページより)蟠竜湖の「水神社」は沖田灌漑用水(沖田疏水)が完成して60年後に建てられたことになります。

では、水神社は現在では、どこらあたりにあたるのでしょうか?…上記「高津町誌」の内容をもとに推測してみましょう。

水神社(跡)は現在では何処にあたるのか?


水神社(跡)は現在では何処にあたるのか?を検討する前に、まずは水神社を建てた理由についてふれておきましょう

・沖田灌漑用水の水源は沖田山の背後なる湖水 蟠龍湖より流出せる者にして、此の湖水の守護を祈願する為に津和野藩主の命により小祠を建て…

(本ページ、「水神とは?」で引用した)「日本の水神」での田の神、山の神の両方との結びつきも考えられます。

また蟠竜湖…その名にある竜…「龍」も水神の象徴(もしくは水神そのもの)として意味がありそうですね。


「水神社」があった場所については、

・「祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて…」
(「中央築堤」?中央「尾根」ではないのでしょうか?) 

※追記
中央築堤は「尾根」部のことではなく、上ノ湖と下ノ湖をわける箇所(現在「橋」がある場所あたり)を指しているようです。「なぜあの橋の部分が「築堤」と表現されているのか?」については、当地には「
以前は、石組の暗渠で水路は通じていた。」という情報から理解することができました。

ここで「石組の暗渠」はいつごろ何のために施されたのか?…という新たな疑問が生じるわけですが…(現時点では根拠(史料)はありませんが)大雨での急激な下ノ湖の水位上昇から(蟠竜湖側の)間歩の入り口(入水口)を守る…「入水口でのオーバーフローを防ぐため」と考えられます。

また、一説に、蟠竜湖はそもそも「上ノ湖」「下ノ湖」は一体であり、中央の尾根に向けて地続きに(築堤)したという話もあります。
(この辺りの資史料がないため、真相はわかりませんが…)

・「此所より湖水全部を観眺すべく風光幽閑なる位置」


・「松林繁茂せる平坦面積二十坪(66㎡ ざっと約8m×8m)許りの山地あり」


となれば場所はある程度限定できそうで、(いろいろ調べた結果)どうやら島根県立万葉公園の管理センターの対岸で一番高い所となりそうです。

水神社跡があると考えられる場所(益田市蟠竜湖)


今日(2015年6月13日)実際に島根県立万葉公園の管理センター側からこの地点を撮影してきました。

水神社跡があると考えられる場所画像(益田市蟠竜湖)


水神社跡の面積は約二十坪…約66㎡ といいますから、目安として約8m×8m程度の平坦地となりますネ♪
今度探検してみませう♪

※蟠竜湖の水神社跡…見つけることができたら、投稿しますね。

蟠竜湖の「水神社」のその後は何処へ?

さて、蟠竜湖の「水神社」はその後どこへ行ったのでしょうか?そして今はどうなってるのでしょうか?
高津町誌(復刻版)のよると、


・神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。
とあります。

明治39年は西暦で1906年。蟠竜湖の「水神社」は「明和四(1767)年から約140年後に鍋島山八幡宮に合祀されたといいます。

はて?「鍋島山八幡宮」ってどこにあるのでしょうか?

引き続き、鍋島山八幡宮についても調べてみることにしましょう。


つづきはコチラ!!⇒蟠竜湖から鍋島山八幡宮に移った「水神社」(益田市 高津)

【おまけ】
今日の島根県立万葉公園…管理センターあたりには「紫陽花(あじさい)」がとてもきれいでした。

島根県立万葉公園 紫陽花 20150613


万葉公園の紫陽花については…恒例の「花ナウ」で特集します♪

益田市の水源地 七尾公園の桜「2015」の風景 益田十景

本日(2015年4月2日)、益田市の水源地 七尾公園の桜を見に行きました。

時刻は午後1時過ぎ。平日にもかかわらず100人以上(駐車場は水源地、住吉神社も満車状態)の益田市民が満開状態の桜を楽しんでおられました。

益田市七尾公園 桜並木20150402


益田十景…七尾公園。満開の桜の中で、くつろぐ益田市民の方々

七尾公園桜20150402


住吉神社への石段がはじまる鳥居周辺の桜の風景。とてもリッチですネ。

益田市住吉神社鳥居と桜


※東側の空の青はいい色でした♪

2015年3月末ごろからいっきに開花したようです。
ちなみに、今年3月25日の益田市の水源地 七尾公園の様子がコチラ↓

益田市七尾公園20150325s


そして本日(2015年4月2日)の桜の様子です↓(ほぼ同じ地点から撮影です)

益田市七尾公園 桜20150402


わずか一週間程度でこの景色の変化…桜って凄いのう…

というわけで・・・

益田市の水源地 七尾公園の桜「2015」も、とても綺麗でしたよ♪


・・・で終わるのも、ちょっと…と思ったので、

益田市の水源地内の池の周りの画像を…

1つ目は、益田水源地の名物オブジェ…『進撃のエビス小僧

益田市水源地 エビス小僧s


進撃のエビス小僧』・・・ミカサがいうように「人間の比率で考えればあの魚(鯉?)を持ち上げられると思えないけど…」それを捕獲して嬉しそう、

でも、その喜びもつかの間、首や胴に巻きついた糸で?少し苦しそうにも見えます。

この糸、話題の「進撃の巨人」の調査兵団の仕業?…を意図したものか…益田市の水源地も、なかなかトレンディですね(笑)

2つ目は、水源地の事務所入り口両サイドの「樅(モミ)の木」

樅と桜と青空…元気でます!!

益田市水源地 樅と桜と青空とs20150402

本来、樅の葉色はもっと濃い緑ですが、花が咲いていたので、枝先あたりが黄緑色に輝いてみえます。(こちらも満開です♪)

益田市水源地 桜20150402


益田市の水源地 七尾公園の桜「2015」は今週の週末(4月5日、6日)がギリギリ…ラストチャンスかもしれません!?(雨が降れば、かなり厳しいかも!?)

染羽天石勝神社の幻の滝…「清滝」(益田市染羽町)

益田市の『染羽天石勝神社』には、かつては「滝」があったという話のつづきです。

その場所は、国指定重要文化財でもある『染羽天石勝神社本殿』に(向かって)右、正確には右下です。


今でも、その名残はあるわけですが、(前回の投稿でもお見せしましたが)流れ落ちる水量はさほど多くはありません。

染羽天石勝神社の清滝(益田市染羽町)

今回は、ここ益田市の『染羽天石勝神社』のかつての「滝」について、久しぶりに「益田市誌」で調べてみました。

まずは、江戸中期のころの『染羽天石勝神社』境内の様子がわかる図面

滝蔵権現者境内図


滝蔵権現者境内図(江戸中期)
出処:益田市誌 (昭和50年12月20日発行)
上巻 P344

図面内に「清滝」(赤いOで囲んでおきました)という記載があります。

江戸期の後期、当社東側の岸壁へ、付近にある溜池の水を小溝によって導き、滝水として落としている。
世に清滝、又は白糸の滝と呼ぶのがこれである。

出処:益田市誌 (昭和50年12月20日発行)上巻 P345

上の図面が滝蔵権現者境内図が江戸中期ごろで、下の引用文が「江戸期の後期…」から始まっていますが、中期にすでに清滝は記載されています。

益田市誌内で、すでに矛盾があるわけですが、貴重な史料であることには間違いありません。


とにかく、私が知りたかった
『染羽天石勝神社』の幻の滝の名は「清滝」という名であったことがわかりました。


また、「付近にある溜池の水を小溝によって導き、滝水として…」という部分から、「清滝」は人工的に造られた滝であることも知ることができました。

では、なぜ、現在は水量が減ったのか?・・・
については、(詳細はわかりませんが)開発(東高の野球のグランド?)により消失したとききます。
(水源が無くなったわけです。)

であれば、「清滝」古い写真の1枚や2枚は益田市内のどこかに存在しているかもしれませんネ!?


大雨の日には、「清滝」が現れる!?



染羽天石勝神社の御神職様によれば、
「今日は(清滝は)こんな感じですが・・・大雨の日にはこの滝を流れ落ちる水量はかなり増しますよ。」

と、なんか嬉しい話がありました。

「えっ、じゃあ、今度は大雨が降っているときに是非、この「清滝」の真の姿を見たいものですね♪」


と思わず話したところ、


「ええ…ただし!水だけではなく、木の枝や、岩が落ちて来ますのでとても危険です!! 絶対に近寄らないでくださいネ!」

とのことでした。・・・「ハッ、ハイ!了解いたしました(汗)」

というわけで、

(万一)大雨の日に、染羽天石勝神社の「清滝」を見学する際には、滝には近寄らず、遠い場所からにしてくださいませ。

染羽天石勝神社の「幻の滝」を発見!?(益田市染羽町)

益田市の『染羽天石勝神社(本殿は国指定重要文化財)』には、かつては「滝」があったという話、皆さんは、ご存知ですか?

「『染羽天石勝神社』にはのう、昔は滝があったんじゃけぇ」

これは、今は亡き父と6年くらい前に、私が、初めてここ『染羽天石勝神社』に参拝した時に聞いた話です。


「そりゃ、すごいのう!…滝はどこにあったんじゃ?」

と(父に)尋ねたところ、


「そりゃ、知らんが…」と、なんとも、信憑性の無い話だと思いましたが、

ただ、もしも「滝」があったとすれば…それはそれで、凄い!と思いつつ、数年を過ごしていました。


このたびの一連の『染羽天石勝神社』見学参拝投稿特集の初日だったのですが。

家に帰って、どうしても「滝」のことが気になったので、

思い切ってw「染羽天石勝神社」にお電話して聞いてみました。

「お忙しいところ恐れ入ります。『染羽天石勝神社』について教えてほしいことがあるのですが…」


お応えいただいたのは、おそらく、『染羽天石勝神社』の宮司様だと思われます。

「ハイ、何でしょう?」


「実は、『染羽天石勝神社』には、かつて「滝」があったという話を聞いたのですが、どこらへんに(滝は)あったのですか?」

すると、


(染羽天石勝神社)本殿の右!」…と4文字。実にシンプルなご回答をいただきましたw

「ああ、そうですか!すると、まさか、あのチョロチョロと水が流れ落ちてる場所のことでしょうか?」


「そうそう」…と、また4文字のシンプルなご回答。


「分かりました!ありがとうございました!」


というわけで、数日後、ふたたび、益田市の『染羽天石勝神社』に見学参拝したわけです。


そして、益田市の『染羽天石勝神社』現地にて以前、「滝」があったという場所がコチラ!

染羽天石勝神社の幻の滝(益田市染羽町)


この日も、水量こそ少なかったのですが、プチ滝的状態でした。

滝の高さは、ざっと、2~3メートル。本格的な「滝」を想像していた人には、物足りないかと思います。ですが、水琴のような音が本殿まわりでささやくように聞こえてくる。この風情は、なかなかのものです。

お昼近かったのですが、ちょうど滝壺(?)に日光が差し込んでスポットライトのようでした(よかった♪)

益田市 染羽天石勝神社の滝壺


水がはねている様子。わかりますよネ!?

水量さえあれば、庭園などに見る、ミニ滝の部類になるでしょう。


益田市の神社境内に「滝」があるのは、(私が知る限り)『染羽天石勝神社』のみです。


次回は、
⇒益田市の『染羽天石勝神社』の(幻の)「滝」の名前と歴史について
です。

益田市の染羽天石勝神社本殿に感じたクールな「手挟」考

益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟(たばさみ)」について。

「手挟(たばさみ)」は見ての通りの「向拝の補強」部材ですが、あわせて「空間の装飾」という役目をしている部材です。我が日本独自の手法であると聞きます。

インターネットで「手挟(たばさみ) 画像」と検索すれば、全国各地の神社のそれは、それは見事な彫刻を施された画像を見ることができます。

染羽天石勝神社本殿の「手挟」を見てみましょう。

染羽天石勝神社本殿 手挟2


白く塗装された部分「手挟」と呼ばれる部材です。

不思議なのは、拝殿ではなく神殿の「手挟」となると、一般の参拝者は拝見できないと思います。(位置的に)でも、そんな場所でも、こだわる…そういう意味でクラフトマンシップ!を感じています。

で、(ほぼ、いないと思いますが…)インターネットで「手挟 画像」と検索し、豪奢な彫刻が施された「手挟」を見た人は、

益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟」はかなりシンプルなデザインに見えるかもしれません。

ですが!

私は、染羽天石勝神社本殿の「手挟」には他(の神社の「手挟」)にあまりみない、特徴的な技法を感じました!!

もう少し大きい画像で説明します。

先の画像にて2つの「手挟」がありましたが…奥の方が破損がないように思われますので、そちらで解説します。

染羽天石勝神社本殿 手挟 奥s


私が益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟」をクール♪と感じたのは、ここの部分。

染羽天石勝神社本殿 手挟 奥sクール


赤丸の中の部分・・・蔓(つる)のように見えるところ…白い点線をつけていますが、
「これって連続性を感じさせますよね…実際は連続性は無いのですが・・・」

こんな技法は他の神社の(豪奢な彫刻が施された)「手挟」にはみられません。

地味ですが、こんな技巧こそ、クールジャパンですよネ♪

益田市の宮ヶ島、驚きの昔の風景写真(小浜町)

益田市の風景で最近全国的に有名になった場所といえば

宮ヶ島の恵比寿神社(衣毘須神社)ですよね。

私、昨年の3月に益田市の小浜町にある宮ヶ島の恵比寿神社(衣毘須神社)に初参拝いたしました。
※以下のカラー画像は当時(昨年2014年3月に撮影したものです)

益田市宮ヶ島


さて、今回は
宮ヶ島の過去の風景はについて。
私の少年時代の
宮ヶ島の風景の記憶は、今の風景と全く違っていた
ということを語りたくての投稿です。

昔の記憶なのですが、今の宮ヶ島とは全く違う当地の風景の記憶がありました。


宮ヶ島の一番古い記憶は(当時は島の名前すら知りませんでしたが)
昭和40年代…JRが、まだ「国鉄」といわれていたころ。

山陰本線をはしる蒸気機関車から見えた当地の風景の記憶です。

次に古い記憶は、昭和50年代…高校時代、

当時、凝っていた、自転車(ロードレーサー)で、
ここの防波堤沿いの道をノロノロと走りながら「益田市にも凄い場所があるなぁ~」と感じた記憶です。


実は、この2つの記憶風景には現在の宮ヶ島の風景と比べると、絶対的に異なる点があるのです!

「宮ヶ島はもっと鬱蒼とした「松の木々」があったような…」

益田市の宮ヶ島には「たくさんの松の木が茂った岩山…」という記憶でありました。


「あれは、私の記憶のズレ?勝手に作り出した記憶の風景…記憶の改竄…妄想?」と思うと、

(密かに)「まさか、すでに認知症!?」の不安もありましたw


ところが!!
つい先日、昔の「宮ヶ島」の画像を見ることができました。

益田市の戸田ご在住の青木さんから、その画像(写真)をコピーしたものをいただきました。

宮ヶ島の古写真

「おお!わしの記憶は正しかった、確かにコレ↑この風景じゃ♪」
(認知症ではなかった!)

ついでに、現在の益田市の宮ヶ島の昔の松の枯れ木、「最後の松」と日本海の荒波の風景を!

最後の枯れ松 宮ヶ島2014年3月21日撮影


ということで、喜びのあまり(?)
宮ヶ島の古い画像と近いアングルで撮影した最近の画像をトリミング加工して↓

宮ヶ島2014年3月21日撮影トリミング


益田市の宮ヶ島の過去と現在の違いを分かりやすくする、比較用に画像を重ねてみました。

宮ヶ島2014年3月21日撮影トリミングss


いかがでせうか?違いが分かりますか?圧倒的な松の木々の存在です。分かりますよね!

撮影アングルが異なるためのズレは大目にみてくださいまし。

(だけど・・・どうしても手前の鳥居だけは大きさも場所もズレているのが気になりますけど…)


これぞ!「今昔写真考学」略して「今昔写考学」…(殆んど略れていないw)

「今昔写考学」…と民俗学に新たなジャンルをつくったのですが(個人的に)面白い♪
これからも続けますョ!!

染羽天石勝神社内の大元神社の石段と本殿の「手挟み」(益田市染羽町)

前回の染羽天石勝神社本殿の側面の蟇股を見学した場所までのルートについて。

前回の染羽天石勝神社本殿の側面の蟇股を見学した内容はこちら↓

>>益田市の染羽天石勝神社本殿「蟇股」考。久々の発見「久文字」

益田市の染羽天石勝神社本殿の側面を見学させていただくためには、
本殿に向かって左にある「大元神社」に向かう石段を上ることによって可能になります。
(なお、今回はご神職様よりご許可をいただいたうえでの撮影です。)


早速ですが、
染羽天石勝神社本殿に向かって左の「大元神社」のお姿(正面)。

益田市 染羽天石勝神社の大元神社


そして、この「大元神社」につながる石段は↓こんな感じです。

益田市 染羽天石勝神社の大元神社への石段


この石段、グニャグニャしていますよネ。

石段右の巨木の幹と根が石段にかける圧力によるものです。

おそらく根は石段の数か所を持ち上げていると思われます。
足が弱い私は、石段左の手すりがなければ到底、上ることはできませんでしたよ。この石段・・・

あわせて、植物の持つ凄い力をあらためて感じました…。

実際に、大元神社への、この石段を上っていくときなんですが、)
歩を進めるごとに石段の角度が変化するので、何度か不思議な眩暈をおこし、
それが(かえって)神聖さに近いものとして感じられました。


染羽天石勝神社の、かつての資料(図)によれば、大元神社はこの場所よりももっと奥、そして高い位置にあったようです。また、現在の大元神社の場所には、かつては春日神社があったようです。

(そのあたりは、別の機会に投稿させていただきますネ)


さて、この石段を上りきり、大元神社に参拝した後、染羽天石勝神社本殿の側面を見学させていただけたのですが、

染羽天石勝神社本殿側面左


この場所にて本殿側面の「蟇股」2種を見学させていただいたわけです。

さらに!!

ここまでこの記事に目を通していただいた方への感謝の気持ちとして…♪


この場所でしかみれない部材のひとつ、染羽天石勝神社本殿「手挟(たばさみ)」の画像です。

染羽天石勝神社本殿 手挟2

この「手挟(たばさみ)」かなりこだわっています。

お解り頂けると思いますが…本殿正面からは見えません。見えない場所にもこだわる。・・・否、見えないからこそこだわっている…


これぞ職人魂!…見学、発見できて、うれしい!わけです♪

この「手挟(たばさみ)」…クラフトマンシップについてはこちら↓のページにて。
益田市の染羽天石勝神社本殿に感じたクールな「手挟」考

おやすみなさいませ。

益田市の染羽天石勝神社本殿「蟇股」考。久々の発見「久文字」

今回も益田市の染羽天石勝神社(式内社)その本殿(国指定重要文化財)に関する話題です。

今回は、染羽天石勝神社本殿「蟇股(かえるまた)」について。


「え?蟇股(かえるまた)?何それ?」って人も多分多いでしょう。


「蟇股」は神社建築様式の細部における名称の一つです。


早速、実際に染羽天石勝神社本殿の「蟇股」を見てみましょう。

本殿正面の画像です。

染羽天石勝神社本殿


で、こういった形状の部分が「蟇股」とよばれる部分です。染羽天石勝神社の本殿正面部には手前と奥に計6つの蟇股が施されています。(最初の画像をご参照ください)

蟇股 中央 染羽天石勝神社本殿


「なぜ、蟇股というんじゃ?」という人もいるでしょうが、それは後で説明します。


実は、今回、益田市の染羽天石勝神社本殿の正面奥の「蟇股」である発見をしました♪


久々の発見です!!早速どうぞ!

蟇股 中央奥に久 染羽天石勝神社本殿


わかりますか?
何かの花が咲いている木の中央部に「朱色で」の字が忍ばされているではありませんか?

念のためちょっと目立つように画像加工しました。

蟇股 中央奥に久ss 染羽天石勝神社本殿


益田市の歴史にかかわる「久」の字の意味、わかりますか?
益田市民や益田市ご出身の方ならわかりますよネ!!


ヒントはこの家紋↓です。(画像は染羽天石勝神社の拝殿(神楽殿)の屋根の頂部)

上り藤に久s


上ぼり藤に久」の家紋です。
益田氏の家紋ですネ。また、益田氏の旗紋は「久文字」と称されたように
「久」は益田氏のシンボル的な文字なんです。


ちなみに、本殿正面奥の三つの蟇股はすべて同じデザイン
すべて中央部に「久」の字が忍ばされています。

染羽天石勝神社本殿を撮影した日、(今回の投稿2番目の画像にあたりますが)正面手前の中央の蟇股のデザインは何だろう?と悩んでいた際、偶然発見しました。(正面手前の中央の蟇股のデザインについては今も不明です…)

ご神職様も「(「久」の字、初めて気づいた!!」といっておられました♪


さて、話は「蟇股(かえるまた)」に、またかえりませうw

蟇股とは大蛙(おおがえる)が股を広げて、とび立つ直前の姿勢から名付けられたそうです。
もともと、上部の荷重を支える構造材ですがだんだん飾り的なものになっていったといいます。
特に、室町時代になると、蟇股の内部彫刻が発達し多様化したということです。

(参照…寺院・神社・住宅の見学必携〔総合編〕著者:下村健治 平成10年10月 株式会社 コロナ社)

では、(この際ですので)益田市の染羽天石勝神社の本殿すべての蟇股をご覧いただきましょう。

まずは本殿正面中央

蟇股fc染羽天石勝神社本殿正面中央

本殿正面(向かって)左
蟇股fl染羽天石勝神社本殿正面左

本殿正面(向かって)右
蟇股fr染羽天石勝神社本殿正面右

本殿正面の左右の蟇股のデザインは同じようです。(破損がいくつか見られます)

次に、本殿側面(向かって左側面)…まずは左側面全体のお姿
染羽天石勝神社本殿側面左

身舎(おも)の壁に2つ(2種)の蟇股が施されています。
染羽天石勝神社本殿側面s

向かって左の蟇股…植物の葉、笹でしょうか?
蟇股sl染羽天石勝神社本殿側面

想像ですが、男爵益田氏の家紋が「九枚笹」と聞きますので「笹」も益田氏にゆかりがあるものかもしれませんネ。

最後に向かって右の蟇股…ことらには魚の姿2匹、鮎でしょうか?
蟇股sr染羽天石勝神社本殿側面
鮎の遡上の様子にも見えませんか!?
激しい流れに逆らって川をのぼっていく鮎は「逞しく生きる」という面で、シンボリックな存在だったのかもしれません。
また「鮎の遡上が多い年は秋の収穫も豊作になる」という話もあるようですので…
この魚、鮎だったらいいなぁ♪

※今回は本殿背面(後ろ面)と右側面は確認していません(おそらく右側面は左側と同じ様子だと思います。)

益田市の染羽天石勝神社の本殿の現地の案内看板への疑問

今回も益田市の染羽天石勝神社(式内社)についての投稿です。

前回の投稿で、

「益田市の染羽天石勝神社の本殿(染羽町1-60)と春日氏」

にて染羽天石勝神社の本殿の案内看板について言及しました。

染羽天石勝神社本殿 説明

問題個所↓

本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(おも)の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ、両側のみに高欄付の縁をもちます。

と「益田市の教育委員会」作成の看板には記述されていますが…

染羽天石勝神社の本殿 側面

どうみても、身舎(おも)の側面は2間!・・・私は「土木」の世界しか知りませんが…(建築知らなくても)見ればわかります。

実は、これは、文中の「の」を「。」に修正することで「染羽天石勝神社の本殿」の(より)正確な「お姿の表現」となります。

すなわち、


本殿は三間社流造で、三間×三間身舎(おも)の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ・・・

であれば、完璧ではないです。が…(かろうじて)まぁいいか的記述に修正できます。

そもそも、三間×三間の身舎(おも)で「流造」を造ろうとするなら、
一般の三間社流造のデザイン&バランスを維持することを前提とすれば、前方の張り出した屋根の部分(特に柱による支持がない部分)が長大になるため、強度をもたせる必要があります。
これは、木造では相当な仕掛け(工夫)が必要です。

私にはそんな建築構造的仕掛け(工夫)…想像できません。


といいますか(スイマセン・・・率直に語るべきでした。)

染羽天石勝神社の本殿は前三間×横二間の基本的な作りです。

一体どうして、「本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎(もや…意味は「母屋」とほぼ同じ)」という記載を看板にしたのでせうか?

なにより、益田市の染羽天石勝神社の本殿。天正9年(1581年)に消失し再建された建物ですが、

なぜ!板面をさいてまでも、「三間×三間の身舎(もや)」という事、そして・・・両側のみに高欄付の縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。

って、特筆すべきことなのでせうか?…私はどうしても、特筆に値することとは思えないのですよ。

実は、今日も、青空だったので、お昼の時間に、益田市の染羽天石勝神社へお参りに行きましたが、もっともっと魅力的なモノがみつかるんですネ。

それは、今後、記事掲載するとして。


シンプルに益田市の染羽天石勝神社の本殿は天正年間、否、16世紀から残っている「歴史的建造物」。
それだけで十分価値は伝わるのではないでしょうか?

今回の益田市の染羽天石勝神社の本殿に関する「益田市の教育委員会」作成の看板にみられるような、事実と違うこと、誤った価値観などを軽率に看板に載せると、見る人は「無意識レベル」で違和感を覚えるものです。


ですから、「凄い!」とか「感動!」は残らず、「え~、なんで…意味ようわからん!?」といった感覚だけが残りますでしょ!?


「うんうん、それは分かった!じゃが、なにもそこまで細かい事までいわんでもエエじゃろう!?」


と思う人もいるでしょう。

でもね、「染羽天石勝神社の御本殿」は、国指定重要文化財なのですのであえて厳しいお話をさせていただきましたわけです♪

益田市の染羽天石勝神社の本殿(染羽町1-60)と春日氏

益田市の式内社について特集を組んで早1年。

やっとのことで染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)について投稿の機会(決心)を得ることになりました。

染羽天石勝神社は式内社益田市に現存する4つの「延喜式内社」(「式内社」)のうちの一つです。


染羽天石勝神社は「春日氏、春日族」の創設故、これまで以上の緊張感をもって記述しなければなりません。

染羽天石勝神社本殿


■御祭神
主祭神:天石勝命
相殿神:伊邪那岐神 伊邪那美神 天照大神 国常立神 事解男神
    速玉男神 忍穗耳神 瓊々杵神 彦火々出耳神 葺不合神
    軻遇突智神 埴山姫神

染羽天石勝神社の手水舎の傍には、益田市の教育委員会による
「染羽天石勝神社 本殿」に関する案内板があります。

益田市の教育委員会作成の案内板「染羽天石勝神社 本殿」内容…公費でつくった看板ですw

染羽天石勝神社本殿 説明


内容を読み込んでいくと
「染羽天石勝神社本殿」は国指定重要文化財とあります。
「染羽天石勝神社本殿」の案内板では、国指定重要文化財の指定となったのは昭和4年4月6日とあります。
昭和4年・・・1929年のことです。

実は(ご存知の方も多いと思いますが)指定された「昭和4年」時点では「国宝」でした。

益田市の教育委員会が作った「染羽天石勝神社本殿」の案内板…「国指定重要文化財の指定となったのは昭和4年4月6日」という(事実)それ以外を読んでみると、大事な部分がわかりにくい!

これは、教育委員会のスタッフ本人の言葉ではないようです。
いわゆるコピペ、受け売りですねw)・・・3月12日追記です…スイマセン、コピペとか受け売りレベルではないようです。コレ単純に妄想レベルの情報です。見ればわかる記述の間違いがありますんです。
具体的には次の投稿で…

問題個所↓

本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎の前に奥行一間の吹き放し板張りの庇床(ひきしゆか)をもうけ、両側のみに高欄付の縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。


と書かれてますが。わかります?伝わります?・・・よほど神社建築に精通したひとでなければわかりません。

というか(誰か知りません)書いた本人が分からない述語で述べているのだから、伝わるはずがありませんよネw

そのへんは、後日フォロー(批判)するとして。

フォローしました♪↓(2015年3月12日)
⇒益田市の染羽天石勝神社の本殿の現地の案内看板への疑問

益田市Tips!
益田市の染羽天石勝神社への御参拝は、

晴れた日の「午前中」がおススメです!!

本殿の向きが「東南東」だからです。太陽のパワーは午前中。

さて次回から、より細かく「染羽天石勝神社」について語ります。


場所(MAP):染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)
島根県益田市染羽町1-60