益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

高津柿本神社

高津柿本神社の「楼門(ろうもん)」を鑑賞(益田市 高津)

益田市の高津町にある、島根県の文化財の柿本神社(かきのもと神社)


柿本神社は、万葉の歌人である柿本人麿(かきのもとひとまろ)をまつっている神社です。

柿本人麿は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えていたといいます。
そして、ここ益田市には神亀元年(724年)、益田市沖にあったという鴨島という島で亡くなられたという「伝説」があります。

柿本人麿は諸説があり現在でも、特定できないという謎だらけの人物。だから、生誕地とか没した場所とかについては具体的な「一次資料」…つまりは考古学での「木簡」レベルの品が出てくるまでは、決して特定できないわけです…現在の、「証拠」のレベルは、空想というか妄想によるもので、議論の価値を感じていません。

さて、今回、ご紹介するのは、高津柿本神社に実存する「楼門(ろうもん)」について語る事にしませう。

高津柿本神社 楼門 光


               撮影:2015年4月21日

柿本神社楼門(ろうもん)は本殿、拝殿に向かう石段の中ほどに建立されています。

高津柿本神社 楼門



※楼門について調べてみました。


「楼門(ろうもん)」 とは、2階建てで1重目には縁のみを持ち、最上重に屋根を持つもの。楼門は、二階造りの門のことで、二重門も本来は楼門といった。2重の屋根のあるものとそうでないものがあるため現在は、楼門と二重門に分類されている

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

柿本神社楼門


柿本神社楼門(向かって右斜め前より撮影)

柿本神社楼門 斜め右より


この楼門の傍に「柿本神社楼門由緒」という説明看板があります。

柿本神社楼門由緒


柿本神社楼門由緒より一部引用

   現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝9年(1681)、高角山に本殿、拝殿、楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。

  この楼門は、初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で、屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け。勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。


まさに匠の技による堅牢かつ豪華なつくりの楼門です。
しかも、かなりの歴史と由緒があるようです。

益田市を代表する歴史的建造物であることは間違いありませんね♪

柿本神社 鳥居と楼門


                【撮影:2009年4月】

高津柿本神社の昭和10年頃の姿(画像)(島根県益田市)

益田市の高津地区にある全国的にも有名な『高津柿本神社』。

「本殿」は昭和57年(1982年)6月18日に島根県の有形文化財(建造物)に指定されています。

このたび、この高津柿本神社の古い画像を発見したので、投稿しておきます。
出拠は『高津町誌』(復刻版『高津町誌』)からです。「高津連理の松」の古い画像を探している際に、本誌にて偶然発見しました。(この画像は、昭和10年前後に撮影されたものと思われます。)

昭和10年前後撮影の高津 柿本神社の画像


本画像、手前(旧)拝殿の奥に見える建物が「島根県の有形文化財(建造物)指定」の『柿本神社 本殿』。
そして、この画像を手がかりにして、同じアングルの想定…というか、5~6m下がって、撮影した現在の当地の画像です。

高津柿本神社平成10年の拝殿新築後


「拝殿」のサイズがかなり大きくなっているのがわかります。
実は、益田市の高津柿本神社の「拝殿」は「平成10年(1998年)2月に新築」されたそうです。
新しくできた銅版葺の拝殿…つくりも凝っていて(特に屋根が)…見た目、豪華です。

しかしながら、「拝殿」前の広場からは「本殿の姿」は殆ど見る事ができない状態です。

実は、5年前、益田市に戻り、本当に久しぶりにこの神社を訪れた際、なんとなく違和感をありましたが、それが、何によるものなのかはその時はわかりませんでした。
今回、たまたま、昭和の時代の「拝殿」と、平成10年(1998年)2月に新築された「拝殿」を比較して、初めて「何が違和感を引き起こしたのか!?」がわかりました。

少し残念な気がします。

但し、この拝殿、建て替えで本殿が見えなくなったことで、新たな気付きもありました。
「この高津柿本神社の敷地…とにかく「狭い」という、地形的な制約条件の下で建てられている」という事です。

日本の多くの神社は表参道を進む、(石段を登る)と「正面」の姿を現わすのが一般的ですよね。

ところが、柿本神社の場合は、神社建物の側面に向かって、参道が配置されているのです。
参道の石段、途中、有名な「柿本神社の『楼門』」をくぐり、さらに登りつめた所、その終点で見上げると柿本神社の「拝殿の側面」が構えています。



益田市 高津柿本神社 参道の終点


ここから、画像左の最後の石段を登り、さらに、向かって左側に回り込むことにより柿本神社の正面の姿を拝むことができるのです。(石段右側の説明板「柿本神社本殿」の内容は、正面に見える「拝殿」について記載されたものと錯覚する観光客…きっと多いでしょうネ)

当地を訪れた方は記憶にあるかも(いえ、多分気付いていないでしょうが)、拝殿・神殿の敷地面積がかなり狭いため、拝殿周囲には神殿を拝見できる場所(ゆとり)が無いのです。

この「狭い敷地」という制約のゆえ、「本殿と拝殿の建物サイズの構成(バランス)」センス的な見方で、旧「拝殿」の方がサイズ的に「絶妙」に配慮され、優れていた、と感じられるのです。…(私はネ)

益田市の高津柿本神社「本殿」の説明板を読んで(島根県指定有形文化財)

益田市 高津の「柿本神社」。
石段がはじまる鳥居から楼門~と少しずつ石段を上がっていくと、手水舎(ちょうずや・てみずや)がある広場に出ます。

この手水舎の左には「柿本神社本殿」の説明板が設置されています。
(因みに、画像左の石段…あと10数段で、いよいよ柿本神社です。)

この説明板から知ることのできる情報は大きく分けて3つ。

高津の柿本神社に関して

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)に関する情報

が記載されています。(本記事の後半にも記していますが、この説明板の上記3つの情報を手掛かりにし、私が興味を持って探求したより詳細な内容を次回以降あらためて投稿していきますネ。)

高津 柿本神社説明板と手水舎


今回は、まず「全文」をご紹介します。


島根県指定有形文化財 柿本神社本殿(指定 昭和57年6月18日)

柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
①鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長13年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文11年(1671年)には津和野藩主 亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。 
 そして、延宝9年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
 
②本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入(いりもやづくりつまいり)、桧皮葺(ひわだぶき)で、唐破風造(からはふうづくり)の向拝(こうはい)を有し、津和野の方角を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇(しゅみだん)があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。

 
③また、柿本神社は享保8年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊(ごほうらくごたんざく)が奉納されています。 
平成8年3月 益田市教育委員会


限られたスペースの中で
1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史
2.柿本神社本殿の建造物的価値(魅力)
3.社宝(『御法楽御短冊』)

3つの重要事項がコンパクトに纏められています。と私は解釈しています。


私が初めて、この説明文を読んだ時
「なんだか、歴史的にも、文化財的にも、厚み・価値があって…凄そう!!」と感心しました。

この「凄そう!!」とう思いがきっかけで、現在、高津 柿本神社…柿本人麿(柿本人麻呂)…万葉集等々、興味を広げ、調査・探求を楽しんでいます。


次回からは、以下の3点の項目

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)の情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)についての情報

それぞれについて、段階的に自分が調査・探求した情報より、補足・解説を試みたいと思います。

MAP・場所:高津柿本神社(正一位柿本神社)

益田市の高津柿本神社の歴史(前篇:起源編)

益田市の重要な歴史的建造物の一つ「柿本神社本殿:島根県指定有形文化財(指定 昭和57年6月18日)」

当神社には平成8年3月に益田市教育委員会によって作成された「柿本神社本殿」の説明板があり。以下の3つの情報(事柄)が記載されています。

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)に関する情報

高津 柿本神社 本殿


※全文については⇒益田市の高津 柿本神社「本殿」の説明板を読んでをご参照ください。)

今回は
1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
の記載内容について細かく見て行きます。(前半篇と後半編の2部構成にしています。)

まずは「柿本神社本殿」の説明板の当該部分の前半篇

 柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。

 鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。

高津「柿本神社」の起源…「伝説」的な事柄。人麿の終焉地「鴨島」から始まります。
万寿三年(1026年)の大地震の大津波で「鴨島」にあったとされる「人麿尊像」が、高津の「松崎」に漂着し、松崎の地に改めて社殿が再建された…ということ。


この部分は、益田市の高津浜地区にある「松崎の碑」に記載されている内容ですネ。
※参照⇒「松崎の碑」とは!? (益田市の「高津連理の松」遺跡内)

松崎の碑文 益田市 高津浜地区

※補足:上記画像「松崎の碑」は高津の浜地区、かつての「高津の連理松」の地内にあります。
この碑は本来は、異なる場所、現在の「益田道路」地内にあったそうで、移設され、当地となったようです。(現時点では、私は、本来の「松崎の碑」があった場所は把握できてない状態です。)

「万寿三年(1026年)の大地震とそれによる大津波の発生」について
1992年~1993年(平成4年~5年)にかけての「鴨島学術調査」における「トレンチ発掘調査」にて、この津波の痕跡は確認されました。ですが(肝心の)「鴨島」の「場所」については「益田市の中須沖」説は立証できていないようです。
次回は、確かな記録がある1600年代からの「柿本神社」建立に関する歴史について考察します。

(万寿三年(1026年)より、なんと約600年後からのお話しとなります。)

高津柿本神社の歴史(後篇)付「大久保長安 奉納 銅製六角釣灯籠」画像

平成8年3月に益田市教育委員会によって作成された「柿本神社本殿」の説明板…限られたスペースの中で絶妙に興味をそそるキーワードが散りばめられています。


今回は引き続き、1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報について。
前篇では、益田市高津の「柿本神社」の「起源」についての情報をとりあげました。
⇒益田市の高津「柿本神社」の歴史(前篇:起源編)
今回は後篇なります。まずは当該内容について

 その後、近世に入り慶長13年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文11年(1671年)には津和野藩主 亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。 

高津の柿本神社の歴史のお話は、万寿三年(1026年)から、一気に約600年後!慶長13年(1608年)

(当該地は、現在の柿本神社ではなく現在の益田市、高津浜地区の「松崎」となります。)

※なお、「石見銀山奉行大久保長安によって造営され…」とありますが、正しくは、社殿を「再建」です。


◆大久保長安 奉納銅製六角釣灯籠
江戸幕府の第2代征夷大将軍「徳川秀忠」の命により、石見銀山奉行「大久保長安」によって造営され…島根県が誇る『世界遺産:石見銀山』の大久保長安の登場です。

事実、益田市高津の「柿本神社」の「宝物殿」には「大久保長安 奉納銅製六角釣灯籠」が保管されています。(笠の装飾、羽根状のモノが一枚(正面部)欠損していることがわかります。)

大久保長安奉納銅製六角釣頭灯籠1


説明書きは
大久保長安 奉納銅製六角釣灯籠
慶長13年(1608年)正月 高さ52cm
初代石見銀山奉行・大久保長安が慶長13年
松崎にあった社殿を再建した際に奉納したもので、火袋に次の銘が刻まれている。
 
 奉寄進石州高津之人丸
 慶長拾三年戊申正月吉日 大久保石見守敬白


大久保長安奉納銅製六角釣頭灯籠2

※「金燈篭(灯籠)」とありますが銅製です。 
…それにしても、なぜ、銀山奉行様が「柿本神社」の再建なのか!?(この件については、いずれ解説します。)


以降は現在の高津 柿本神社の創設と津和野藩に関するお話し。

 そして、延宝9年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。

亀井茲政(これまさ)による現「柿本神社」地への移設について「風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転」…

この記載事項の背景は…江戸時代の元和2年(1616年) 津和野藩主 亀井正矩(かめいまさのり)による「名越(なごし)」の「水刎(みずはね)工事」による新河川の開削があります。
 
 この「新河川」が松崎の地を(基本、砂地なので…)徐々に浸食し、石見銀山奉行「大久保長安」によって再建された「柿本神社」を取り巻く環境を脅かしたのでは?と私は推測しています。

さて、次回は(いよいよ)高津の「柿本神社 本殿」の建造物としての魅力。その解説です。

高津柿本神社「本殿」を観賞(桧皮葺・唐破風造の向拝…様式:中山造)

「柿本神社本殿」の説明板(益田市教育委員会による)を読み、好奇心が芽生え、

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)的情報
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報
3.社宝(重要美術品認定の『御法楽御短冊』)に関する情報


私なりに詳細に調べた内容を特集しています。

今回は、
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値の情報 

  本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入(いりもやづくりつまいり)、桧皮葺(ひわだぶき)で、唐破風造(からはふづくり)の向拝(こうはい)を有し、津和野の方角を向いています。 
  殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇(しゅみだん)があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。

さて、本分前半(赤字)部分を要所ごとに分解してみました。

①本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入(いりもやづくりつまいり)
②桧皮葺(ひわだぶき)で、
③唐破風造(からはふづくり)の向拝(こうはい)を有し、
④津和野の方角を向いています。

では、益田市「高津の柿本神社 本殿」の画像を見てみましょう。

高津 柿本神社本殿 


①「入母屋造妻入(いりもやづくりつまいり)」なのか?
妻入り:屋根の面からみて、横の壁に入り口を持つもの…当初、高津柿本神社の本殿は「春日造り」では?と思いましたが。本殿の後ろ側にも庇が施されており(※神社としては、珍しい)入母屋造と(私も)判断しました。

※構造様式的には神社建築様式というより、寺院建築様式に近いものが感じられます。「向拝」部を除けば、京都、往生極楽院(三千院)の阿弥陀堂に似ています。

※あるいは、神社建築様式「中山造」の可能性も…岡山県津山市「中山神社」をはじめとした当地の神社の本殿の建築様式と特徴が一致しています。(中山神社では唐破風造(からはふうづくり)の向拝(こうはい)もあります。)

※本当に注意深く観察するとわかるのですが、構造的には錣葺屋根です。(元来は錣葺(しころぶき)だったのかもしれません。)

いずれにしても、高津柿本神社「本殿」は大変珍しい建築様式といえます。

②の「桧皮葺(ひわだぶき)」…冬の寒い時期に撮影したせいか、「とても暖かそう」に感じました。

③「唐破風造(からはふづくり)」の「向拝(こうはい)」…は専門的で難解でしたが、よく調べてみると「唐破風造(からはふづくり)」は形状的な特徴。そして「向拝(こうはい)」は社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分であることが分かりました。文字による説明だけでは(多分)分かりにくいと思いますので補足画像を掲載します。

※「桧皮葺(ひわだぶき)」

桧皮葺(ひわだぶき)


「桧皮葺」の屋根…見ているだけで、まるで、毛皮のような柔らかい暖かみを感じる質感です。
これだけの「桧の皮」を確保できたこと…かつての津和野藩がいかに森林資源が豊かであったことか想像できます。(一方、今後は、修復等では大変、苦労する事だろう…という予測もできますネ)

補足的画像③「唐破風造(からはふづくり)」の「向拝(こうはい)」について

高津柿本神社 本殿 解説 


補足的用語:さらに、向拝の手前には独立した「階隠し」(はしかくし)の形状も「唐破風造」であることが確認できます。

本当に、凝った造りです。まさに、益田市の至宝の一つと言えるでしょう!!

私は、これまで、神社に関わる建築用語は己の無知ゆえ、あまり気にしませんでしたが、今回気合いを入れて調べ、地元、益田市の「高津柿本神社 本殿」を眺めさせていていただき、その建造物的価値に気付きました。

  人は知る(認識する)ことにより、全く新たな価値に気づく事がある!…それが地元で卑近なモノやコトであれば、なおさら感動は高まるものだ!。とつくづく思いました。


◆本殿は「津和野の方角を向いています。」か?

最後は…

④について…高津柿本神社本殿の建築的技法には関係ないのですが…本殿が「津和野の方角を向いています。」は疑問です

本殿が向いている方向は、東西南北の「南南東」です。津和野は(高津柿本神社から「青野山」が確認できるので、その方向を頼りにすると)南南西側、となります。
唯一、④の記載…高津の柿本神社が「津和野の方角を向いています。」という表記については疑問です?

高津柿本神社の社宝『御法楽御短冊』(認定重要美術品)

高津柿本神社について当神社「本殿の説明板」を基に

1.高津の「柿本神社」建立に関する歴史(起源~現在地)
2.柿本神社本殿の島根県指定有形文化財…建造物的価値
について(私なりに)解説してきました。


今回は最終回で

3.社宝(認定重要美術品『御法楽御短冊』)についてです。

高津柿本神社の御法楽御短冊は1943年(昭和18年)10月1日に認定重要美術品に指定されています。御法楽御短冊6綴 - 享保8年(1723年)から天保14年(1843年)にかけて奉納された、霊元上皇を始め桜町・桃園・後桜町・光格・仁孝天皇の歴代天皇6代にわたる天皇の御製歌が認められた短冊。

島根県HPの「文化財・重要美術品」によると員数6綴ということです。

当然ですが、天皇の御製歌は大変崇高で貴い作品であるがゆえ、普段は拝むことはできません。


ただ、一部ではありますが『高津町誌』の冒頭にて、桜町天皇(1720~1750)・桃園天皇(1741~1762)・後桜町天皇(1740~1813)・光格天皇(1771~1840)の御製歌(巻頭歌)四首(画像)の掲載がありました。

御法楽御短冊 高津町誌より


高津柿本神社「楼門」の正面「正一位柿本神社」は
有栖川宮熾仁親王(1835~1895)による御神額です。

有栖川宮 熾仁親王 御書

高津柿本神社の伝説「龍燈の松」と大久保長安の奉納品

益田市の高津柿本神社の前身となる「松崎の社殿」は1608年(慶長13年)に再建されたという記録があります。
この再建は、初代石見銀山奉行・大久保長安が携わり、長安からの奉納品「銅製六角釣灯籠」が現在も残っています。

大久保長安の奉納品「銅製六角釣灯籠」については、以前投稿しています。
>>益田市の高津柿本神社の歴史(後篇)「大久保長安 奉納 銅製六角釣灯籠」画像付

大久保長安奉納銅製六角釣灯籠s


「銅製六角釣灯籠」という名称ですが、札には『金燈篭』とかかれています。
奉納時は、金色に輝いていたことが想像できます。

今回、あらためて、この「銅製六角釣灯籠」を取り上げたのは、『高津町誌』から高津柿本神社にかかわる、ある伝説を知り「何か関係がありそう!?」と思ったからです。

その伝説の名は「龍燈の松」。なんと、この物語には「黄金の燈籠」が取り上げられているのです!!

「高津柿本神社の伝説「龍燈の松」と大久保長安の奉納品」続きを読む

高津柿本神社への参拝。その最適な時間帯は(益田市のパワースポット)

今日は朝から青空が見えていたので、午前中に益田市の高津柿本神社に参拝にいってきました。
運良く(以前の益田市の花であった)「梅の花」が満開。しかも、今日は久々の快晴。
高津柿本神社の大きめの「拝殿」により、高貴で優しい造りの「神殿」が見えないのは残念ではありますが…

全体としては絵葉書的な画像は撮れました。

高津柿本神社と梅の花2014年3月11日



益田市の高津柿本神社が向いている方向がら、やはり午前中に参拝する方が、パワーいただける!!
というのが(今更ながら)本日の発見でした。…晴れた日なら最高です。理由はお日様が、あなたの背中を照らしてくれるので。

神殿も手前からの陽光があるので、これまでで一番スッキリ撮れたので、今回は掲載しますネ。
(高津柿本神社の「手水舎」手前付近から撮影)

高津柿本神社 神殿
※本当は、高津柿本神社が向いている方向について、レビューしたいがために、今日は、この地を訪れたのでしたが、遠くの視界はあまりよくなかったので、記事の内容を変更しました。

高津柿本神社の「御神水」とは

高津柿本神社の「御神水」


高津柿本神社には、私はこれまで何度も参拝していますが、毎回、新しい発見があります。(と言うか、実は、新しい発見があるまで帰らない、帰れないという自分ルールで参拝していますw)

今回は高津柿本神社の「御神水」。…皆さんご存知でしたか?
私は、つい先日この「御神水」の事を知りました
場所は、高津柿本神社の拝殿、向かって左側の奥。柿本人麿公像を目印に奥に進んでいきます。

高津柿本神社人麿公像 益田市


この画像の中央、奥まで進むと左手に案内板があります。

高津柿本神社 御神水


御神水 御神示によって此の眞井がつくられました恵みをうけて下さい。

と記されています。

お賽銭を納め、大きな朱の蓋を開けさせていただきました。

「御神水」のご利益は!?


高津柿本神社 御神水 中


「御神水」で墨を磨り、筆を持つと素晴らしい和歌が、流れるように生まれてくることでしょう…きっと。

高津柿本神社 人麿公像と花

人麿さんは、既に、一首、閃いたようですネw

高津柿本神社 花


編集後記:益田市の名水

益田市で「(神聖な)水」といえば、
佐毘売山神社の「権現霊水」があります。以前このサイトでご案内しています。
よろしければご参照くださいまし。
>>益田市の佐毘売山神社の「権現霊水」とは!?

益田市「高津柿本神社」貴重画像 平成の改築前のカラー写真

益田市の「高津柿本神社」の古いカラー画像を入手致しましたので投稿させていただきます。
画像は「高津柿本神社」様よりご提供いただきました。
(ウェブでの配信についても事前にご許可いただいております。)

高津柿本神社の最古の画像(写真)については、このサイトでは以前、
>>高津柿本神社の昭和10年頃の姿(画像)(島根県益田市)
として投稿しています。

早速ですが、「高津柿本神社」改築前(昭和後期~平成初期)のカラー写真です。
益田市 高津柿本神社 改築前

以前、投稿した、昭和10年代の最古の画像と比較してみてください。
昭和10年前後撮影の高津 柿本神社の画像

昭和10年代と、改築前(昭和後期~平成初期)の高津柿本神社の大きな違いは2つ。
ひとつは、右に増設された屋根があるという事。

そして、もう一つは改築前(昭和後期~平成初期)の高津柿本神社の拝殿前に「狛犬」が設置されているという事です。

狛犬といえば…前回の…阿吽学ですネw
>>宮ヶ島「恵比寿神社」の向拝。左右の「木鼻」「阿吽」学

現在の益田市の高津柿本神社の狛犬は、手水舎がある場所から、(最後の)石段の上部の左右に設置されています。(当然ですが)向かって右側が「阿」そして左が「吽」です。
益田市 柿本神社 拝殿 狛犬

最初の画像にも写っている、右側の「阿」の狛犬
狛犬 阿 益田市 高津柿本神社
そして左側の「吽」の狛犬
狛犬 吽 益田市 高津柿本神社

この狛犬の下部の石台には寛政二 庚戌歳と刻まれているので1790年頃(江戸時代)に納められたということが分かります。もし、ご興味が芽生えたなら、今度近くでご鑑賞くださいまし。貫禄のある、素晴らしい狛犬です。

「高津柿本神社」桜 観賞(益田市 桜 2014年4月 夜嵐の後の仇桜)

2014年4月2日 益田市の平野部では、この日が「桜 満開」絶頂日だったようです。

益田市の七尾公園の桜は本当に見事でした。さすが、「益田十景」です。

>>益田市の水源地 七尾公園の桜 益田十景

今回は、昨日(2014年4月4日)高津柿本神社の「桜」の様子です。
夕方、午後4時ごろから、荒れていた天候も落ち着き、雲間から青空が見え。たまに、眩い陽光も…

「撮影チャンス!!」と思い、高津柿本神社へ向かいました。

まずは、高津柿本神社の至宝の一つ「楼門」。
>>柿本神社の「楼門(ろうもん)」を鑑賞(益田市 高津町)

益田市 柿本神社 楼門 2014 桜


向かって左に桜。楼門の向きからして、正面から光に照らされることがない為、少し地味ですが、参道からは純白に見え、とても綺麗に感じられました。


また、今回、(偶然ですが)「楼門」奥に見える石段部は強い陽射し照らされ、反射した光が、楼門内を優しく淡く輝かせていて、神聖な雰囲気となっています。


高津柿本神社「本殿」。向かって左の桜(ちょっと光が足りませんでした)

益田市 柿本神社 本殿 桜2014


この日、高津柿本神社で一番綺麗に撮れたのが以下の画像の「桜」。
場所は「高津柿本神社 儀式殿」前です。

益田市 高津柿本神社 儀式殿 桜2014


どうやら、元は、太い桜の樹だったようです。
蘖(ひこばえ)でも、こんなに立派な桜の花々で満ちています。

青空と雲をバックに交えて撮影しました。

益田市 高津会本神社 儀式殿 桜2014と空

あらためて…

『明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは』

親鸞聖人、わずか九歳の時。名言です。
宗派を超えた「人生訓」といえます。しかも、今回はリアルにテーマが「桜」。
益田市の2014年4月3日は「夜半に嵐」でした…リアルに学びました(汗)