益田市の歴史、風景(画像を)中心に投稿して、思わぬ歴史的発見がありました♪
今回は当サイトの過去記事間での発見!!…といった内容になります。
きっかけは、今日たまたま、私のこのサイトを訪れた方が気にしていた画像。
撮影は、今年の5月、益田市久城町の石見 式内社 櫛代賀姫神社 を参拝した時のものです。
※参照⇒石見 式内社 櫛代賀姫神社 を拝観 その2(益田市 久城町)
この画像…一体「どんな興味があって、検索してきたんだろうか?」とぼんやり思いつつ眺めていると、
ちょっと気になるモノが目に飛び込んできました。
連珠三つ巴瓦紋
それがコレ!!矢印の先の部分。「瓦紋」… 櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦周辺の画像です。
連珠三つ巴瓦紋です。
「えっ!?『連珠三つ巴瓦紋』…てなに?…何かすごい発見なんか?」
ハイ。すごいかどうかは別として(笑)
益田市の歴史・風景をコツコツ取材している、わたくし的には、とても興味深い発見になりました。
では、早速、話をすすめましょう…♪
『沖手遺跡…専福寺浦番所跡』での出土品の中に!!
『連珠三つ巴瓦紋』…って、益田市でちょっと前まで話題だったの遺跡『沖手遺跡』で発掘された品の中にありましたよネ♪
櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦のそばの紋瓦2つ…そのうち、特に下の「紋瓦」の形状・デザインを見てください。
益田市の沖手遺跡内の、「専福寺浦番所」(江戸時代、浜田藩が管理)跡から発掘されたモノと酷似しています。(ただし!なぜかこの紋瓦…巴が上は「右巻き」、下は「左巻き」なんです!!よくみると…連珠の数的には下の方が、、「専福寺浦番所」の出土品に酷似といえますが…巴の方向が左巻きであるこは気になります。)
(巴の方向は今回は一時保留として)
なぜ、『連珠三つ巴瓦紋』が益田市久城町の「櫛代賀姫神社」に現存しているのか?
このことについて、私なりに合点するには、さほどの時間がかかりませんでした♪
ヒントは「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」にあった!!
浜田藩の歴史は、ほとんど松平家系であることをご存知でしょうか?
そして…松平家では、連珠三つ巴瓦紋は、伝統的に使われていたようです。
※参照⇒江戸時代の沖手遺跡「丸瓦」の破片を考察
で、話を益田市の「櫛代賀姫神社」の歴史について調べてみたところ…
「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」に、
「文政6年(1823年)に石見国二十一個村の総氏子により本殿其の他の大修築をなし…」
という記載があることを発見しました。
「文政6年(1823年)」の浜田藩は松平(松井)家の時代です。
大修築の際の新しい「紋瓦」等に浜田藩(松平家)の素材・造形的趣向が込められていたとも考えられます。(ただし、くどいようですが…瓦紋の巴の巻き方が「1つだけ左」というのは気になります…(笑))
↑こんなことは、実に些細な発見ですが、江戸時代の(益田市の)ここら辺の時代…浜田藩のころの様子に興味が湧いてきました。
編集後記
※あとで分かったのですが…巴の左右は、一番上の玉から伸びる尻尾のような方向で呼び名がつけられているようです。ですから、益田市の沖手遺跡で発掘された巴は「左巴」と呼ばれます。(わたくし的には、回転方向で左巻き、右巻きといったほうがわかりやすいと思い、修正はしておりません。ご容赦ください。)自分がこれまで地元、益田市の歴史や風景に関して投稿した記事の内容・画像からでも、(これまで益田市に関する史料・資料には無い)思わぬ発見があるものです。
これまで、過去記事を振り返ってみることは(誤字脱字の修正とか小見出しとgoogleMAPの追加程度で)あまりなかったのですが。今回を機会に、当サイト内の投稿記事情報を発掘してみることもアリかと思いました(笑)