益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の遺跡

益田市の沖手遺跡 専福寺浦番所跡と櫛代賀姫神社の「紋瓦」

益田市の歴史、風景(画像を)中心に投稿して、思わぬ歴史的発見がありました♪

今回は当サイトの過去記事間での発見!!…といった内容になります。


きっかけは、今日たまたま、私のこのサイトを訪れた方が気にしていた画像。
撮影は、今年の5月、益田市久城町の石見 式内社 櫛代賀姫神社 を参拝した時のものです。

上り藤に久の字 瓦 櫛代賀姫神社 益田市


※参照⇒石見 式内社 櫛代賀姫神社 を拝観 その2(益田市 久城町)

この画像…一体「どんな興味があって、検索してきたんだろうか?」とぼんやり思いつつ眺めていると、
ちょっと気になるモノが目に飛び込んできました。

連珠三つ巴瓦紋


それがコレ!!矢印の先の部分。「瓦紋」… 櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦周辺の画像です。

櫛代賀姫神社 益田市 連珠(右)三つ巴瓦紋


連珠三つ巴瓦紋です。

「えっ!?『連珠三つ巴瓦紋』…てなに?…何かすごい発見なんか?」

ハイ。すごいかどうかは別として(笑)

益田市の歴史・風景をコツコツ取材している、わたくし的には、とても興味深い発見になりました。

では、早速、話をすすめましょう…♪

『沖手遺跡…専福寺浦番所跡』での出土品の中に!!


『連珠三つ巴瓦紋』…って、益田市でちょっと前まで話題だったの遺跡『沖手遺跡』で発掘された品の中にありましたよネ♪
櫛代賀姫神社「拝殿」の鬼瓦のそばの紋瓦2つ…そのうち、特に下の「紋瓦」の形状・デザインを見てください。

連珠三つ巴瓦紋(右巻き左巻き混在) 櫛代賀姫神社(益田市)

益田市の沖手遺跡内の、「専福寺浦番所」(江戸時代、浜田藩が管理)跡から発掘されたモノと酷似しています。(ただし!なぜかこの紋瓦…巴が上は「右巻き」、下は「左巻き」なんです!!よくみると…連珠の数的には下の方が、、「専福寺浦番所」の出土品に酷似といえますが…巴の方向が左巻きであるこは気になります。)

江戸時代の沖手遺跡 丸瓦 益田市


(巴の方向は今回は一時保留として)
なぜ、『連珠三つ巴瓦紋』が益田市久城町の「櫛代賀姫神社」に現存しているのか?
このことについて、私なりに合点するには、さほどの時間がかかりませんでした♪

ヒントは「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」にあった!!


浜田藩の歴史は、ほとんど松平家系であることをご存知でしょうか?
そして…松平家では、連珠三つ巴瓦紋は、伝統的に使われていたようです。
※参照⇒江戸時代の沖手遺跡「丸瓦」の破片を考察

で、話を益田市の「櫛代賀姫神社」の歴史について調べてみたところ…

「石見 式内社 櫛代賀姫神社略記」に、

「文政6年(1823年)に石見国二十一個村の総氏子により本殿其の他の大修築をなし…」

という記載があることを発見しました。


「文政6年(1823年)」の浜田藩は松平(松井)家の時代です。


大修築の際の新しい「紋瓦」等に浜田藩(松平家)の素材・造形的趣向が込められていたとも考えられます。(ただし、くどいようですが…瓦紋の巴の巻き方が「1つだけ左」というのは気になります…(笑))

↑こんなことは、実に些細な発見ですが、江戸時代の(益田市の)ここら辺の時代…浜田藩のころの様子に興味が湧いてきました。


編集後記
※あとで分かったのですが…巴の左右は、一番上の玉から伸びる尻尾のような方向で呼び名がつけられているようです。ですから、益田市の沖手遺跡で発掘された巴は「左巴」と呼ばれます。(わたくし的には、回転方向で左巻き、右巻きといったほうがわかりやすいと思い、修正はしておりません。ご容赦ください。)

自分がこれまで地元、益田市の歴史や風景に関して投稿した記事の内容・画像からでも、(これまで益田市に関する史料・資料には無い)思わぬ発見があるものです。
これまで、過去記事を振り返ってみることは(誤字脱字の修正とか小見出しとgoogleMAPの追加程度で)あまりなかったのですが。今回を機会に、当サイト内の投稿記事情報を発掘してみることもアリかと思いました(笑)

江戸時代の沖手遺跡「丸瓦」の破片を考察

前回投稿の益田市の沖手遺跡の案内板の中にちょっと気になった画像があったので投稿しておきます。

※参照>>益田市のナフコで『沖手遺跡』の案内板を発見

◆江戸時代の沖手遺跡
沖手遺跡は港湾集落として平安時代末~室町時代(12~16世紀)の約400年間が最盛期とされていますが、江戸時代にも「浦番所」という施設があったことがわかっているようです。

江戸時代の沖手遺跡 益田市

浦番所とは江戸幕府が設置した、海の警備や見張りのための施設だそうです。


4.江戸時代の沖手遺跡」の解説文をみると、ここの浦番所の名称は「専福寺浦番所」と呼ばれるもので、浜田藩による管理下にあったことがわかります。

◆「丸瓦」破片の「三つ巴の紋」が気になった…

で、気になったには下の画像↓右の「丸瓦」…三つ巴の紋わかります。(下の画像でで囲んだ部分です

江戸時代の沖手遺跡 丸瓦 益田市



三つ巴瓦紋はポピュラーなものなのでさほど珍しくはないのですが、この丸瓦の破片には三つ巴を囲むように丸い点々があります。

「この特徴的な点々をもとに、沖手遺跡出土の瓦のかけらについて、もう少し深く探ってみたい…」と興味を持ち、早速、調べてみたら、これらの点々は「連珠」と呼ばれるデザインであることがわかりました。

◆連珠(左)三つ巴瓦紋の謎とき

というわけで、この瓦紋は、連珠(左)三つ巴瓦紋であることがわかりました。
※巴の尻尾が向かって左側がわにあるからそう呼ばれるそうです。

この連珠(左)三つ巴瓦紋デザインは、遺跡としては他にどんな所で発掘されているか調べたところ「連珠三つ巴」瓦紋は東京の飯田町遺跡にある「松平家」の丸瓦に多く見られるものであることがわかりました。

松平家って!?…浜田藩の歴史は、ほとんど松平家系ですよね。連珠(左)三つ巴瓦紋は松平家では伝統的に使われていたようです。

浜田城跡の発掘調査記録の浜田城跡(庭園跡の調査 2)P13~15に遺物の記録があり、P15には「連珠三つ巴」瓦紋が確認できるものがあります。

※参照:浜田城跡(庭園跡の調査 2)
立正佼成会浜田教会新築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
2007年10月 島根県浜田市教育委員会

※「丸瓦のかけら」ひとつからでもいろいろと歴史を学ぶことができますネ♪

益田市のナフコで『沖手遺跡』の案内板を発見

先日、益田市に新しくできたナフコ(ホームプラザナフコ) 益田北店(益田市久城町)さんに大きめのデスクを探しにいったところ、偶然にも『沖手遺跡(おきていせき)』の案内板(解説プレート)を発見しました。

案内板のタイトルは沖手遺跡‐中世の大規模港湾集落‐
益田市教育委員会さんにより作成されたものです。

沖手遺跡 案内板 益田市教育委員会

◆『沖手遺跡』の案内板の構成

この案内板の構成は
1.沖手遺跡と中世港湾の移り変わり
2.発掘調査からわかったこと
3.地中に眠る人々の生活の痕跡
4.江戸時代の沖手遺跡

前から気になっていた益田市の『沖手遺跡』。この『沖手遺跡』の案内板は図面や画像が豊富で、私にとって、わかりやすくまとまった情報をえることができました。

◆『沖手遺跡』の発掘調査場所

今回の『沖手遺跡』の発掘調査は下の画像に示されているで囲まれた部分です。整然と並んでいますがずいぶん部分的ですネ。

沖手遺跡 案内板 発掘調査場所


発掘調査場所が部分的になっている「理由」として、(この案内板の「2.発掘調査からわかったこと」より、)場所の選定は、ナフコさんの店舗の基礎部分と灯油販売所(※画像右下「くの字」型の部分)に限定した発掘調査であることがわかりました。

◆『沖手遺跡』…実は大部分は未発掘!?
同じく案内板の「2.発掘調査からわかったこと」の最後に、「なお、遺跡のうち店舗の基礎以外の部分は盛土で保護されています。」とありました。

ということは…店舗や広い駐車場を含めると、未発掘、未調査場所の方が遥かに広いわけで、地面の下にはまだまだ貴重なお宝遺物がたくさん眠っているかもしれませんネ!?

◆『沖手遺跡』の案内板(解説プレート)の設置場所
『沖手遺跡』の案内板(解説プレート)はナフコ21スタイル(TWO-ONE STYLE)の方の入口の駐車場付近で建物の壁のそばに設置されています。

「高津の連理松」の最古の画像を発見(高津町誌より)

益田市の高津 浜地区には、かつて「連理松」という珍しい樹形をした「松」の木がありました。
この松は、平成15年3月に「松くい虫」の被害で枯れ「伐採」されたため、現在は、その姿をみることはできません。

しかしながら、現在、当地には「高津の連理松」と銘うった「遺跡」的な感じでその記録が残っています。
⇒今はなき「高津連理の松」とその思い出(益田市 高津 浜地区)

実は、この「連理の松」の(私が知る限り)最古の画像(写真)を発見しました。

出拠は『高津町誌』(正確には、復刻版『高津町誌』)からです。

高津の連理松 最古の画像 昭和10年代前半


益田市の『高津連理の松』についての情報は以下のページ(リンク)に記しています。
⇒在りし日の「高津連理の松」の樹齢・太さ・高さ(益田市 高津 浜地区)
かなり周辺の感じが違いますね。

この画像(写真)の撮影時期についての考察
さて、この画像(写真)、一体、いつ頃撮影されたものなのか?
画像の下に「連理松(天然記念物)」という記載が確認できます。

そして、現在確認できる正確な記録は以下の2点。

①「高津連理の松」が我が国の天然記念物に指定されたのが昭和9年。天然記念物 高津連理ノ松(昭和九年八月九日 文部省告示第二三五号)
②今回の画像の出拠『高津町誌』が完成(出版)が昭和12年。
この2つの信頼できる情報から、昭和10年前後に撮影された「高津連理の松」の(生きのいい)姿と推測できます。


★「連理」の意味については、
⇒「連理の松」の「連理」等、名前の意味を知る(益田市『高津連理の松』遺跡)
をご参照ください。

「連理の松」の「連理」の意味を知る(益田市『高津連理の松』遺跡)

益田市の高津 浜地区にあった「高津連理の松」

1934年(昭和9年)8月に国の天然記念物に指定~2003年(平成15年)3月に松枯れで伐採。
さて、この松の名称にある「連理(れんり)」という言葉の意味。あなたはご存知でしょうか!?

現在、この地には「高津連理の松」のことを記した「石碑」と「説明板」があります。

・石碑は1973年(昭和48年)3月に設置されたもの。
・説明板は、内容からして「高津連理の松」伐採後、2003年(平成15年)以降に設置されたもの(と思われます。)

そのどちらにも「連理」という言葉の意味について解説がありました。
①まずは、益田市教育委員会により1973年(昭和48年)3月に設置された石碑

高津連理ノ松 石碑 益田市教育委員会


天然記念物
高津連理ノ松(昭和九年八月九日 文部省告示第二三五号)

連理の理は木目、連理とは木目をつらねる意味で比翼連理ということばがあるように夫婦仲のむつまじいことの象徴。この連理の松は南株の一枝が伸長して北株の幹に接触し、その部分の樹皮を剥いでついに合着したもので、完全な連理をとげている点において学術上貴重なものとされている。

昭和四十八年三月吉日 益田市教育委員会

②新しい方の案内板(「高津連理の松」)の当該部の記載
連理の理は木目、したがって連理とは木目を連ねる意味で比翼連理ということばにあるように二本の松が寄り添う姿から、古来から地元の人々からは夫婦松として崇敬され、益田の観光名所のひとつとして広く親しまれてきた。

高津連理の松 説明内容



私は平成時代には、千葉・東京で暮らしていたため、この松の最後の時期は目にする事はできませんでした。
でも、「高津連理の松」が元気な姿は、子どもの頃(昭和時代)は何度も目にしています。

石見交通のバスから、この松の姿を目にするたびに、「あっ、連理松が見えた!!」…と声に出していました。

そして、実は、私…「連理」という言葉の意味は…今回の取材で初めて知りました。

在りし日の「高津連理の松」の樹齢・太さ・高さ(益田市 高津 浜地区)

益田市、高津浜地区にある「高津連理の松遺跡
(※現状については下記リンク先に掲載しています。)
>>今はなき「高津連理の松」とその思い出(益田市高津浜地区)

今回は、当地の案内看板より、「高津連理の松」の大きさ・樹齢等の数値データと略歴(国・天然記念物(植物)指定~伐採まで)について。

高津連理の松 説明


高津連理の松 説明内容


高津連理の松

 高津連理の松は、高津浜地区に鎮座する琴平神社の境内にあり、黒松の枝が地上約4.5mのところで隣接する他の黒松の幹とほとんど水平に合着して完全な連理を遂げている点が学術上有益で、樹齢は三百年ともいわれる二本の松の間隔は1.5mほどで、北側の松の胸高周囲は1.9m、南側は2.5m、松の樹高は、およそ24mであった。(※中略)
 このたび、松喰虫の被害によりやむを得ず伐採し、高津連理の松は、その生涯を終えましたが、高津地区のシンボルであった雄姿が末永く後世に語り伝えられることを念願します。

昭和九年八月 国・天然記念物(植物)指定
平成九年八月 高津連理の松の一部を伐採
平成十年一月 国・天然記念物(植物)指定解除
平成十五年三月 高津連理の松伐採

※中略とした部分…「高津連理の松」の「連理」の意味については
>>「連理の松」の「連理」の意味を知る
をご参照ください。

「松崎の碑」の内容を知る (益田市の「高津連理の松」遺跡内)

益田市の高津浜地区で、かつて名所であった「高津連理の松」。この松は平成15年3月に枯れたため今はその姿ありません。「天然記念物 高津連理ノ松」と標された「石碑」とその「説明板」があるので、かろうじて、その痕跡と概要を知ることができる状態です。


さて、今回の記事タイトルに記載しましたが、この「高津連理の松」があった地に「松崎の碑」と呼ばれる石碑があります。

松崎の碑 益田市高津 20150322


「益田市」縁で日本史上の有名人といえば「柿本人麿」と「雪舟」。
例えば、われら益田高等学校「校歌一番」の冒頭の、「歌の聖と~♪」の歌詞。
この「歌の聖」…「柿本人麿」にまつわる事柄が「松崎の碑」に刻まれています。
現地の案内看板

松崎の碑 説明板


松崎の碑
柿本人麿公は神亀元年(七二四年)に高津沖にあった鴨島で没し、そこに人麿公がご自身で作られた木造を安置する祠が建てられたと伝えられています。その後、萬寿三年(一O二六年)の地震による大津波で鴨島は水没しましたが、人麿公の木像は祠の傍らにあった二又の松の大木に乗って、この付近の松林に漂着しました。松の霊力によって佐()け起こされたという意で、この地は「松佐起(松崎)」と呼ばれるようになりました。付近の住民はその神徳を偲び、社殿を建て、延宝九年(一六八一年)に現在の社地に移転されるまでの約六百年間守り続けてきました。
 ところが、社地が移転された後、この由緒ある土地が人々の記憶から薄れていくのを憂えた津和野藩主亀井矩賢公が藩士河田孫兵衛に命じられ、京の正二位芝山卿藤原持豊公に撰文を依頼し、文化十一年(一八一四年)この碑が造立されました。松崎の碑文が別名「芝山卿碑文」と呼ばれるのはこのためです。


また、この案内板の後半には「松崎の碑の全文」が掲載されていました。

松崎の碑 全文 益田市高津   石見の国高津の沖に鴨島となんいひて大なる島山あり。

神亀元年甲子三月十八日柿本のおほん神かむさりませし所にて御辞世のやまと歌、萬葉集、拾遺集にのせられたり。

此所に御廟尊像は自らつくらせ給うとなん寺をば人丸寺と名づく。

都より北海に渡海の船、此地によせ来り、賑わしくさかんなりし地なりしに後一条院の御宇、萬寿三年丙寅の五月、高波のため彼の島をゆりこぼたれ、宮寺を初め民屋残りなく海中に没しぬ。

しかありしに、彼鴨島のおほん社の前に二枝にわかれたる松あり、此松の枝、尊像を帯て高角浜によせ来りぬ。

此処を松佐起社と名づく。人々信感に堪えず、其処に社と寺を造り尊像をもすえ奉りしに、延宝九年に今の高角山に社地をうつし奉りしまで、年凡そ六百有余年此松崎にて祭事をいとなみ奉るとなん。

この松崎に二枝の松の古木ありて御腰掛の松ととなえ来りぬ。

しかあるに、大方古木となりし故に、植かゆることたびたびなれども、もとより西北の大海の辺にて風のかくる砂に吹きまくられ、または枯れることあまたたびするがゆゑに、彼の松のかたはらに石を立てて古跡のしるしとして後世につたへつぎつぎうゑそへんとす。

くらふの輩かたちにあはせて此事をこたびをこなふにつきてそのことを書せよ。ある人もてあつらふるにいなみがたくあせながれてせなかをつるほすながら秀筆を記すものにこそ。

 
神もさそふこきなかれと守るらし里のおきなのたてし石ふみ



【編集後記および追記

芝山 持豊
(しばやま もちとよ 1742~1815)が前権中納言であったのは、寛政11年(1799年)~文化11年(1814年)ということです。

2015年3月22日、本ページの3枚の画像を新しくしました(以前のものが、画質が悪かったため)

撰文について、最後の和歌の原文を確認するために調査しています。(2015年3月)

理由は、
説明板の表記では、意味がわからないという点と、
現地で原文をみると何か違和感があるためです。

現在(松崎の)碑の文字に風化のため解読が困難な部分があり、過去の研究資料等をさがしている段階です。

今はなき「高津連理の松」とその思い出(益田市 高津 浜地区)

益田市の高津浜地区にある琴平神社。この神社の境内に、かつて「連理の松」という松の木があった事をご存知ですか?
高津連理の松」は、国の天然記念物として登録もされていた程、大変珍しい樹形をしていました。

元気だった頃の「高津連理の松」の画像

高津連理松 益田市高津浜地区

2本の松が、H型につながっています。
ただ、残念なのは、この「高津連理の松」は平成15年3月に松くい虫の被害で枯れ、「伐採」されたそうです。
上の画像の出処は当地に設置された案内板からです。

高津連理の松 案内 益田市


「高津連理の松」
現在の当地の状態はこんな感じです。

高津連理の松 石標


現地には「天然記念物 高津連理ノ松」と標された「石碑」のみ…なんだか寂しい気持ちになりますね。


琴平神社(益田市 高津浜地区)の現在の様子です。この神社の右側に、かつて「高津連理の松」がありました。

琴平神社 益田市 高津浜地区

【高津連理ノ松の「わたくし的」思い出】
子どもの頃、よく蟠竜湖へ遊びに行ってました。その行き帰りのバスから「連理の松」の姿が見えたことを覚えています。

また、当時、「連理の松」周辺は、松林でした。NHKの「おかあさんといっしょ」で、当地の松林の中で子どもたちが元気にはしゃぐ姿が放映された事もあります。

余談ですが…昭和40年代頃は「石見交通バス」はワンマンバスではなく、車掌付きでした。近くにある山陰本線の「踏切」をバスが通過の際、車掌さんは一旦バスから降り、笛と合図で誘導していた…という記憶もあります。

丸山銅山跡と旧安養寺跡、山烏行淵と坂ノ上寔護(益田市 美都町)

前回、益田市美都町の丸山銅山跡で「旧安養寺跡」の様子をお伝えしました。
下の画像をみてもお分かりのように、まるでジャングルの中の古代文明の遺跡のようです。

旧安養寺 遺跡 益田市美都町


丸山銅山が「発見」されたのは平安時代の881年。
日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条に記述されているということでした。


では、一体
①丸山銅山は誰が最初に「発見」したのか?
②旧安養寺が建てられた経緯は?
…そんな素朴な疑問を持っていました。
丸山銅山、旧安養寺に関する2つの疑問の答えは意外にも『益田市誌(昭和50年12月20日発行)』で見つかりました。


益田市誌 上巻の319ページ
第四章 平安時代 
第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
より
「一 都茂丸山銅山の発見」に丸山銅山の発見と旧安養寺が建てられた経緯の記述がありました。

①丸山銅山は誰が最初に発見したのか?についてですが、この益田市誌によると、

旧記から考えてみると、この銅山の最初の発見者は、隋の煬帝(ようだい)の末裔、散位永岑の弟に当たる山烏行淵であった。彼は僧空海の弟子で、諸国遍歴の途上に石見を行脚し、丸山の地に銅鉱を発見したのである。これを兄永岑を通じ、朝廷に奏上した。
そして真髪部安雄が石見に赴く際、行淵は鉱務を掌るよう命じられた。
(益田市誌 上巻 319~320ページ)

山烏行淵という人物が発見者のようです。
この山烏行淵という人物、隋の煬帝の末裔…空海の弟子…なんか凄そうな感じが。
一体、当時、こんな山奥で、どのような手法(ノウハウ)をもって鉱山を発見できたのか…不思議ですよネ。


②旧安養寺が建てられた経緯について
旧安養寺については『益田市誌 上巻』320ページに、ズバリ!「安養寺の移転」で記述されていました。
もともとは、益田市の遠田地区(上遠田)にあったようです。

『益田市誌』の上巻の320~321ページによると

安養寺の移転
丸山に移住した寔護は、郷里の菩提寺である安養寺が、遠くて参詣に不便であること、また同寺を繁栄させたいとの理由から、元慶元年(877年)山烏行淵に託して、同寺を上遠田から丸山へ移した。

当初は正福寺と寺名を改め、真言宗の末寺となった。そして行淵を住僧とし、寔護自身は大檀那となって保護を加えた。そこで行淵は鉱務を子の尚峯に譲り、寺の興隆に努めさせた。

正福寺は後年、元の安養寺に改められた。(中略)今日上遠田にある安養寺の地名を残すところがその址である。丸山大金に移転後の安養寺は、行淵の後、朝旨を受けて鉱務を掌った山烏尚峯が、住僧として後を継いだ。

益田市誌(昭和50年12月20日発行)上巻
第四章 平安時代 第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
二 坂ノ上寔護の丸山赴任 安養寺の移転より引用

【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)


丸山銅山跡(旧安養寺跡)の現在の光景(益田市美都町)

県道314号線の丸山銅山跡入口の標識から歩くこと約10分。

当時は、道はぬかるんで、足もとが悪く、しかも、道は殆ど篠竹が覆いかぶさり前方がよく見えない。
かなり我慢が必要でしたが・・・そんな苦労の甲斐があって…こんな場所に辿りつきました。

丸山銅山跡 旧安養寺跡 益田市美都町


画像の下方に相当古そうな石垣があるのがわかりますか?

よくみると、

旧安養寺跡 案内


旧安養寺跡」と!(安養寺といえば、美都町山本の見事なしだれ桜があるお寺ですね。)

別の石垣からは太い木がニョキっとはえています。

旧安養寺跡 石垣と木 能登川


ここを流れている小川は能登川(の上流)かと思われます。


日本三代実録』によると丸山銅山が発見されたのは平安時代、元慶五年(881年)。

丸山銅山跡 旧安養寺跡2


かつて、ここにどんな建物があって、どんな人々が暮らしていたのでしょうか?
丸山銅山跡と旧安養寺跡とはどんな関係があるのでしょうか?


実は、丸山銅山の歴史につては、「益田市誌」に関連情報がありました。
次回は「益田市誌」で見つけた「丸山銅山の歴史」に関する内容についてです。


【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)


丸山銅山跡入口…丸山銅山の歴史(益田市 都茂鉱山跡)

益田市美都町の都茂鉱山跡探訪記
前回の昭和時代の「丸山坑入口」から、平安時代の「丸山銅山遺跡」へ。

場所は県道314号線を進み、野々峠を超え、少し下ったところにあります。

目印は、「丸山銅山跡入口」と書かれた杭(くい)看板。

丸山銅山跡入口 益田市


丸山銅山跡入口
この鉱山が発見されたのは平安時代881年ということです…

『※日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条」であるということがわかりました。

出処は、IMES…日本銀行金融研究所における論文(ディスカッション・ペーパー・シリーズ)です。

IMES Discussion Paper Series 2002-J-30

「古代銭貨に関する理化学的研究」「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組成分析(PDF)
>>http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/2002/02-J-30.pdf  齋藤努・高橋照彦・西川裕一

の19ページに記載されています。

参考:日本三代実録とは

日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、901年に成立。六国史の第六にあたる。

清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

さらに、丸山銅山はあの世界遺産の「石見銀山」(島根県大田市)とも歴史的に関係があるようです
※山陰中央新報さんのONLINE NEWSでの特集に

特集・石見銀山 : 石見銀山の営み(4)地の恵み 都茂銅山の技術者採掘か
佐毘売山神社を分霊 益田から祭神と移動 (2008年6月22日)
>>http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=504046180

という興味深い記事がありました。(コンパクトで且つわかりやすい記事です))

(尚、島根県の大田市の石見銀山と益田市の都茂銅山(あわせて、益田市の比礼振山(ひれふりやま)(権現山(ごんげんやま)ともいう)の麓にある佐昆賣山神社)との繋がりについては後日特集します。)


また益田市の美都町には銅精錬所跡となる「大年ノ元遺跡」というものがあるそうです。
「webさんいん」さんのサイトにあった山陰中央新報さんの記事
>>美都で銅精錬工房跡 大年ノ元遺跡 炉壁片や滓出土 中世の鉱山都市の可能性 (2002年5月23日)

(上記記事によると「大年ノ元遺跡」は全国的にも珍しく、貴重な遺跡だということです。)


さあ、いよいよ丸山銅山跡へ!

と思って進んでいたのですが!?…こんな状態でした。

丸山銅山跡への道


軽装では無理そうなので、この日はここまで。今回は丸山銅山の予備知識(知的入口)というの事に…

【補足文献資料】
九州大学総合研究博物館の以下の論文(PDF)
>>蛍光X線分析法の製錬津試料への適用(中西 哲也、吉川 竜太、井澤 英二)
九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No.2,149-156,2004

上記論文は、「九州大学地球上源システム工学部門に設置されている蛍光X線分析装置を使用して、銅鉱石・銅製錬津の分析に適用した際の技術的なポイントについて報告する。」ということが主たる論旨にあたります。
※注目すべきは、適用分析例として山口県の長登銅山と島根県益田市美都町の「都茂丸山銅山」の鉱石・製錬津・炉壁試料に関して紹介されています。


【画像は2009年04月撮影】

都茂鉱山跡探訪:昭和時代の丸山坑入口付近(益田市 都茂鉱山跡)

益田市の産業遺産ともいえそうな、美都町の都茂(つも)鉱山跡の探訪記

今回は、昭和時代の丸山坑の入口」付近までです。

県314道号線の都茂鉱山選鉱場が見える地点から、さらに1km強、上り坂の道路を進むと「手書きの道標」がありました。

都茂鉱山 丸山坑 道標


左の未舗装道路(車は進入できません)をいくと「丸山坑」入口だそうです。
(ちなみに匹見町方面の方向へ行くと「野々峠」となります。)


この道標の上方には…コンベア系の鉱山設備の残骸がありました。

都茂鉱山の丸山坑関連設備 残骸 益田市


上から見ると構造がわかります。三本の太いパイプ状のものが配置されています。どうやらベルトコンベアではないようですネ。

都茂鉱山設備の残骸 益田市


歩くこと数百メートル…これが「昭和時代の丸山坑の入口」です。

都茂鉱山 丸山坑 入口


昭和の全盛期のころは、銅と亜鉛の鉱石や、あの都茂鉱tsumoite:BiTe組成 (ビスマス原子とテルル原子の比が1:1の鉱物))が沢山採掘されたのでしょうネ。

倉庫らしき構築物の中には…奥には、巨大な(青色の)モートルの残骸がありました。

都茂鉱山 丸山抗関連施設 残骸 益田市


偶然ですが、都茂鉱山の当時の「岩石採取標識」を発見しました。(沢に向かって落ちていました)

都茂鉱山の「岩石採取標識」


手書きの標識ですね…事務所名からはじまり…採掘の方法:階段採掘法…業務管理者の名前、等々記載されています。

・都茂鉱(tsumoite)の発見
・全盛期を偲ばせる鉱山施設の残骸群
・手書きの道標や岩石採取標識

都茂鉱山跡には昭和時代の益田市の産業遺産・遺跡的なアイテムがゴロゴロありますネ。


【画像は2009年04月撮影】