益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の遺跡

都茂鉱山跡 その歴史と今の風景(益田市 美都町山本地区)

益田市の美都町山本地区には、「都茂鉱山跡」という場所があることをご存知ですか?

◆かつての都茂鉱山の特徴
島根県を代表する「スカルン鉱床」(※本ページ最下部に用語説明あり)。
都茂鉱(tsumoite)というビスマス(Bi)テルル(Te)から成る独特の鉱物が世界で初めて発見。
最盛期の1970年ごろには、銅と亜鉛の鉱石を日量600トンを処理。


都茂鉱山は最盛期である近現代史的には、「中外鉱業(株)によって操業。1979年以降、都茂鉱業(株)の経営にかわる。1987年都茂鉱業が操業休止。1988年閉山。」という経緯だそうですが、
当地の史料によると当鉱山内の「丸山鉱床」は「平安時代の836年に、すでに採掘が始まっていた」との事です。

※参照:島根地質百選選定委員会による「山陰・島根ジオサイト 地質百選」:都茂鉱山(益田市美都町山本)より

都茂鉱山(益田市美都町山本)
>>http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/tsumokozan.html


都茂鉱山跡(益田市美都町山本)の画像をいくつかピックアップしておきます。
(県道314号線を「野々峠」に向かって進んで(登って)います。)
◆まずは、旧鉱山事務所入り口付近

中外鉱業株式会社 都茂管理事務所


◆都茂鉱山選鉱場跡(美都町教育委員会による)

都茂鉱山選鉱場跡と「案内杭」(美都町教育委員会)


かつての都茂鉱山選鉱場…直径10数メートル以上はあるかと思われる大型の円形工場設備等が見えます。(少しわかりずらいですが…画像中央の錆びて赤茶けた設備。)

都茂鉱山選鉱場跡


さらに、採掘石を移送させたと思われる「コンベア設備」の一部も残っていました。

都茂鉱山選鉱場 コンベア設備


このコンベア設備、以前はこの県道をまたぐ形で反対側の斜面にも続いていたようです。(道の反対側の斜面(法面)の雑木林の中にもコンベア設備の残骸がありました。)


とても静かな場所に、巨大な鉱山施設の残骸群…。


都茂鉱山の最盛期を知る父によると、
・この鉱山には、当時、多くの優秀な鉱山技術者が勤めていた。
・美都町の「葛篭(つづら)」という地区は鉱山町で(「鉱山宿舎」や小学校(分校)もあった程)多くの人々が暮らしていた。
との事でした。
※参考サイト:島根地質百選選定委員会による「山陰・島根ジオサイト 地質百選」
>>http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/geosite.html
【用語:スカルン鉱床】

スカルン鉱床(すかるんこうしょう、skarn deposit)とは、熱水鉱床の一種である。石灰岩などの大規模な炭酸塩岩帯に花崗岩が貫入した際に伴う熱水により、交代作用が生じ形成される。形成温度が低いため、鉄や銅をはじめ亜鉛や鉛など工業用途として有用な金属を大量に含む鉱石が産することで知られる。
( フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


【画像は2009年04月撮影】

古矢遺跡 岩肌に刻まれた深いメッセージ(益田市 豊川地区)

益田市の益田地区広域クリーンセンターから、益田市の豊川方面に向かう坂を下る途中、進行方向左側に「小さな史跡案内板」があります。


その案内板には「古矢遺跡 この先500m→」と

「おっ!こんなところに遺跡が!?…古矢遺跡ってなんだ!?」


昼間でも薄暗い林の中を「古矢遺跡」案内板にしたがってひとり進むこと
約15分弱…(正直言って…周りの雰囲気とハミ(蝮)がいるのでは?怖かった)


これが古矢遺跡の全体像です。

古矢遺跡 益田市 豊川地区


(あとの資料にもありますが)この岩肌、畳3枚分の面積はありました。

画像では(残念ながら)ただの岩肌しか見えませんが、

古矢遺跡現地では、筆跡は極めて豊かで美しい文字のメッセージが彫りこまれていました。


先の世に
夢の深山乃岩の影
われたる後に逢ふ事もあれ


そばに設置されていた遺跡案内板

古矢遺跡 説明看板


(この案内板に書かれていたこと)


古矢遺跡

この遺跡の由来について、古くから地元の古老たちは、
その昔この地に移り住んだ平家の落武者があり、
今の一の谷から六の谷でしばらく生活していたが、
この地を去るにあたり、
大きい岩の平らな三畳分ぐらいの平らな岩肌に
矢をもって歌を彫刻したという。

先の世に
夢の深山乃岩の影
われたる後に逢ふ事もあれ

故に昔からこの地を古矢遺跡という。

彫り方は、点と線で幼稚であるが、筆跡は極めて豊かである。


この西谷川に沿って中世から西谷街道があり、
桜谷から益田に近く、多田、左ケ山、横田など長野荘へ通ずる主要道路であった。


近くに「鑢床」という野鑢跡が土地台帳に二か所ある。
戦いにあけくれた益田氏を支えた職人集団(鑢師、鍛冶師)が多く住んでいたといわれる。


この下流域の西谷口に益田氏が百七十五年にわたって在住した益田家居館あとがある。


平成四年十一月吉日
ふる里おこし推進協議会


先の世に
夢の深山乃岩の影
われたる後に逢ふ事もあれ

深山
は「みやま」とよむと語呂がいいですね。「みやま」の解釈、「われたる」の解釈を展開すれば…何か凄い言葉のカラクリがあるようです。

益田の先人のメッセージですが…現代の市民の方々、御解釈チャンレンジしてみてくださいまし。

【画像撮影日:2009年9月】