益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の歴史的建造物

国登録有形文化財「匹見発電所」の建造法は?(益田市匹見町)

8月2日の益田市教育委員会さん主催、中国電力 株式会社 益田電力所さん共催の

「中国電力株式会社 水力発電所見学ツアー」

このツアーは、益田市の国登録有形文化財(平成27年3月26日に文化庁により認定)である、匹見川沿いの3つの水力発電所を見学するというものでした。

今回は、その最後の見学地「匹見発電所 (ひきみ はつでんしょ)」です。
(所在地:益田市匹見町匹見イ1702-3)


早速ですが、匹見発電所 本館の遠景(外観)です。

国登録有形文化財 匹見発電所 遠景

益田市の匹見発電所は、国登録有形文化財(文化庁)である前に、社団法人 土木学会の「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選」に掲載されています。

「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選」での
匹見発電所に関する掲載内容は

RC建造物(切妻屋根)ランクC


<土木学会での評価理由>

ピラスターで区分された壁面のデザイン
・当時の発電機・水車が現役使用


↑この内容…太赤字強調した部分について後程、あらためて語ります♪


匹見発電所をこれまでで最も間近で見れた!!


今回は、(残念ながら)匹見発電所の内部については見学できませんでした。…ですが、これまで4回匹見発電所を訪れたなかで、もっとも近くで本館を撮影できました。(なぜなら、中国電力 株式会社 益田電力所さんがゲート内に入れてくれたからです♪)

匹見発電所 本館(登録有形文化財 第32‐0172号)の「証(あかし)」

匹見発電所にあった、登録有形文化財(文化庁)の証です。

匹見発電所 登録有形文化財 第32-0172号


今回、見学させていただいた中国電力さんの益田市にある3つの発電所

・豊川発電所:第32-0170号
・澄川発電所:第32-0171号
・匹見発電所:第32-0172号

連番となっています。

そして、そこでの益田市教育委員会の文化財課さんのご担当者さんの説明・解説の中で驚愕の情報がありました!!


匹見発電所 本館はコンクリートブロック造り!?

益田市教育委員会の文化財課さんの説明・解説の内容(要旨)に、

「匹見発電所 本館は鉄筋コンクリート(RC)造といわれていたのですが、コンクリートブロックを積み上げた…コンクリートブロック造りだということがわかりました。」


というくだりがありました。

「エッ!?」…と、思いました。そして以下の疑問が…


・匹見発電所 本館は鉄筋コンクリート(RC)造でなく

コンクリートブロック造り…しかもコンクリートブロックを積み上げたもの、…それは古代の石造りの建物のように…?


・「どんな形状のコンクリートブロックなのだろうか?」
・「鉄筋・鉄骨なしなの?」

さらに!! 

コンクリートブロック造りなら、土木学会さんがピラスター(付け柱)といった部位は、
(ピラスター、付け柱ではなく)躯体としてのコンクリートブロックでできた「柱」となるわけです。


おおっ、またマニアック!フェチな疑問…「謎」が…♪

是非とも、この疑問・謎を解明したいものです。


匹見発電所正面の画像にヒントが!?


匹見発電所 本館正面の画像を撮っていました。

匹見発電所 正面

この画像の中に、一部「破損」箇所があることを自宅のPCで確認できました。
で囲んだ部分です↓

匹見発電所 正面s


拡大したのがコチラの画像↓

匹見発電所 正面ss


う~んっ、いわれてみれば、独立したブロック(パーツ)のようにも見えますネ。
実際どうなんでしょうかねい?

澄川発電所は、なぜ鉄筋コンクリート製なのか考えてみた(益田市匹見町澄川)

国登録有形文化財である澄川発電所(益田市匹見町澄川)は、「なぜ鉄筋コンクリート構造(RC構造)でつくられたのでしょうか?」

澄川発電所 本館が完成したのは、昭和18年(1943年)

澄川発電所 外観&内部

実は、この前年の昭和17年(1942年)に益田市の高津にある「高角橋」が完成しています。


高角橋も鉄筋コンクリート構造(RC構造)なのです。
高角橋は平成23年度に「土木学会選奨土木遺産」となっています。

水神社から高角橋


高角橋も、今回の澄川発電所も「鉄筋コンクリート構造(RC構造)」。これは偶然でしょうか?
この時期は「鉄筋コンクリート構造(RC構造)」が流行っていたのでしょうか?


答えは、時代背景…戦時中にあります。

軍事物資である鉄は、建設資材として十分に使えなかったと考えられます。


実は、岡山県岡山市に「大原橋」という昭和17年(1942年)に完成した橋があります。

「大原橋」は「高角橋」と同じ年に完成した橋です…

「大原橋」について、岡山県土木管理課が運営している「おかやまの歴史的土木資産」というサイトがあります。この「17.大原橋」に関する説明文のなかに、

「鉄筋コンクリートのアーチ型の橋が9つ連なり、その東には鉄橋がつながっています。」

とありました。

鉄筋コンクリートのアーチ型の橋が9つ連なり…」の様子。

よくみると、見た目(形状)が「高角橋」とかなり似ています。

※下の画像(キャプチャー)は、「おかやまの歴史的土木遺産 17.大原橋」のページです。(画像をクリックすれば、本ページの内容が見れます)
 

http://www.civil.pref.okayama.jp/hyakusen/spot/spot017.html


「おかやまの歴史的土木遺産 17.大原橋」…岡山県教育委員会さんの解説文を読んでみましょう。

大原橋は、岡山市玉柏から牟佐(むさ)に向かう県道が旭川を渡る地点に架けられている長さ430m余りの橋です。

昭和9年の室戸台風によって、以前の木橋が流され、昭和11年に新しい橋の工事が始まり、総工費28万円をかけて昭和17年に完成しました。

鉄筋コンクリートのアーチ型の橋が9つ連なり、その東には鉄橋がつながっています。

もともとの計画は、全部鉄橋を架ける予定だったのを、太平洋戦争が起こったため、鉄不足となり、コンクリートに変更されたともいわれます。

ローゼと呼ばれるこうした形の橋が9つ連なるのは、戦前のものとしては日本一で、見事な景色を作り出しています。
 
出典:「あなたの街の近代化遺産ガイドブック」岡山県教育委員会

※参照: ⇒おかやまの歴史的土木遺産 17.大原橋


岡山の「大原橋」の「もともとの計画は、全部鉄橋を架ける予定だったのを、太平洋戦争が起こったため、鉄不足となり、コンクリートに変更されたともいわれます。

実は「高津町誌」に、「高角橋」も計画当初は「鉄橋」でつくられる予定であったということがうかがえる表記があります。

※参照(過去記事)⇒高角橋は計画当初「 鉄筋コンクリート橋」ではなかった!?

http://masuda.blog.jp/archives/1000357411.html

スイマセン!話しが、だいぶ高角橋等に偏ってしましましたが、澄川発電所も同様の背景により、「鉄筋コンクリート構造(RC構造)」で建てられたと考えらます。

時代背景、戦時中、鉄不足ということから、この時期、建てられた構造物は「鉄筋コンクリート構造(RC構造)」にするという方針があったのでしょう。

国登録有形文化財「澄川発電所」のRC構造を見学(益田市匹見町澄川)

前回に引き続き、益田市の匹見町澄川にある中国電力澄川発電所(すみかわ はつでんしょ)」について、


今回は、澄川発電所 本館の内部を見てみましょう。


澄川発電所 本館内部の画像です。

澄川発電所 内部1


鉄筋コンクリート構造(RC構造)です。
太い柱、屋根、屋根(天井)を支える梁…すべてが「鉄筋コンクリート」でできています。
とても重厚な感じがしますね。

せっかくなんで、今回の見学会で、鉄骨造り(S造)ということがわかった
豊川発電所の内部構造と比較してみてください↓

登録有形文化財 益田市 豊川発電所本館内部 文化庁


豊川発電所は、躯体が「鉄骨造(S造)なので、今回の澄川発電所の内部構造に比べ、かなり華奢な感じがすることがわかると思います。ちなみに、前回の投稿で取り上げた、広島県の大久野島の(ディーゼル)発電場跡」(1920年代築)も↑豊川発電所(昭和3年(1928年)9月に完成)同様の鉄骨造(S造)です。

我が日本での、昭和時代初期の比較的大きな建造物は、戦前である1920年代では鉄骨造(S造)が主流だったのに、1941年以降…戦時下になると鉄筋コンクリート構造(RC構造)となる傾向があるように思われます。

なぜだかわかりますか?
(そのあたりは、今後の投稿でw)

澄川発電所の天井に思う

話を澄川発電所の内部構造にもどしましょう。


澄川発電所 内部2


壁や柱は白く塗装されていますが、
天井と梁は打放しコンクリート(コンクリート面がむき出し)となっています。

この天井部を拡大してみましょう。

澄川発電所 天井 木枠跡


型枠(木製)のあとが見えます。わかりますか?


では、ちょっと画像を加工してみましょう。

澄川発電所 天井 木枠跡s


どうでしょうか? 型枠…木の板があったと思われる「筋」が見えますよネ。

澄川発電所の内部、特に鉄筋コンクリート構造(RC構造)を見ていると、以前どこかでみたような気がしてきました…「高角橋」です。


高角橋と澄川発電所…同じRC構造


澄川発電所 本館が完成したのは、昭和18年(1943年)この前年昭和17年(1942年)に益田市の高津にある「高角橋」が完成しています。

どちらも鉄筋コンクリート構造(RC構造)です。

高角橋の橋桁を下から見てみましょう。

高角橋 橋桁 下から

そして橋脚

高角橋 橋脚


橋脚を拡大してみると、コンクリートの型枠(木枠)の跡(縦の筋)があります。

高角橋橋脚表面


RC構造の型枠(木枠)について


参考までに、当時のRC構造の型枠(木枠)の現場写真を掲載しておきます。

高角橋 新橋台?橋脚型枠 2益田市

この画像は昭和26年(1951年)7月に完成した高角橋の「扛上竝びに継足工事」(嵩上げ工事とか延長工事とかいう表現をみますが、「扛上竝びに継足工事」が正式名称です)の際、撮影されたものです。

※扛上(こうじょう)、竝びに(ならびに)と読みます。

この画像は、昭和26年(1951年)7月に完成した高角橋の「扛上竝びに継足工事」の際の須子側の新しい「橋台」であろうと推測しています。(橋脚とは構造が異なります。)

…ちなみに、かなりマニアックですがw木枠の方向が初期高津の橋では「縦」であるのに対し、「扛上竝びに継足工事」の際には新規の橋脚・橋台とも「横」となっています♪…トレビアレベルのかなりマニアック…フェチな情報です。)

高角橋の「扛上竝びに継足工事」の時期は、終戦後となりますが、当時のRC構造の基本技術はさほど変わらなかったのではと思い、掲載いたしました。(ご了承くださいまし)

澄川発電所も、段階的に鉄筋の周りに木製の型枠を組み、コンクリートを養生しながら建てられていったのです。

国登録有形文化財「澄川発電所」の内部を見学(益田市匹見町澄川)

前回に引き続き、平成27年8月2日の「中国電力株式会社 水力発電所見学ツアー」(主催は益田市教育委員会さん。正確には「益田市教育委員会 文化財課さん」、共催は中国電力 株式会社 益田電力所さん)


この日の2番目の見学地は「澄川発電所(すみかわ はつでんしょ)」…益田市の匹見町澄川にあります。


早速ですが、益田市匹見町の澄川発電所、その外観です。

澄川発電所 外観


澄川発電所ができたころの我が国「日本」


澄川発電所が完成したのは昭和18年(1943年)とのことです。(今年(2015年で72歳ですネ)

時代は戦時下(太平洋戦争)、この年の4月には 山本五十六大将が米軍機の攻撃で戦死、12月には旧帝国陸軍による初めての学徒出陣といった出来事がありました。


因みに、ここ益田市関連では、この年(昭和18年)の1年前の昭和17年(1942年)に「高角橋」が完成しています。
※初期(扛上(こうじょう)並びに、継ぎ足し工事)の「高角橋」ですョ!!

ご参照⇒益田市の土木遺産 鉄筋コンクリートの橋「高角橋」(益田市 高津)


澄川発電所にはこれまで3回以上、来ているのですが、このサイトでは一度も取り上げたことがありません。

その理由は、この外観から(勝手に)「比較的新しい発電所なんだろう」と思い込んでいたためです。

そして、自分の中では澄川発電所に「歴史的建造物」という価値を感じていませんでした。

ところが、今回のツアーで、澄川発電所が完成したのは昭和18年(1943年)…戦時下、大変な時代背景のなかで建設されたということを知ったとたん見る目がかわってきました。


さて、もう一度、澄川発電所の外観を見てみましょう。

澄川発電所 外観2


建物的には、デザイン面で特筆するところはありません。

この「デザイン面でに注目すべき点がない」というところが、澄川発電所本館がつくられた時代背景…戦時下であることを物語っています。今回、見学させていただいた、他の2つの発電所(豊川発電所、匹見発電所)に比べ、とても「地味、質素」な感じがします。

ですが…このことをもってして、建築「様式」…建築デザイン界の述語「モダニズム建築」として「価値づけ」をするのは、ちょっと無理がありますね。(ぱっと見は、似てますが…w)

万一、納得できないなら「モダニズム建築」として有名な世界の建造物の「画像」を見てみることをおススメします。

(※あわせて、当時に建てられた他の発電所などの画像なども探してみてください。例えば(1920年代築になりますが)広島県の大久野島の(ディーゼル)発電場(鉄骨造(S造))跡」をみても、外観は(質素な)「箱」です。この有名な建物をもってしても、(それを)「モダニズム建築じゃ!!」という表現で語る人はおらんのです。)

くどいようですが…)澄川発電所にはモダニズム・・・といった設計者の「意図」はなく、歴史的(背景)…「必然」があったのです。

今回の参加者、益田市民(年配の女性)の「つぶやき」…

「そりゃ、戦時中じゃけぇ、デザインとか必要ないけぇね~!!」

というお言葉には、とても共感できました。


澄川発電所…その内部に感じた魅力

今回、初めて澄川発電所の内部を見せていただきました。

早速ですが画像です。

※前回の豊川発電所と同様に、発電機等の発電施設の撮影は中国電力株式会社さんより「禁止」とされています。


澄川発電所 内部1


中に入って初めてわかりました…「澄川発電所」が国登録有形文化財とすべき本来の理由が…


「こっ、これは、本当に価値ある建造物じゃ!」と評価を大きく上方修正しました。

澄川発電所 内部2


この建物は昭和18年(1943年)頃の日本の鉄筋コンクリート構造…※当時の日本のRC構造の「粋を結集した建物」なんですね。


※RCとは:Reinforced-Concreteの略。Reinforced(強化・補強された)-Concrete(コンクリート)といったところでしょうか。


澄川発電所 本館(登録有形文化財 第32‐0171号)の「証(あかし)」

澄川発電所にあった、登録有形文化財(文化庁)の証です。
前回の豊川発電所:第32-0170号の連番であることがわかります。


澄川発電所 登録有形文化財 益田市

次回は、「この建造物は貴重な国民的財産です」について、もう少し詳しく澄川発電所 本館内部の魅力について画像満載で解説することにしませう。

★澄川発電所の場所(益田市匹見町澄川)

国登録有形文化財「豊川発電所」の内部を見学(益田市猪木谷)

8月2日、益田市でごく最近、国登録有形文化財(文化庁)となった、匹見川沿いの3つの水力発電所の見学ツアーに参加しました。


このツアーの事を教えてもらった際、「発電所」って…外観ならば、いつでもみれるけれど…内部はそうそう見学できるものではない!と感じ、スグに益田市教育委員会文化財課さんへ電話申し込みしました。

(本ツアーについて、いち早く教えてくれた、益田市の高津公民館(高津地区振興センター)の「J1さん」には本当に感謝しています♪)

(さて、あらためまして)今回、参加させていただいた、

「中国電力株式会社 水力発電所見学ツアー」について

このツアーの主催は益田市教育委員会さん、共催は中国電力 株式会社 益田電力所さん。


内容は、益田市の匹見川沿いの、「豊川発電所」「澄川発電所」「匹見発電所」の3つの発電所(水力発電所)の各本館を半日で、見学するというものです。


この3つの発電所は、今年(平成27年)3月26日に国登録有形文化財(文化庁)に認定されています。


豊川発電所 本館(登録有形文化財 第32‐0170号)念願の内部を見学♪

今回の主な投稿内容は、最初の見学地「豊川発電所(益田市猪木谷町)」についてです。

早速ですが、豊川発電所 本館…その内部の様子。発電設備は撮影禁止です

登録有形文化財 益田市 豊川発電所本館内部 文化庁指定s


豊川発電所の外観↓は重厚な鉄筋コンクリートづくりを思わせますが


益田市 中国電力 豊川発電所2


内部は、学校の体育館のような感じですネ。


登録有形文化財 益田市 豊川発電所本館内部 文化庁指定s


豊川発電所 本館(登録有形文化財 第32‐0170号)の「証(あかし)」

豊川発電所(登録有形文化財 第32‐0170号)益田市 猪木谷


豊川発電所 本館、正面向かって右のピラスター(付け柱)下部に設置されています。

豊川発電所 本館の特徴について

この豊川発電所 本館は「土木学会」により『日本の近代土木遺産』の「ランクB」としても認定されています。


この土木学会での「記載内容」をもとに、豊川発電所 本館の「特徴」について解説してみます。


形式:RC建造物(ろく屋根)

ランク:B

評価情報:デンティルモールディング、3分割されたアーチ窓、明確なピラスター=華やかなイメージ(見方によっては桃山発電所を思わせる)/当時の発電機が現役使用


『日本の近代土木遺産(改訂版)―現存する重要な土木構造物2800選』
(土木学会出版、2005年)より引用


デンティルモールディング(dentil molding)
・3分割されたアーチ窓
・明確なピラスター(付柱)

と聞き慣れない用語がありますので、実際の豊川発電所の画像でその部位を示してみました↓。


豊川発電所 評価情報s


用語 ※
デンティルモールディングとは!?
dentil molding
dentil…歯型の飾り(四角い部分が歯のようにみえる)
molding…化粧縁
以上、あわせて、「歯型の飾りによる化粧縁」といったところでしょうか。



RC建造物?ろく屋根?…なのだろうか?

さて、もう一度、豊川発電所(本館)内部の構造(画像)を見てみましょう。

登録有形文化財 益田市 豊川発電所本館内部 文化庁指定s


豊川発電所本館の「躯体」は「鉄骨」であることがわかります。
屋根は、鉄トラス梁
の上部、天井材コンクリート板(?)が敷かれているように見えます。

(内部をみて気付いたのですが、外観でRC建造物に見えたのが実は鉄骨造(S造)のようです。)


鉄骨造(S造)なので、外観で重厚に見えた外壁は「かなり薄い!」・・・なぜなら外壁は躯体強度に関係ないからです。

(鉄骨造(S造)…それゆえ、今回の3つの発電所の中で一番広い内部空間を得ることができています。)



登録有形文化財 益田市 豊川発電所本館内 屋根 トラス梁


また、土木学会出版の書籍では「ろく屋根(陸屋根)」とありますが 鉄トラス梁の形状からして、切妻的な傾斜が施されていることがわかりました。(天井のコンクリート板?の存在…もしかしたら、屋根部は改築されたのかもしれませんネ)

豊川発電所について過去の投稿記事
⇒豊川発電所:益田市に現存する日本の近代土木遺産(益田市 猪木谷)


豊川発電所は、昭和3年(1928年)9月に完成(「出雲電気 株式会社」による)したといいます。
・・・今年、平成27年(2015年)で実に87歳となるんですネ♪


帰りがけ、豊川発電所から国道に向かう坂道の上に祠があることに気づきました。

益田市 豊川発電所の傍の祠


お地蔵さんが三尊。うち二尊は自然石のように思われます。

益田市 豊川発電所 近くのお地蔵さん三尊

平等院鳳凰堂と美濃郡役所と鹿足郡役所(益田市と津和野町)

益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎の建物が、かなりそっくりな事が気になり、早速、電話で問い合わせをしました。


その結果、以下の事がわかりました。

まずは益田市立歴史民俗資料館さんより


・益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎の建物は同じ建築士による設計(デザイン)である。
・2つの建物は、よく似ているが瓦の色が違ったような気がする。


次に、津和野町役場津和野庁舎さんより


・津和野町役場津和野庁舎はもともと、「鹿足郡役所」として大正8年(1919年)に建てられた。
平等院鳳凰堂をイメージして設計(デザイン)されている。


以下、2つの建物について、わかったことをもう少し詳しくまとめてみました。


1、2つの建物は兄弟であった!?

益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎の建物が、「そっくり」に見えたのは、同じ建築士による設計(デザイン)であることによることがわかりました。

また、2つの建物の目的はどちらも当初「郡役所」。

・益田市立歴史民俗資料館は「美濃郡役所
・津和野町役場津和野庁舎は「鹿足郡役所


ここで、建造された年を確認してみると、


「美濃郡役所」は大正10年(1921年)

益田市立歴史民俗資料館(旧 美濃郡役所)



「鹿足郡役所」は大正8年(1919年)

津和野町役場 津和野庁舎 (旧 鹿足郡役場)


つまり、「鹿足郡役所(津和野町役場津和野庁舎)」は「美濃郡役所(益田市立歴史民俗資料館)」の2年前に建てられた…つまり「兄貴」的な建造物であることがわかりました!!2つの建物は兄弟的存在なのです。


2、平等院鳳凰堂をイメージして設計(デザイン)されている。

この情報は、津和野庁舎の方から教えていただきました…正直、最初はびっくりしましたんですが…


「ナルホド!平等院鳳凰堂が『原型』だったのか…どうりで、貫禄・威厳を感じさせるわけだ♪」

益田市立歴史民俗資料館、そして今回の津和野町役場津和野庁舎の建物に感じていた「貫禄、威厳のパワー」の謎が解けました。


郷土石見地方の2つの役所、大正デモクラシーの時代の役所のコンセプト…「平等


ちなみに、


世界遺産 平等院の「よくあるご質問」に以下のように記されておりました。

Q3. 平等という言葉がなぜついているのですか?
 
仏の救済が平等ということを意味します。
そして、仏の平等を光で顕わします。 平等院は光のお寺なのです。


世界遺産 平等院 公式ホームページより
⇒http://www.byodoin.or.jp/ja/index.html

※トップページ内の下部にある「よくあるご質問」のリンク先に↑本文の記載があります。


3、瓦の色が異なる。

今回、益田市立歴史民俗資料館への問い合わせした内容。


「先日、津和野に行ったのですが、殿町通りにあった「津和野町役場津和野庁舎」が「益田市歴史民俗資料館」とそっくりだったのですが…何かご存知ですか?」

歴史民俗資料館の方:「ハイハイ、あれは、当資料館を建てた時の建築士と同じ方がデザインされたそうですよ♪


「やっ、やはりそうでしたか?…同じ建築士、ナルホド……細かく見れば違いがわかるのですが、ホント、殆んど同じなんでびっくりしました!!」


歴史民俗資料館の方:「ですよね~♪ 確か、瓦の色が少し違ったような気がしましたが…


「なんですと!瓦の色が違う!それは全く気が付きませんでした♪」

さすが、日々誠実にお勤めになってる方だからこそわかるんでしょうネ。

瓦の色が違う…素晴らしい、実に私好みのマニアックな情報、ありがとうございました♪


※前回の投稿の画像からもわかりますが、よくみると窓の形状や玄関のステップ(段差)等々、2つの建物は完全一致ではありません。

※ご参照⇒益田市立歴史民俗資料館と激似の建物を津和野町で発見


平等院鳳凰堂が『原型』といえども、2つの建物は、全く同じではない。(かなり似ているけど)

それぞれ、個性(違い)を主張するものがある…

大正時代の風…匂いを感じました。


益田市立歴史民俗資料館と激似の建物を津和野町で発見

益田市立歴史民俗資料館は平成8年(1996年)に国登録有形文化財に認定されている建物で、益田市の貴重な歴史的建造物の一つです。

益田市歴史民俗資料館 左前面斜め下


今回のお話しは、先日(4月29日)津和野町での出来事が発端です。(実は30年ぶりでした…津和野の町内を「歩いた」のは…)


殿町通りを津和野駅方面から南に向かって歩いていると、古い立派な門(大岡家老門)が見えてきました。

「あれ?あの門の奥に、どっかで見たことある建物がある!?…
というか、益田市のあの建物と激似(そっくり)ではないか!?」


と不思議な気持ちになりました。

大岡家老門の奥に見えた、その建物の姿がこれ!↓

津和野町役場 津和野庁舎 大岡家老門


この建物の正面玄関を見てみると…

津和野町役場 津和野庁舎 玄関


津和野町役場津和野庁舎であることがわかりました。

津和野町役場 津和野庁舎 玄関up


(本建物内には「津和野町教育委員会」「津和野町福祉事務所」も一緒になっているようです。・・・「つわみん」という、ご当地キャラがあるようです。~センス、いいね♪)

話しを戻しましょう・・・庁舎手前の庭から、撮影した画像です。

津和野町役場 津和野庁舎


それでは、確認してみましょう♪

益田市立歴史民俗資料館をほぼ同じ角度からの画像がコチラ↓

益田市歴史民俗資料館 比較用


どうですか?益田市立歴史民俗資料館と激似(そっくり)ですよネ!?

早速、中に入って、お尋ねしようと思ったのですが、この日は4月29日で祝日、昭和の日、当然お休みでした。


益田市に戻ってからも、この件が、とても気になったので、昨日、益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎に電話して尋ねてみました。

結果、益田市と津和野町の2つの建物について、とても興味深いお話を聞くことができたのです♪

その内容とは!?

つづきは、コチラ↓↓↓
⇒平等院鳳凰堂と美濃郡役所と鹿足郡役所(益田市と津和野町)

【おまけ…大岡家老門】

津和野町 大岡家老門

『妙義寺太鼓橋(石橋)』と桜の風景(益田市七尾町)

益田市七尾町の妙義寺(山号は万歳山)へ向かう参道には石でできた橋があります。


妙義寺太鼓橋」と呼ばれているそうです。


今回はこの「妙義寺太鼓橋」と桜の風景。

益田市妙義寺太鼓橋 top

橋の向こうに1台の白の軽トラ(偶然、写りこんだののですが…)そのさらに奥には、妙義寺の山門がみえます。


江戸時代に架けられたというこの石橋の両側に満開の桜。撮影したのは2015年4月2日とても良い天気だったのですが、青空の色は薄く…空は白く霞んでいました。(で、いまいちな画像になってしまいました)

益田市妙義寺太鼓橋 上

『妙義寺太鼓橋(石橋)』と「桜の花の門」…かなりリッチな気分にさせてもらえました♪

もともとこの石橋が架けられている場所は「池」だったそうです。

しかしながら、近隣の民家の下水が流れ込んでいて「臭い!」ということで、現在のような空池にしたと聞きました。


また、益田市誌 (昭和50年12月20日発行)上巻873~874ページに「妙義寺の石橋」に関する説明と白黒写真があります。

益田市誌によると
この石橋の長さは約6メートル、幅は約2メートル。
本来「須佐石(山口県の須佐町産出の御影石)でできていた」そうです。

しかしながら、(近年、改修?工事が施されたそうですが)現在では桁石に須佐石とは異なる御影石が使われていることに気づきました。

益田市誌に掲載されている画像↓(昭和50年以前の撮影だと考えられます)を見てください。

益田市誌 妙義寺 太鼓橋 古写真

今とは、なんか姿・形・・・特に欄干のライン、雰囲気違いませんか?
昔↑は「弧」を描いてますが、今↓は「への字」に見えます。

比較 妙義寺 太鼓橋 改修後s


そのあたりは、別途、『妙義寺太鼓橋(石橋)』見学記として投稿しますネ。

益田市立歴史民俗資料館の古い写真を発見(益田市誌より)

益田市の国登録文化財…「益田市立歴史民俗資料館」に関して、
前回の投稿があまりにも画像だけ的な内容だったので、

投稿後、本資料館に関係する史料はないものか?

と・・・「益田市誌」をめくっていたら。

やはり、ありました!
昔の益田市立歴史民俗資料館の画像…早速ですがコチラです↓

益田市立歴史民俗資料館 昔 正面s


歴史の跡をとどめる現益田総合事務所(※現という表記は益田市誌内でのもの)
出処:益田市誌
(昭和50年12月20日発行)
下巻 P232

この画像が撮影された時点では「益田総合事務所」だったようです。撮影された年については正確にはわかりませんが、益田市誌の当該本文から判断して昭和45年~50年ごろだと考えられます。

当時は、益田総合事務所への建物入口へは(現在と異なり)まっすぐに伸びた道、その両脇は駐車場スペースとして使用されていたようですネ。

「車寄せ」考


建物中央の「車寄せ」という構造部は、車を横付けし、乗り降りする場所です。

この建物が美濃郡役所として完成したのは大正10年(1921年)。車の数も少なく、お役人の中でも重役クラスが、この「車寄せ」から乗り降りしていたのでしょう。

昭和の時代、しかも40年代から50年代になると車の数も増え、来所する者も乗用車を利用するようになりました。

昭和のこの頃になると、駐車場スペースの確保の方が優先され、ゆったりとしたスペースを必要とする「車寄せ」から(悠長に)乗り降りすることは無くなったのであろうと推測できます。

上の画像では、当時をしのばせる昭和の車(種)が停まっていますネ。

よくみると、画像手前に門柱も確認できます。

(役所らしい配置ですよネ!)


さて、お気づきかと思いますが…「車寄せ」(建物入口)の両サイドには大きな樹木があります。

(現在は建物周辺には樹木はありません。ただ、本館入り口から駐車場を挟んだところにニセアカシアの大木が眠り仏のように育っています。)

さてさて、この画像に写っている木の種類は何だったのか?・・・樹形だけでは、いまいち分かりません。イチョウ?モミ?


また、建物の向こうにも同じ種類、ほぼ同じ高さの樹木が見えます。以前は、ここらあたり、益田川沿いに高木の並木があったのかもしれません。


現在の益田市立歴史民俗資料館の「車寄せ」(建物入口部)への道はこんな感じです↓

益田市歴史民俗資料館 入口より


「車寄せ」に向け、車を横付けできますが・・・(車の)頭から入ったら最後、駐車場スペースで車を回すことは(普通車)では結構大変です。(平日は特に)

と、まぁ、いろいろ考察できるわけでw・・・皆さんもいろいろ妄想してみてくださいまし♪

益田市立歴史民俗資料館(国登録文化財)を見学

益田市本町の「益田市立歴史民俗資料館」

この建物の前を通るたびに、「いつみても貫録のある建物じゃのう…」
と感心しながら眺めてしまいます。

3月に入って、所用で近くに来た際、
綺麗な青空と適度な白い雲を背景にした歴史民俗資料館の姿。
しかも土曜日の午前中ということもあり、益田公民館等の車もない!
という、絶好の(撮影)チャンスに恵まれて撮った画像がコチラ↓
益田市立歴史民俗資料館 左前面as

「益田市立歴史民俗資料館」は、もともとは、大正10年(1921)美濃郡役所として建てられました。
(大正10年(1921)といえば、この年の11月4日原敬(はらたかし)暗殺事件がありました。)

その後、益田警察署→美鹿地方事務所→益田総合事務所という経緯を経て

昭和58年(1983)5月に益田市立歴史民俗資料館として開館し、
平成8年(1996)、国の登録文化財に認定となったそうです。
益田市立歴史民俗資料館 左前面

大正10年(1921)美濃郡役所として建てられた当初のころ、この建物の内部の構造はどうなっていたのか、どんな間取り(部屋)があったのか?いろいろ知りたいわけですが…今のところいい資料には出会っていません。

正面をみてみましょう。中央には「車寄せ」という構造がみられます。
「車寄せ」とは車(乗用車)を建物の近くまで寄せ、乗り降りするための場所のことです。
張り出した屋根のおかげで、雨の日でも濡れることなく車から乗り降りできます。
益田市立歴史民俗資料館 正面

駐車場スペースをいっぱいにつかっても、画面におさまり切りません…
(これだと、なんだか昔の学校のようですネ♪)

「鬼瓦」をアップでみると…
益田市立歴史民俗資料館 鬼瓦
一番奥の「二つ巴」が右巴に対し、
手前2つは「連珠左三つ巴」であるのが気になります…(たぶん私だけでしょうがw)

「益田市立歴史民俗資料館」側面はどうかというと…
益田市立歴史民俗資料館 側面

おおっ、まったく手を抜いていません。立派です。

最後に「益田市立歴史民俗資料館」の裏面です。
益田市歴史民俗資料館 裏面

柔剣道場のようにも見えますネ。

う~ん。神社やお寺などの古建築についていろいろ、細かいところまで見えるように(気付けるように)なった私ですが…近代建築はまだまだ未熟なため、ほぼ、画像を並べただけで終わってしましました(汗)

最後に「益田市立歴史民俗資料館」のパンフレット。
益田市立歴史民俗資料館パンフ

益田市の本町あたりに来て、一時間くらい時間ができたなら、ふらっと寄ってみてもいいのでは?
故郷、益田市について思わぬ発見があるかもしれませんぞ♪

益田市の染羽天石勝神社本殿に感じたクールな「手挟」考

益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟(たばさみ)」について。

「手挟(たばさみ)」は見ての通りの「向拝の補強」部材ですが、あわせて「空間の装飾」という役目をしている部材です。我が日本独自の手法であると聞きます。

インターネットで「手挟(たばさみ) 画像」と検索すれば、全国各地の神社のそれは、それは見事な彫刻を施された画像を見ることができます。

染羽天石勝神社本殿の「手挟」を見てみましょう。

染羽天石勝神社本殿 手挟2


白く塗装された部分「手挟」と呼ばれる部材です。

不思議なのは、拝殿ではなく神殿の「手挟」となると、一般の参拝者は拝見できないと思います。(位置的に)でも、そんな場所でも、こだわる…そういう意味でクラフトマンシップ!を感じています。

で、(ほぼ、いないと思いますが…)インターネットで「手挟 画像」と検索し、豪奢な彫刻が施された「手挟」を見た人は、

益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟」はかなりシンプルなデザインに見えるかもしれません。

ですが!

私は、染羽天石勝神社本殿の「手挟」には他(の神社の「手挟」)にあまりみない、特徴的な技法を感じました!!

もう少し大きい画像で説明します。

先の画像にて2つの「手挟」がありましたが…奥の方が破損がないように思われますので、そちらで解説します。

染羽天石勝神社本殿 手挟 奥s


私が益田市の染羽天石勝神社本殿の「手挟」をクール♪と感じたのは、ここの部分。

染羽天石勝神社本殿 手挟 奥sクール


赤丸の中の部分・・・蔓(つる)のように見えるところ…白い点線をつけていますが、
「これって連続性を感じさせますよね…実際は連続性は無いのですが・・・」

こんな技法は他の神社の(豪奢な彫刻が施された)「手挟」にはみられません。

地味ですが、こんな技巧こそ、クールジャパンですよネ♪

染羽天石勝神社内の大元神社の石段と本殿の「手挟み」(益田市染羽町)

前回の染羽天石勝神社本殿の側面の蟇股を見学した場所までのルートについて。

前回の染羽天石勝神社本殿の側面の蟇股を見学した内容はこちら↓

>>益田市の染羽天石勝神社本殿「蟇股」考。久々の発見「久文字」

益田市の染羽天石勝神社本殿の側面を見学させていただくためには、
本殿に向かって左にある「大元神社」に向かう石段を上ることによって可能になります。
(なお、今回はご神職様よりご許可をいただいたうえでの撮影です。)


早速ですが、
染羽天石勝神社本殿に向かって左の「大元神社」のお姿(正面)。

益田市 染羽天石勝神社の大元神社


そして、この「大元神社」につながる石段は↓こんな感じです。

益田市 染羽天石勝神社の大元神社への石段


この石段、グニャグニャしていますよネ。

石段右の巨木の幹と根が石段にかける圧力によるものです。

おそらく根は石段の数か所を持ち上げていると思われます。
足が弱い私は、石段左の手すりがなければ到底、上ることはできませんでしたよ。この石段・・・

あわせて、植物の持つ凄い力をあらためて感じました…。

実際に、大元神社への、この石段を上っていくときなんですが、)
歩を進めるごとに石段の角度が変化するので、何度か不思議な眩暈をおこし、
それが(かえって)神聖さに近いものとして感じられました。


染羽天石勝神社の、かつての資料(図)によれば、大元神社はこの場所よりももっと奥、そして高い位置にあったようです。また、現在の大元神社の場所には、かつては春日神社があったようです。

(そのあたりは、別の機会に投稿させていただきますネ)


さて、この石段を上りきり、大元神社に参拝した後、染羽天石勝神社本殿の側面を見学させていただけたのですが、

染羽天石勝神社本殿側面左


この場所にて本殿側面の「蟇股」2種を見学させていただいたわけです。

さらに!!

ここまでこの記事に目を通していただいた方への感謝の気持ちとして…♪


この場所でしかみれない部材のひとつ、染羽天石勝神社本殿「手挟(たばさみ)」の画像です。

染羽天石勝神社本殿 手挟2

この「手挟(たばさみ)」かなりこだわっています。

お解り頂けると思いますが…本殿正面からは見えません。見えない場所にもこだわる。・・・否、見えないからこそこだわっている…


これぞ職人魂!…見学、発見できて、うれしい!わけです♪

この「手挟(たばさみ)」…クラフトマンシップについてはこちら↓のページにて。
益田市の染羽天石勝神社本殿に感じたクールな「手挟」考

おやすみなさいませ。