益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市 縁の歴史上の人物

徳川夢声さん「石見第三の句碑」を訪ねて(津和野町日原(にちはら))

徳川夢声さんの句碑は島根県の石見地方では2つあることをご存知の方は多いはず。


1つは益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある 「送り火のけむりに何をみつむるぞ」
⇒徳川夢声、益田市の「送り火のけむりに何を見つむるぞ」の謎

2つめは津和野町の津和野大橋のたもとにある 「山茶花の雨となりたる別れかな」
⇒徳川夢声さんの益田市と津和野町の2つの句碑に思う

ですネ。

ところがです!ところがですよ!昨夜(2015年5月7日)の事なんですが…

「徳川夢声の句碑ねぇ…たしか日原(津和野町)にもあるよ♪」

と、さらりと教えてくれた方が益田市におられました!!
(※日原は「にちはら」と読みます。念のため…)

その方は、益田市在住で私が尊敬する大先輩。しかも、徳川夢声さんの東京の事務所におられ、「生」徳川夢声さんと会話をした経験をお持ちの方です。


「えっ!?マジですか?徳川夢声については、最近かなり調べているんですが…そんな話は聞いたことがありません。…場所は日原のどこですか?」


大先輩:「はて、それはわからん?」


「えっ?…でも、なんか手掛かりは?」


大先輩:「う~ん…それがネットでもわからん、でとらんのよ画像とか」


「なら、明日、日原に探しに行こうと思うのですが、一緒に行っていただけませんか?」


大先輩:「ああ、ええよぉ…」


というわけで、早速本日、津和野町日原に行ってきました。


大先輩は、益田市だけでなく、津和野町にも豊富な人脈をお持ちの方なので、日原に着いて、ほんのわずかの間、ちゃちゃっと数名に携帯で尋ねてねぇ・・・目的の場所を割り出してくれたんですよ・・・まるで、仙人みたいなお方です♪

(と、かなりひっぱりやしたが…)

これが津和野町日原にある徳川夢声さんの句碑。徳川夢声さんの「石見第三の句碑」です。

これはこれ日本一の鮎どころ


これはこれ日本一の鮎どころ



おおお!この句碑には(説明とか案内板はないけど)徳川夢声さんのサインがしっかり確認できます♪
ウェブ(ネット)上ではおそらく初公開になります。

津和野町日原 徳川夢声 これはこれ日本一の鮎どころ


わかりやすい句なので、見るだけで、伝わりますよね。


高津川の鮎が激ウマ!!という徳川夢声さんの素直な感動が♪

おまけ的ですが…鮎のオブジェも拡大でどうぞ!!

アユ


徳川夢声さんの「これはこれ日本一の鮎どころ」の句碑の場所について
googleさんのSVを掲載しておきます。


【投稿後記】
※ただねぇ…またまた、私の癖、性癖に近いものですが…この句についてもっと調べてみたくなりました。何かわかったらまた報告しますけぇ♪

徳川夢声さんの雑記・雑俳二十五年にあればいいのですが…

txt


【追記:2015年5月12日】

徳川夢声さんの「これはこれ日本一の鮎どころ」が、雑記・雑俳二十五年にあればいいのですが…と、益田市立図書館にて雑記・雑俳二十五年を1ページずつめくりながら探してみましたが、見つけることはできませんでした。

【追記2:2015年5月29日】

本記事を投稿後、津和野町の専門の方にこの句碑に関して「どんな些細な事でもいいのでお教えいただけませんか?」との旨、情報をお願いしました。・・・結果、数日前ですが、お返事をいただくことができました。

この徳川夢声さんの句碑は、
・平成12年(2000年)に建立されたもので、旧日原町時代であることがわかりました。

・句碑建立の経緯としては、堤防整備事業にともなったもので、「歩道…ウォーキングコース、遊歩道もつくろう」という企画にあわせ、そこに(遊歩道)に高津川漁協にちなんだものとして発案・設置されたそうです。

堤防整備の記念として、「徳川夢声さんの句碑」が建立されたわけです。

以上の情報をわざわざ調べてご連絡くださった、津和野町の教育委員会のお方には大変感謝しております♪

徳川夢声、益田市の「送り火のけむりに何を見つむるぞ」の謎

益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある徳川夢声の句碑

(このサイトでこの句碑について取り上げるのは3回目になりますネ)

徳川夢声の句碑 益田市


この句碑は「益田市制15周年記念」として昭和42年(1967年)12月9日に建てられたそうです。


送り火のけむりに何を見つむるぞ


この句について私は以前に、「益田市制15周年記念として如何なものか?」といった思いを綴っています。

今回は、徳川夢声さんのこの句「送り火のけむりに何を見つむるぞ」についての句に関する「情報」です。


なぜ?送り火のけむりに何を見つむるぞ


徳川夢声さんは、ご自身作の俳句について、作句年月日とちょっとしたメモの記録を残しています。

それらをまとめたのが、「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))です。

txt

調べてみたらわかったのですが…実は、この句は連句(3連句)の初句だったのです!!


・送火の煙に何を見つむるぞ
・燈籠の房も焔も揺るるなり
・燈籠の数多並びてまたたける


時は、昭和16年(1941年)7月15日。
以下は、その時の徳川夢声さんご自身のメモ(記録)(「雑記・雑俳二十五年」より)


田園調布欅雨荘で渋沢氏令息追悼句会が催された。

この日始めて連句なるものを試みる。

上欄三句とも当夜嘱目吟、各句とも点数を稼ぎ、第三位であった。

(この翌日第二次近衛内閣総辞職。)

「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))93ページ

※嘱目吟(しょくもくぎん)…実際に景(色)を見ながら創作した句

※「送火の煙に何を見つむるぞ」は益田市の当該句碑「送り火のけむりに何を見つむるぞ」と表記に違いがありますが、「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))ママの記載です)


渋沢という人とは…


送り火のけむりに何を見つむるぞの句碑にある句は渋沢氏令息追悼句会でのものであることがわかりました。


渋沢氏というのは渋沢秀雄(しぶさわ ひでお)。かの渋沢栄一氏の4男にあたります。
「いとう句会」でのペンネームは「渋亭」 (ちなみに徳川夢声さんは「夢諦軒」)

連句(3連句)の初句「送火の煙に何を見つむるぞ」と他2句


・送火の煙に何を見つむるぞ
・燈籠の房も焔も揺るるなり
・燈籠の数多並びてまたたける


「送火の煙に何を見つむるぞ」が「益田市制15周年記念の句碑」になりえたのか…


という疑問もさることながら、そもそも、私、連句の一部を抜き出して「句碑」とかにした理由がいまいちわかりません。(私はあまり好きではないですね、連句は(この場合)3つそろって意味をなすからです。)


また、誰が選んだかについて、もし徳川夢声さんがこの「句」を選んだという事であれば…それはそれで、謎めいたものがあります。


はて?徳川夢声さんは昭和42年(1967年)12月9日の当句碑の除幕式に何を思っていたのか…


【追記】
「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))は益田市立図書館に一冊あります。ご興味があるお方はどうぞ(但し、禁帯出ですけど…

【おまけ情報&画像】

益田市誌 (昭和50年12月20日発行 )上巻910ページに当句碑の画像がありました。

徳川夢声句碑 益田市「辻の宮八幡宮」境内 益田市誌


現在の益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある徳川夢声の句碑は実はリニューアルされてたんですね。

当初は、タイル張りだったようです。


ここで発見!!

この句碑、よく見ると向かって右に「由緒書き」のようなものが見えます。

徳川夢声句碑 益田市「辻の宮八幡宮」 益田市誌 赤丸


「これ、現在の(リニューアルされた)句碑にもあったっけ?」


…実は、先日、辻の宮八幡宮境内にある徳川夢声の句碑の見学の際、そこまで気が回っていませんでした。


「しまった…わしとしたことが…何がかいてあるんじゃろうか?・・・GWは、辻の宮八幡宮へ徳川夢声の句碑を再見学せにゃやれんのう…」

徳川夢声さんの益田市と津和野町の2つの句碑に思う

益田市、縁(ゆかり)の歴史上の人物の一人「徳川夢声」。

徳川夢声さんが郷土、石見地方に残した句碑は2つ。

一つは、生誕地、我ら益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある


送り火のけむりに何を見つむるぞ 

徳川夢声の句碑up


昭和42年(1967年)12月9日に建てられたそうです。

送り火のけむりに何を見つむるぞ


はて?「益田市制15周年記念」としての記念的かつ象徴的なはずの碑に「送り火…」


なにか深い意味があるのでせうか?・・・「益田市制15周年記念」としてのこの句の位置づけは、言及することは避けてw…この句についてはわかったことがありました。

コチラのページでお伝えしています♪
⇒徳川夢声、益田市の「送り火のけむりに何を見つむるぞ」の謎


そして、


もう一つは津和野町にあるという句碑。


昨日(2015年4月29日)私は、津和野町にあるという徳川夢声さんの句碑を探しにいきました。

場所はある程度限定できていました。津和野大橋のたもとということです…


津和野町にはいって、当地に一番近いと思われる、多胡駐車場(有料、1日400円)に車をとめ、徒歩にて津和野大橋に向かいました。

ありました!すぐわかりました。場所は。

津和野 徳川夢声 山茶花句碑

山茶花の雨となりたる別れかな


と書いているはずですが…

津和野 徳川夢声 山茶花句碑UP


今や見えにくい状態です。
案内板も1/4が消えています…

徳川夢声 津和野 山茶花句碑 案内板


この句碑が建てられたのは、昭和33年(1958年)4月16日とのことです。当日の津和野での除幕式の際、徳川夢声氏はこう語ったというのです。


「津和野の士族屋敷には、たいてい山茶花があり、私の母の家(天野家)にもあって、山茶花の咲くころにはそのことを思い出す。先年ちょうど山茶花咲く津和野へ来て、花草会(津和野の文化グループ)の人々に見送られて津和野を出発したが、その時、その別れにふさわしく秋雨が降っていた。それを思い出してこの句を作ったもので、山茶花は郷愁をそそるものであり、また母への思慕でもある」


引用元 徳川夢聲百句 松岡ひでたか 平成24年5月28日発行


亡き母に対する思慕…母の死への思慕。亡くなった母への思い、死んでしまった母への悲しみと恋しく思うことと一般的な解釈になっているんですが…


私は違うような気がします。それでは、あまりに陳腐です。

徳川夢声さんについて詳しい方がいるなら…この句が二重構造であることを知っているのでしょう。


ですが、

「二重構造・・・ならば次は、伊澤欄奢がらみだろう!?」


と予想する人…マニアですねい(素晴らしい♪)…でもでも、それも違います。


山茶花、母への思慕。


・・・山茶花、そして徳川夢声さんの思い、記憶に入りこめばわかります。


このあたりは次回にしましょう。(いつかは決めてませんが…)


【おまけ画像…追記2015.4.30】

津和野大橋にたどり着いたとき、ちょうど、山口線の上り列車が見えました。

津和野の徳川夢声さんの句碑と山口線のキハのオレンジ

キハ系の車両です。暗いオレンジ色、朱色、旧国鉄色。
都会に住んでいる益田市出身の方なら、「なつかしいのう・・・」って思うかもしれませんが、山口線、山陰本線ではバリバリの現役です♪

益田市で徳川夢声生誕地と夢声作詞「益田音頭」の楽譜を尋ねたら

益田市郷土の三偉人の一人「徳川夢声

以前、このサイトで、益田小学校の敷地内にある「徳川夢声生誕地」案内板を取り上げています。


「徳川夢声生誕地」案内板があるならば…


「徳川夢声生誕地」案内板があるならば、その近くには、徳川夢声生誕地の正確な場所を示す碑とか立札のひとつはあってもよさそうなのですが…

地元の人、数名に尋ねても「さぁ、わからんのう?」といった応えばかりでござあました。


濱田研吾氏の書籍『徳川夢声と出会った』(晶文社 発行:2003年12月25日)

徳川夢声と出会った 濱田研吾


ならば、

「もしかしたらその辺(あたり)のことが記載されているのでは?」
という期待を持っていました。

濱田研吾氏の『徳川夢声と出会った』には、

益田市立益田小学校の校庭に面した空地のあたりが生家跡とされているが、表札も立っておらず偲ぶよすがとてない。(31ページ)

と記されていました。

益田市のこのあたりは昭和58(1983)年7月豪雨による大水害。実際、洪水でぐちゃぐちゃになった場所の時(当時、私は益高生)を思い出せば(夢声さんが生まれた家が)分からなくなるのもあたりまえなんだよなぁ…と改めて、己の郷土益田市の歴史認識、思慮の不足を反省いたしました。


「徳川夢声生誕地」を確定することに意味(価値)があるのか?


そもそも、「徳川夢声生誕地」を確定することに本質的な意味(価値)があるのだろうか?
という醒めた気持ちにもなってきました。

(似たような思いが、益田市の歴史に絡む、柿本人麿(柿本人麻呂)の存在にもあるのですが)

そのあたりは、(論じると長くなりそうなので)別の投稿にいたしませう。


じゃが!! 「徳川夢声生誕地」を知っているお方が益田市におった!!


益田市の「徳川夢声生誕地」を確認することなど、よく考えてみればそれほど価値はないのう…

と、気持ちは整理されていました。でも、やはり知りたいものなんです。(性分というやつなんでせうか。ハハハハ♪)

本日、益田市の益田歴史民俗資料館の館長様から貴重な情報をいただきました♪


きっかけは、濱田研吾氏の書籍『徳川夢声と出会った』を持ち出してからでした。


「濱田さんの本にもあったんですが…徳川夢声さんが生まれて場所は、水害やらで、今や確定はできんそうですネ…?」と尋ねたところ。

益田歴史民俗資料館の館長様から驚くべきお話が…


「えっ?、そんなことはないですよ!。徳川夢声の生家は、この(ここ、益田市歴史民俗資料館から徳川夢声の案内板を結ぶ直線)先をまっすぐ行って、(益田)小学校の遊具付近に、地元の小学生の通学路(里道)があります。それを進むと駐車場があって、その辺に、かつて長屋があって、そのうちの一件が「徳川夢声」がうまれた家なんですよ、…生まれただけですけどネ、ふふ」


「ハイハイ、生まれただけですよネ、ふふ」

生まれただけ…「ふふ」、共感がありました。

それについては後日お話ししませう。

とにかく、重要な手掛かり(情報)です。

で、早速、行って見ました・・・徳川夢声生誕地。

徳川夢声生誕地


ここかぁ、ここなんだ…なるほどなぁ~

ときたま通る自動車の音の切れ目の中で徳川夢声さんの産声が聞こえたような気がしました…

ふと見ると七尾山には靄が…

徳川夢声生誕地から七尾山


な~んて、おセンチな話しでは、かの夢声さんに怒られそうで…(ハハハはっは♪)


「徳川夢声作詞「益田音頭」の楽譜


すいません。かなり、ひっぱりましたw


で、徳川夢声作詞「益田音頭」の楽譜みつかりました。スイマセン(当然ですが)チラみせです。

すいません。これ、いわゆる「雑」に扱いたくない代物なんで…

徳川夢声 作詞 益田音頭 楽譜チラみせw

徳川夢声の句碑を見学したらば(益田市 辻の宮八幡宮境内)

益田市、縁(ゆかり)の歴史上の人物として、徳川夢声さんに魅力を感じた勢いで、郷土に関連したこともいろいろ調べています。

今回は益田市にある徳川夢声の句碑について…


とその前に!

徳川夢声作詞の「益田音頭」について、前回より少し詳しい情報を入手できました。
本記事最後にお知らせします。

早速ですが、「辻の宮八幡宮」境内にある「徳川夢声の句碑」です。

徳川夢声の句碑up

この句碑は益田市制15周年を記念として、昭和42年(1967年)12月9日に建立されたということです。


送り火のけむりに何を見つむるぞ


とかかれています。この句に関する解説資料には、いまだ出会えておらんので、

一体なぜこの場に「送り火」からはじまる句碑を設置したのか?


そもそも、「益田市制15周年記念」としての句碑として、なぜこの「句」が選ばれたのか…誰が選んだのか…夢声さんご本人が選んだのか…いろいろ疑問がわくわけです。(もう少しつっこんで調べてみたいもんです)


ちなみにこの句碑の前から益田市市街地を撮影してみたら、

徳川夢声の句碑から益田市市街地の風景


(電線がいっぱい横切っておりますが)
なんとなく、徳川夢声さん生誕地のあたりを向いているような気がしました♪

徳川夢声の句碑がある場所(辻の宮八幡宮境内)


徳川夢声の碑は益田市の栄町(になるのでしょうか?)「辻の宮八幡宮」境内にあるということは知っていました。しかし、「辻の宮八幡宮」境内の一体どこにあるのか?については情報がありませんでした。


わたくし事ですが…実は「辻の宮八幡宮」の境内に行くことは実に40年ぶりで、最後に行ったのは、吉田小学校時代。図工の時間で写生だったと思います。


そんな超久しぶりの場所なので…

「とりあえず、辻の宮八幡宮が間近に見えてきたけど、夢声さんの句碑は見つかるかのう?」

と不安でしたが、それはすぐに解決されました。


益田の本通り(今は死語でせうか!?)から辻の宮八幡宮の鳥居に向かう道を歩いていたら、手前に道標が。

徳川夢声の句碑への道標


近づくと金鳳花の花々をバックにして(文字は、かすれていますが)「徳川夢声の碑」と・・・

徳川夢声の句碑への道標up


これはわかりやすい!
ここの階段を上っていくと、すぐにありました。

徳川夢声の句碑


(辻の宮八幡宮の参拝した後でわかったのですが・・・)
鳥居から辻の宮八幡宮につながる石段からも夢声さんの句碑を案内する道標があります。ここから、下っていけば、句碑のある場所に着きます。(…が、石段途中からのルートは遠回りになりますね)


徳川夢声作詞「益田音頭」に関する若干の情報追加


さて、話は前回の投稿のつづき

徳川夢声作詞「益田音頭」に関する追加情報です。


レコードがあるようです。(益田市内に現存するかは不明です・・・が、いくらなんでも益田市制15周年記念で作成したもんですけェ・・・益田市役所にはあるでしょう♪)

そのスペックがわかる資料を、本日、益田市立図書館の女性職員の方が見つけ出してくれました。
(忙しいなか、本当にありがとうございました♪)

その資料(実は、徳川夢声作詞「益田音頭」の歌詞のコピーだったのですが)、とある方による、
以下のメモ書き(鉛筆書き)があったのです。(※このメモ書きがリソースです。)

S37.4.13 夢声講演会で発表

※五月みどり。松下真也 唄
コロンビア合唱団
コロンビアオーケストラ
三味線
振付 花柳寿二郎


以上がメモの内容です。レコードのジャケットかレーベルに記載されていたものかと思われます。

五月みどり。松下真也の歌手違いで2バージョンあるようです。…これは益田市立歴史民俗資料館の職員さんから聞きました。

花柳寿二郎…振付師として有名なかたなのでしょうか?ネットで調べてみたら、「幸福はあの星の下に」1956年2月5日公開 振付 をご担当された方のようです。


以上、徳川夢声作詞「益田音頭」に関する若干の情報追加でございます。

徳川夢声 句碑ss

益田市には2つの益田音頭がある

明後日(2015年4月19日)は益田市の最大級の祭の一つ…「益田まつり」の日。

昨日図書館入口で、今年バージョンの「益田まつり」のポスターを見ました。
いやぁ~「益田まつり」…すごく立派なポスターですネ♪
益田まつり実行委員会さんの「気合」が感じとれます。

58回益田まつりポスター


実は、私、現在、住まいが益田市の(「元町」から)「高津」に移ったので、帰郷してから一度も「益田まつり」を見に行ったことがありません。高津地区ですからねぇ(ハハハ!


ですが、昭和の記憶なんですが…「益田まつり」は(私にとって)益田市の行事の中で、大の楽しみの一つでした。

(ちなみに、昭和時代の「益田市」での大の楽しみ行事…その他についていいますと、「益田市の商店街(今は消滅したけど)土曜夜市」「高津川河口の水郷祭」と「高津の八朔」でございます。ほんとに楽しかったなぁ~♪)


昭和の頃の「益田まつり」…当日、早朝には「のろし」(…大きな音のでるやつ)を聞くと何だか無性にワクワクしてきたのを覚えています。


余談ですが、昭和のころは、「益田まつり」当日は、日中にも何発も「のろし」…大きな音のでるやつが打ち上げられまして、そいつには仕掛けがあって、巨大な「日の丸の旗」・・・それを、一度だけ鹵獲したことがあるのですが、旗は紙製で、日の丸国旗、四辺の、下の二隅には鉛の錘がついていました。

日の丸国旗が益田市の上空を漂っていく光景の記憶は今でも、何故か、とてもなつかしいですのう。


益田市には2種類の益田音頭がある…



さて、今日の話題。

益田市には2種類の益田音頭がある…

「益田まつり」といえば、テーマソング(?)は「益田音頭」


昭和の時代には、益田まつりの日には大音響で、当時の益田市の中心市街地(今は閑散としていますが)


「市民学習センター」…否!、
「石西県民文化センター」…否!


実は昭和時代には「益田市民体育館」というのがありまして、それと、「益田市商工会議所」の間の広い道路が「益田まつり」のメイン会場でした。

昭和時代…40年代から50年代の「益田まつり」当日は、超大音響の「益田音頭」が一日中鳴り響いていました。
その音量のレベルはすさまじく、まつりが終わった夜も「益田音頭」が耳鳴っていました…これも、いい思い出です♪

で、現在の「益田まつり」の「益田音頭」の歌詞ってコレ↓ですか?

新益田音頭 歌詞


もしかしたら現、平成益田市では歌詞にマイナーチェンジとかあるかもしれませんが…(たとえば「連理松」とか)、でもネットで調べたんですが、、、基本はコレ↑ですよね。


でっ、実は、この益田音頭、正しい名称は「益田音頭


はい、そうです♪「新」益田音頭があるならば、

当然、元祖?的「益田音頭」があるはずです!・・・というか、ございますんです(ハハハッ)


しかも、それは、益田市で選出された郷土の三偉人の一人、徳川夢声さんが作詞したものなんですね。

徳川夢声さん作詞の「益田音頭」の内容は・・・

益田音頭 徳川夢声作詞

この「益田音頭」の歌詞は、昭和37年、益田市の市制10周年を記念して徳川夢声さんに依頼し作詞してもらったそうです。

徳川夢声さん…益田市のお生まれの郷土の三偉人の一人と益田市では言っていますが、益田市名誉市民ではありません。

なぜなら!?…というか、とうに(既に)、

東京都名誉都民(昭和40年)、勲四等旭日小綬章(昭和42年)という称号をお持ちですけぇ。


【次回予告!!】

次回の徳川夢声さんに関する投稿はというと、夢声さん作詞「益田音頭」の「謎」についてです!!


今回の画像。「新益田音頭」、徳川夢声作詞「益田音頭」ともに引用は


書籍名:益田
発行:益田市観光協会
発行日:昭和56(1981)年12月10日

です。…

徳川夢声の幼少期の生い立ちと柿本神社での画像

先日、益田市立図書館で偶然、『石見益田人名風土記』という本をみつけました。

『石見益田人名風土記』…この本は著者は高橋正喜氏、昭和42年(1967)7月25日に「益田郷土史会」により発行されたものです。益田市の歴史に関わる様々な人物に関して記述されています。


その中の一人に「徳川夢声(とくがわむせい)」の名がありました。

以下その内容(引用)です。

徳川夢声(とくがわむせい) 

名は駿雄と言い明治27年4月13日益田折戸住警察官福原庄次郎(下本郷福原家生まれ)の子として出生し4才の時、津和野へ移住し間もなく上京した夢声は、始め無声映画の活動弁士として世に出た。

而し映画の世界も急速に進んで、「トーキー」の時代となるや映画俳優に転向した。

更に、テレビラジオの名漫談家として名声を博し其の間5度益田に帰省しているが、偶々昭和40年11月3日筆者等が、郷土史家の矢富熊一郎先生の顕彰碑を柿本神社の境内へ建立し、除幕式へ招待せられ、夢声は祝辞を述べている。

尚夢声は昭和36年当時益田市制10周年記念行事の一つとして、市長伊藤正男の依頼を受け秀作

「石見益田は日本一よ」

の益田音頭を作詞している。

【石見益田人名風土記】 180~181ページより引用


この本での「徳川夢声」に関する内容と、

以前投稿した

⇒徳川夢声のCD。そして生誕地の案内板を発見(益田市本町)

で掲載した「徳川夢声生誕地」という案内板(平成18年3月 益田市教育委員会 設置)

徳川夢声 生誕地

を比較してみると、内容に違いがみられました。


『石見益田人名風土記』では

明治27年4月13日益田折戸住警察官福原庄次郎(下本郷福原家生まれ)の子として出生し4才の時、津和野へ移住し間もなく上京した夢声は・・・

一方、「徳川夢声生誕地」の案内板には、
一才で母の郷里津和野町へ転居。三歳で祖母、母と共に上京。


津和野へ移住(転居)、そして上京した時期がともに異なります。
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※追記(2015年4月14日)
徳川夢声の幼少期の生い立ちについては、
濱田研吾氏の書籍『徳川夢声と出会った』(晶文社 発行:2003年12月25日)で調べてみました。

今回参照したのは書籍『徳川夢声と出会った』の最後にある「資料編 徳川夢声略年譜」です。
本件と該当する部分を抜粋引用します。


・1894(明治27)年
 4月13日、島根県美濃郡益田町イ85に生まれる。本名、福原駿雄。

・1895(明治28)年
 父庄次郎の転勤により津和野へ転居。

・1897(明治30)年 3歳
 母ナミと祖母フサに連れられ上京。

以上、『徳川夢声に出会った』(晶文社 2003年12月)「資料編 徳川夢声略年譜」188ページより

この徳川夢声略年譜によれば、津和野に転勤したのは、1歳の時となります。父庄次郎の転勤により津和野へ転居とあります。(因みに、益田市教育委員会による案内板には「母の郷里津和野へ転居」とあります。)

上京したのは1897(明治30)年 徳川夢声が3歳の時となっていています。

※以上、2015年4月14日の追記です。
書籍『徳川夢声と出会った』の「資料編 徳川夢声略年譜」を当該情報を見る限りでは、益田市教育委員会による案内板の内容は合致しています。
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また、益田市に帰郷した回数についても、「石見益田人名風土記」では「テレビラジオの名漫談家として名声を博し其の間5度益田に帰省しているが・・・」とあり、「徳川夢声生誕地」の案内板には、「上京後、益田へも度々帰郷した。」

「石見益田人名風土記」では「5度」とはっきりとした回数の記載がされています。

※この内容に違いに、(個人的に)特に大きな問題を感じているわけではありませんが、一応、比較資料になればと思い投稿しています。

益田市で撮影された徳川夢声


また、『石見益田人名風土記』では「徳川夢声氏」が写っている、とても珍しい画像1枚がありました。

柿本神社での徳川夢声19651103


この画像(写真)は徳川夢声氏が昭和40年11月3日、矢富熊一郎先生の顕彰碑の建立、除幕式の際、祝辞を述べている光景です。(矢富熊一郎先生の顕彰碑は高津柿本神社入口の鳥居を向かって左側奥にあります。)

高津柿本神社で撮影されたようですネ。柿本人麿(柿本人麻呂)が描かれた掛け軸が中央に、その右に徳川夢声氏の姿が見えます。

益田市内で撮影された徳川夢声氏の写真(画像)はとても珍しいのでは?と思いました。

それ以上に、あの徳川夢声氏がいったいどんな祝辞を述べられたのか?…その内容は?そしてどんな語り口調だったのか?そして「間」はどんな塩梅で・・・とても興味がわきます。

徳川夢声のCD。そして生誕地の案内板を発見(益田市本町)

皆さんは徳川夢声(とくがわ むせい)という人物をご存知でしょうか?


私は、益田市の「郷土の偉人」として名前は知っておりましたが、徳川夢声さんがなぜ益田市の偉人なのか?

その理由については昨年、この本(CD付)のCDを聞くまで知りませんでした。

徳川夢声の小説と漫談これ一冊で

徳川夢声…本名は福原駿雄(明治27年(1894)~昭和46年(1971))は益田市生まれの芸能文化人という肩書です。

芸能文化人・・・?」って方もいるでしょうから、ここは益田市立歴史民俗資料館のパンフレット「郷土の偉人」・・・益田が誇る三偉人の足跡から引用してみます。

益田の三偉人 パンフ



芸能文化人 徳川夢声
活動写真弁士。テレビ草創期にラジオ・テレビ・映画等で幅広く活動しました。(明治27-昭和46年)

益田市立歴史民俗資料館のパンフレットより引用


わかります?徳川夢声さんのコト・・・w

徳川夢声さん益田の生まれではありますが、生後1年くらいで、益田の地から離れています。


で、話は最初の…「この本(CD付)のCDを聞くまで知りませんでした。」に戻ります。


この本とは、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で(清流出版 (2009年11月))


私がこの本を購入したのは2013年5月(なぜ購入したのかは記憶にありません)


で、初めて、付録(?)のCDを聞いたのは昨年(2014年)・・・季節の記憶はありませんが、とても退屈だった、とある日の深夜。気まぐれでこの『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』のCDを聞きました。


徳川夢声SP版音源集


CD最初は、二十五時   オデオン(昭和5年)

~柱時計が時を告げる音~

いわゆるレトロな音楽(ノイズ満載)を交え、徳川夢声の語り。

「二十五時」は超短編の集合体。柱時計の時を告げる音が話の区切りを意味します。


冒頭の話。

とある酔っ払いがこのレトロな音楽を大きな声で鼻唄う…

それを警官らしき者が高圧的に尋ねる…職務質問。


「こらこら、こら! 今頃なんという馬鹿な声を聞かせておる!何時と思っておる? うんっ!? 住所は何処か? 職業は何をしておる! 月収は幾らとっとる!?」

という世相…当時の警官の権力風を感じる頭ごなしの口調。
「月収は幾らとっとる!?」というある面、脈絡のない質問。

話中、話しと話しの間にある、巧雑入り混じる微妙な「間」


ついつい聞き入ってしまう…これぞ夢声の「間」


まさに夢声の「間ジック」


とまぁ、こればかりは実際にCD聞いてもらう方が理解しやすいでしょうネw。

※文字を読むことが苦手!ってかたでも、CDにはこれだけの作品が収録されています。

徳川夢声の小説と漫談これ一冊で 裏

★漫談 全7話 (CD)
二十五時  オデオン(昭和5年)
新四谷怪談  コロムビア(戦前)
名人会・大藪先生の話  テイチク(昭和17年)
押しが第一  ポリドール(戦前)
湧き立つ感謝   コロムビア(戦前)
日本伝承童話「こぶとり」   ポリドール(昭和29年)
日本伝承童話「ぶんぶく茶釜」  ポリドール(昭和29年)

益田市立図書館には本書は2冊あり、そのうち1冊は貸出可だということなので、興味のある方は、まずは、借りて聴いてみては?・・・購入するにしても、漫談CDだけでも(本書の価格からして、)十分な価値はありますよ♪


ところで、
益田市には「徳川夢声生誕地」という説明板があります。
場所は、益田市立歴史民俗資料館の前の道を挟んで向こう側、益田小学校の敷地内に設置されています。

徳川夢声 生誕地


かの「益田音頭」の作詞は徳川夢声さんだったようです♪

史跡再訪 岸静江国治の墓を訪ねて(益田市指定文化財)

先日(2014年2月)、旧益田方面に用があり、せっかくなので御無沙汰している「岸静江国治のお墓」を拝んで帰ろうと、多田方面へ。益田市の指定文化財「史跡 岸静江国治のお墓」…約4年ぶりです。

この地については、約4年前に一度投稿しています。
(当時、利用していいたブログサービスが今年2014年の1月に閉鎖ということで、本ブログでは2014年01月28日に若干の再編集をし再投稿しています。)
⇒「石州口の戦い」岸静江国治を偲ぶ(益田市 多田町)【2009年10月撮影】

まずは当地の2014年2月20日の様子。あえて、「縦撮り」してみました。
岸静江国治の墓 益田市指定文化財2014年2月撮影

新しくなった説明版「史跡 岸静江国治の墓」


上記リンク先の4年前の画像と比較して、構図的には大きな変化はありませんが、平成22年3月に説明板がリニューアルされたようです。
岸静江国治の墓 益田市指定文化財 説明板


4年前の投稿画像にある以前の説明板にくらべ、岸静江国治に関する情報は増えたように感じます。と言って、前説明板にも、独特の趣もあり、甲乙を付ける気もありませんし(そもそもそんな立場でもありませんw)

濱田藩岸静江墓

今回、新しくなった説明板で、新たに学んだ事…見えたコトがありました。それは…
「史跡再訪 岸静江国治の墓を訪ねて(益田市指定文化財)」続きを読む

東山魁夷「朝明けの潮」の制作過程から学ぶ

 皇居の新宮殿、長和殿内の広いホール「南溜」から、緩やかな階段をあがった正面にあるという「波の間(なみのま)」。「波の間」に描かれた「朝明けの潮」は、縦約3.8メートル,横約14.3メートルの大壁画。
 
 制作期間は昭和41年1月から着手、43年4月完成の2年強の長期にわたるものです。

 
 前回、前々回と、東山魁夷の大作「朝明けの潮」と地元益田市、小浜海岸「猫島」の関係について述べてきました。今回にて一旦完結という内容とさせていただきます。(その分、今回は長めの文になります。どうか、ご了承くださいませ。)

 
 前回御紹介した 集英社の(大型本)「美しい日本   東山魁夷自選画文集 (3) (1996/6/28)」には、「朝明けの潮」に関し、図版特集というテーマで東山魁夷氏、ご本人による本作品制作の過程の思い…「メイキング」に関する記述があります。

 さらに、東山魁夷自選画文集 (3)には、本作品の完成に至るまで、スケッチ~下図(色分け下図)等33枚の素材が掲載されています。

 東山魁夷 画伯が日本画家の巨匠たる所以は、 画伯の作品が、我々の無意識にまで働きかけるような…原型的訴求力に、絶対的なものがあるからと思っています。
 
 さらに、制作過程(着想・構想から実際の行動プロセス)の文章として記録。それらは我が国の知的、芸術的、教育学的にも、この上ない価値・資産と言えるでしょう。


「美しい日本 東山魁夷自選画文集 (3) 」には東山魁夷 画伯が「朝明けの潮」の作成にいたるまでのプロセスが、具体的に記述されています。

 この壁画の御下命を受けた時、最初は何を描くかということであった。
 日本を象徴するものは何であろうか。以前、東宮御所に「日月四季図」と題して、日月や雲や虹、山の頂きを配して四季の空を描いた私は、こんどはそれと全く趣の異なった題材でなければならないと思った。その時、海の構想が浮かんだ。

 私は、まず海を見にでかけた。山口県の日本海側にある青海島、島根半島、鳥取県の網代、浦富、兵庫県へ入って浜坂、京都府の丹後半島、福井県の東尋坊、石川県の能登半島というふうに、北は男鹿半島から、北海道の襟裳岬、能取岬にまで及んだ。太平洋の犬吠埼、房総南端の野島岬、紀伊半島の大王岬、潮岬、白浜というふうに波と岩を求めて歩いた。

※東山魁夷 画伯は「朝明けの潮」の制作の準備段階で、日本国内の有名な海岸を視察・体験された事がわかります。

あれれっ!?

益田市の戸田小浜海岸は出てきませんネ!?(この件については最後に)

続けます、

 波や岩の写生をしたり、ただ、見ている時もあった。私はもともとこの壁画を写実的な作品にするつもりはなかった。象徴的であり、装飾的な表現を初めから必要としていたが、そのためには、自分で納得のゆくまで海や岩を見ないではいられなかった。

おわかりでしょうか?

前回の投稿にて東山魁夷 「朝明けの潮」について発見!

実は「朝明けの潮」は実存する特定の「海岸」では無い!!


と言い切った根拠はここにあります。

「朝明けの潮」の海の色は群青(ぐんじょう)では無く、緑青。

黒ではなく、薄茶の岩石由来の白砂の浜でみられる海の色です。

益田市 戸田小浜海岸 猫島 東山魁夷


東山魁夷 画伯の一つの絵画作品には、いろいろな思いが込められているわけですが…そういった思いとか意図を知らなくても。

「ああ、これこれ、この海の雰囲気!! 緑青…エメラルド」

季節に関係なく、優しさ、安心感がある海の色です。
海が好きな日本人なら、潜在意識に訴える「母形ともいえる海」が「朝明けの潮」には感じられるのです。

朝明けの潮 緑青 益田市小浜海岸


そして、この色の選択こそ、皇居の宮殿という我が国の特別な場所に最適であったのだと私は確信しています。


では、最後になりましたが、益田市の戸田小浜海岸とのかかわりについて…この件については、「美しい日本 東山魁夷自選画文集 (3) 」に於ける「朝明けの潮」の記述にはありません。ですが…

「東山魁夷「朝明けの潮」の制作過程から学ぶ」続きを読む

東山魁夷「朝明けの潮」と「猫島」の関係:小浜海岸にて

私が、益田市の小浜海岸で『「朝明けの潮」と猫島-皇居とつながる小浜の海』という案内看板を目にした時、(前回も語りましたが)東山魁夷 画伯の大作「朝明けの潮」は「山口県長門市の青海島瀬叢(せむら)をモチーフにしたもの」という情報をネット上で確認しております。

宮内庁のHPより引用させていただきますと

波の間(なみのま)は,広さ248平方メートル(約75坪)で,熊本県産市房杉や静岡県産松などが使われています。 この壁画は,山口県の青海島の岩をモデルにしたといわれる東山魁夷作の「朝明けの潮」で,縦約3.8メートル,横約14.3メートルの大壁画です。
という御説明がありまして、益田市の小浜海岸で『「朝明けの潮」と猫島-皇居とつながる小浜の海という話は根拠の薄いものではないか?という疑念を持っていました。

しかしながら、『「朝明けの潮」と猫島-皇居とつながる小浜の海』…これほどの大胆なタイトル。

この案内板を作成された方がこの地におられたとするならば、それ相応の心構えもあるはずです。故に、その根拠所以を知りたいと思いできる限りの検証を試みました。(本音では、当時、当地での東山魁夷氏の画像があれば…と思っています。)


猫島 益田市 小浜海岸 東山魁夷  朝明けの潮


(前回の投稿「猫島の不思議な看板『「朝明けの潮」と猫島』益田市の小浜海岸風景 」でも申し上げましたが)、先日、たまたま、益田市立図書館を訪れた際、レファレンスサービスの若い男性の方の御尽力により、これまでの疑念を払拭する書籍(大型本)に出会う事ができました。

その書籍の名は 美しい日本 東山魁夷 自選画文集 (3) (1996/6/28)集英社…東山魁夷自選画文集では、東山魁夷氏の著名な作品の作成に至るまでの経緯が、数々のスケッチの掲載と貴重なコメントも記載されています。

 
この書籍にて私の中にあった、『「朝明けの潮」と猫島-皇居とつながる小浜の海』に纏わる複雑な思いは、綺麗に払拭されました。

 いろいろな事をただ1記事にて掲載することは、失礼極まりないと思いますので、今回は序として

東山魁夷画伯の 「朝明けの潮」について発見!
 実は「朝明けの潮」は実存する特定の「海岸」では無い!!ということ。

ご存知の方は、至極当たり前のことでしょうが、あえて直接的に発表させていただきました。

次回資料として取り上げるのは…

東山魁夷自選画文集(全5巻)大型本 集英社
 
旅への誘い   東山魁夷自選画文集 (1) (1996/3/26)
欧州巡遊        東山魁夷自選画文集 (2) (1996/5/24)
美しい日本      東山魁夷自選画文集 (3) (1996/6/28)
水墨の魅力     東山魁夷自選画文集 (4) (1996/7/26)
自然への讃歌 東山魁夷自選画文集 (5) (1996/8/23)

の中の『美しい日本   東山魁夷自選画文集 (3)』  となります。

猫島の不思議な看板『「朝明けの潮」と猫島』益田市の小浜海岸風景

益田市の猫島ってご存知ですか!?


益田市の小浜地区の海岸に「猫島」とよばれる岩があります。


先日(2014年2月16日)午前中、冬の季節、山陰地方としては、久しぶりに青空だったので撮影に向かいました。

ところで、益田市の皆さん!小浜の「猫島」って知ってましたか?


私が「猫島」の存在を知ったのは、今から1~2年位前、季節は夏、東京からの客人から「綺麗な日本海を眺めてみたい!!」というリクエストがあったことが発端でした。


東京の客人には、人形峠の「駕籠立て」から始まり⇒小浜の海岸・持石海岸というルートで案内しました。

人形峠の「駕籠立て」にて一通りの蘊蓄を述べて、いよいよ、小浜の海岸…砂浜の中に岩がある風景。

益田市の小浜地区の猫島です。防波堤に沿った道を、猫島の真後ろから向かって左側に数メートル進んでみるとこんな感じに見えます。(と、淡々と語っていますが、このアングル情報は重要ですヨ)

猫島 益田市小浜海岸

猫島…分かりましたか?(陽の光をあびながら気持ち良さそうに眠っている「猫の後ろ姿」という感じに私は解釈しています。)

MAP・場所(航空写真):猫島 益田市小浜



そして、ここに『「朝明けの潮」と猫島‐皇居とつながる小浜の海‐』という不思議なタイトルの案内看板が立っているのです。本当に驚くべき事柄が書かれていました。
「猫島の不思議な看板『「朝明けの潮」と猫島』益田市の小浜海岸風景」続きを読む