益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

益田市の歴史的エピソード

蟠竜湖から鍋島山八幡宮に移った「水神社」(益田市 高津)

以前の投稿で、益田市の蟠竜湖には江戸時代に「水神社」があったということをお伝えしました。

(高津町誌(復刻版)によると明和四(1767)年に建てられたということです)

※参照⇒蟠竜湖には昔、神社があった(益田市 蟠竜湖 水神社跡)

今回は、この蟠竜湖の「水神社」のその後について。

高津町誌での水神社に関する記述を今一度、見てみましょう。


水神社跡

所在地 高津町大字高津字水神堂


史実の大要及考證資料

唯心居士の疏通せる沖田灌漑用水の水源は沖田山の背後なる湖水 蟠龍湖より流出せる者にして、此の湖水の守護を祈願する為に津和野藩主の命により小祠を建て、明和四亥年來神主兩人立会ひ毎年祭事を行へり。

祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて此所より湖水全部を観眺すべく風光幽閑なる位置なりしが、神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。

現状 松林繁茂せる平坦面積二十坪許りの山地あり。


(高津町誌(復刻版)107~108ページ)


「神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。」とあります。


この鍋島山八幡宮…当初はどこにあるのかさっぱりわかりませんでした。

ですが、地元の先輩に詳しい方がいて、その場所について知ることができました。

場所は、高津柿本神社のすぐそば…ただし、現在その場所には明治39年に「水神社」が合祀されたという「鍋島山八幡宮」はありません。

「鍋島山八幡宮」…せめて神社跡でも!!と思ったのですが…

実は、「鍋島山八幡宮」があった山そのものが現在は存在しないのです!!


昭和40年前後に「鍋島山八幡宮」があった山は(土木工事にて、人の手で)崩されたということなんです。


「えっ、高津柿本神社の傍に、もう一つ別な山があったん?」


と不思議に思う人もいるでしょう。

益田市の高津公民館にて、昭和3年(1928年)頃の高津川の写真に、「鍋島山八幡宮」が写っているものを見つけました。

昭和3年頃 鍋山

※高津公民館さんには許可をいただき掲載しています。


「えっ!?、どこ?」と思われる人もいるでしょうから「矢印」つけておきます。

昭和3年頃 鍋山 解説


具体的な場所は、現在の高津柿本神社の下にある広い駐車場あたりということです。益田市高津公民館(高津地区振興センター)と高津柿本神社の間に小山があったんですネ…

ちなみに上の写真を撮影したであろう場所(近く)で撮影した今の画像がコチラ↓
(現地は草ぼうぼうなので、河原までいけませんでした。堤防からの撮影ですのでカメラアングルはかなり異なります)

現在の高津柿本神社がある山と周辺(益田市高津)



「鍋島山八幡宮」があった「鍋島山(鍋山)」の姿はありません。


「じゃあ、今、『鍋島山八幡宮』はどこにあるのか?」

高津柿本神社の楼門前から向かって右側にすすんだところに移築されています。


鍋島山八幡宮 益田市高津


鍋島山八幡宮2 益田市高津


「(鍋島山)八幡宮が見つかったってことは、水神社もここ↑に?」


という疑問が浮かんでくるのですが…今のところわかりません。


ですが…最近になって、益田市高津の高津川沿いに独立して「水神社」の祠があることが分かりました。


次回は、高津川沿いにある「水神社」の祠についてです♪
※つづきはコチラ!!(↓)
⇒鍋島山八幡宮にあった「水神社」と「川丁の水神社」(益田市 高津)

場所:(鍋島山)八幡宮

平等院鳳凰堂と美濃郡役所と鹿足郡役所(益田市と津和野町)

益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎の建物が、かなりそっくりな事が気になり、早速、電話で問い合わせをしました。


その結果、以下の事がわかりました。

まずは益田市立歴史民俗資料館さんより


・益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎の建物は同じ建築士による設計(デザイン)である。
・2つの建物は、よく似ているが瓦の色が違ったような気がする。


次に、津和野町役場津和野庁舎さんより


・津和野町役場津和野庁舎はもともと、「鹿足郡役所」として大正8年(1919年)に建てられた。
平等院鳳凰堂をイメージして設計(デザイン)されている。


以下、2つの建物について、わかったことをもう少し詳しくまとめてみました。


1、2つの建物は兄弟であった!?

益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎の建物が、「そっくり」に見えたのは、同じ建築士による設計(デザイン)であることによることがわかりました。

また、2つの建物の目的はどちらも当初「郡役所」。

・益田市立歴史民俗資料館は「美濃郡役所
・津和野町役場津和野庁舎は「鹿足郡役所


ここで、建造された年を確認してみると、


「美濃郡役所」は大正10年(1921年)

益田市立歴史民俗資料館(旧 美濃郡役所)



「鹿足郡役所」は大正8年(1919年)

津和野町役場 津和野庁舎 (旧 鹿足郡役場)


つまり、「鹿足郡役所(津和野町役場津和野庁舎)」は「美濃郡役所(益田市立歴史民俗資料館)」の2年前に建てられた…つまり「兄貴」的な建造物であることがわかりました!!2つの建物は兄弟的存在なのです。


2、平等院鳳凰堂をイメージして設計(デザイン)されている。

この情報は、津和野庁舎の方から教えていただきました…正直、最初はびっくりしましたんですが…


「ナルホド!平等院鳳凰堂が『原型』だったのか…どうりで、貫禄・威厳を感じさせるわけだ♪」

益田市立歴史民俗資料館、そして今回の津和野町役場津和野庁舎の建物に感じていた「貫禄、威厳のパワー」の謎が解けました。


郷土石見地方の2つの役所、大正デモクラシーの時代の役所のコンセプト…「平等


ちなみに、


世界遺産 平等院の「よくあるご質問」に以下のように記されておりました。

Q3. 平等という言葉がなぜついているのですか?
 
仏の救済が平等ということを意味します。
そして、仏の平等を光で顕わします。 平等院は光のお寺なのです。


世界遺産 平等院 公式ホームページより
⇒http://www.byodoin.or.jp/ja/index.html

※トップページ内の下部にある「よくあるご質問」のリンク先に↑本文の記載があります。


3、瓦の色が異なる。

今回、益田市立歴史民俗資料館への問い合わせした内容。


「先日、津和野に行ったのですが、殿町通りにあった「津和野町役場津和野庁舎」が「益田市歴史民俗資料館」とそっくりだったのですが…何かご存知ですか?」

歴史民俗資料館の方:「ハイハイ、あれは、当資料館を建てた時の建築士と同じ方がデザインされたそうですよ♪


「やっ、やはりそうでしたか?…同じ建築士、ナルホド……細かく見れば違いがわかるのですが、ホント、殆んど同じなんでびっくりしました!!」


歴史民俗資料館の方:「ですよね~♪ 確か、瓦の色が少し違ったような気がしましたが…


「なんですと!瓦の色が違う!それは全く気が付きませんでした♪」

さすが、日々誠実にお勤めになってる方だからこそわかるんでしょうネ。

瓦の色が違う…素晴らしい、実に私好みのマニアックな情報、ありがとうございました♪


※前回の投稿の画像からもわかりますが、よくみると窓の形状や玄関のステップ(段差)等々、2つの建物は完全一致ではありません。

※ご参照⇒益田市立歴史民俗資料館と激似の建物を津和野町で発見


平等院鳳凰堂が『原型』といえども、2つの建物は、全く同じではない。(かなり似ているけど)

それぞれ、個性(違い)を主張するものがある…

大正時代の風…匂いを感じました。


益田市立歴史民俗資料館と激似の建物を津和野町で発見

益田市立歴史民俗資料館は平成8年(1996年)に国登録有形文化財に認定されている建物で、益田市の貴重な歴史的建造物の一つです。

益田市歴史民俗資料館 左前面斜め下


今回のお話しは、先日(4月29日)津和野町での出来事が発端です。(実は30年ぶりでした…津和野の町内を「歩いた」のは…)


殿町通りを津和野駅方面から南に向かって歩いていると、古い立派な門(大岡家老門)が見えてきました。

「あれ?あの門の奥に、どっかで見たことある建物がある!?…
というか、益田市のあの建物と激似(そっくり)ではないか!?」


と不思議な気持ちになりました。

大岡家老門の奥に見えた、その建物の姿がこれ!↓

津和野町役場 津和野庁舎 大岡家老門


この建物の正面玄関を見てみると…

津和野町役場 津和野庁舎 玄関


津和野町役場津和野庁舎であることがわかりました。

津和野町役場 津和野庁舎 玄関up


(本建物内には「津和野町教育委員会」「津和野町福祉事務所」も一緒になっているようです。・・・「つわみん」という、ご当地キャラがあるようです。~センス、いいね♪)

話しを戻しましょう・・・庁舎手前の庭から、撮影した画像です。

津和野町役場 津和野庁舎


それでは、確認してみましょう♪

益田市立歴史民俗資料館をほぼ同じ角度からの画像がコチラ↓

益田市歴史民俗資料館 比較用


どうですか?益田市立歴史民俗資料館と激似(そっくり)ですよネ!?

早速、中に入って、お尋ねしようと思ったのですが、この日は4月29日で祝日、昭和の日、当然お休みでした。


益田市に戻ってからも、この件が、とても気になったので、昨日、益田市立歴史民俗資料館と津和野町役場津和野庁舎に電話して尋ねてみました。

結果、益田市と津和野町の2つの建物について、とても興味深いお話を聞くことができたのです♪

その内容とは!?

つづきは、コチラ↓↓↓
⇒平等院鳳凰堂と美濃郡役所と鹿足郡役所(益田市と津和野町)

【おまけ…大岡家老門】

津和野町 大岡家老門

徳川夢声、益田市の「送り火のけむりに何を見つむるぞ」の謎

益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある徳川夢声の句碑

(このサイトでこの句碑について取り上げるのは3回目になりますネ)

徳川夢声の句碑 益田市


この句碑は「益田市制15周年記念」として昭和42年(1967年)12月9日に建てられたそうです。


送り火のけむりに何を見つむるぞ


この句について私は以前に、「益田市制15周年記念として如何なものか?」といった思いを綴っています。

今回は、徳川夢声さんのこの句「送り火のけむりに何を見つむるぞ」についての句に関する「情報」です。


なぜ?送り火のけむりに何を見つむるぞ


徳川夢声さんは、ご自身作の俳句について、作句年月日とちょっとしたメモの記録を残しています。

それらをまとめたのが、「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))です。

txt

調べてみたらわかったのですが…実は、この句は連句(3連句)の初句だったのです!!


・送火の煙に何を見つむるぞ
・燈籠の房も焔も揺るるなり
・燈籠の数多並びてまたたける


時は、昭和16年(1941年)7月15日。
以下は、その時の徳川夢声さんご自身のメモ(記録)(「雑記・雑俳二十五年」より)


田園調布欅雨荘で渋沢氏令息追悼句会が催された。

この日始めて連句なるものを試みる。

上欄三句とも当夜嘱目吟、各句とも点数を稼ぎ、第三位であった。

(この翌日第二次近衛内閣総辞職。)

「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))93ページ

※嘱目吟(しょくもくぎん)…実際に景(色)を見ながら創作した句

※「送火の煙に何を見つむるぞ」は益田市の当該句碑「送り火のけむりに何を見つむるぞ」と表記に違いがありますが、「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))ママの記載です)


渋沢という人とは…


送り火のけむりに何を見つむるぞの句碑にある句は渋沢氏令息追悼句会でのものであることがわかりました。


渋沢氏というのは渋沢秀雄(しぶさわ ひでお)。かの渋沢栄一氏の4男にあたります。
「いとう句会」でのペンネームは「渋亭」 (ちなみに徳川夢声さんは「夢諦軒」)

連句(3連句)の初句「送火の煙に何を見つむるぞ」と他2句


・送火の煙に何を見つむるぞ
・燈籠の房も焔も揺るるなり
・燈籠の数多並びてまたたける


「送火の煙に何を見つむるぞ」が「益田市制15周年記念の句碑」になりえたのか…


という疑問もさることながら、そもそも、私、連句の一部を抜き出して「句碑」とかにした理由がいまいちわかりません。(私はあまり好きではないですね、連句は(この場合)3つそろって意味をなすからです。)


また、誰が選んだかについて、もし徳川夢声さんがこの「句」を選んだという事であれば…それはそれで、謎めいたものがあります。


はて?徳川夢声さんは昭和42年(1967年)12月9日の当句碑の除幕式に何を思っていたのか…


【追記】
「雑記・雑俳二十五年」(オリオン社出版部 (1959))は益田市立図書館に一冊あります。ご興味があるお方はどうぞ(但し、禁帯出ですけど…

【おまけ情報&画像】

益田市誌 (昭和50年12月20日発行 )上巻910ページに当句碑の画像がありました。

徳川夢声句碑 益田市「辻の宮八幡宮」境内 益田市誌


現在の益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある徳川夢声の句碑は実はリニューアルされてたんですね。

当初は、タイル張りだったようです。


ここで発見!!

この句碑、よく見ると向かって右に「由緒書き」のようなものが見えます。

徳川夢声句碑 益田市「辻の宮八幡宮」 益田市誌 赤丸


「これ、現在の(リニューアルされた)句碑にもあったっけ?」


…実は、先日、辻の宮八幡宮境内にある徳川夢声の句碑の見学の際、そこまで気が回っていませんでした。


「しまった…わしとしたことが…何がかいてあるんじゃろうか?・・・GWは、辻の宮八幡宮へ徳川夢声の句碑を再見学せにゃやれんのう…」

徳川夢声さんの益田市と津和野町の2つの句碑に思う

益田市、縁(ゆかり)の歴史上の人物の一人「徳川夢声」。

徳川夢声さんが郷土、石見地方に残した句碑は2つ。

一つは、生誕地、我ら益田市の「辻の宮八幡宮」境内にある


送り火のけむりに何を見つむるぞ 

徳川夢声の句碑up


昭和42年(1967年)12月9日に建てられたそうです。

送り火のけむりに何を見つむるぞ


はて?「益田市制15周年記念」としての記念的かつ象徴的なはずの碑に「送り火…」


なにか深い意味があるのでせうか?・・・「益田市制15周年記念」としてのこの句の位置づけは、言及することは避けてw…この句についてはわかったことがありました。

コチラのページでお伝えしています♪
⇒徳川夢声、益田市の「送り火のけむりに何を見つむるぞ」の謎


そして、


もう一つは津和野町にあるという句碑。


昨日(2015年4月29日)私は、津和野町にあるという徳川夢声さんの句碑を探しにいきました。

場所はある程度限定できていました。津和野大橋のたもとということです…


津和野町にはいって、当地に一番近いと思われる、多胡駐車場(有料、1日400円)に車をとめ、徒歩にて津和野大橋に向かいました。

ありました!すぐわかりました。場所は。

津和野 徳川夢声 山茶花句碑

山茶花の雨となりたる別れかな


と書いているはずですが…

津和野 徳川夢声 山茶花句碑UP


今や見えにくい状態です。
案内板も1/4が消えています…

徳川夢声 津和野 山茶花句碑 案内板


この句碑が建てられたのは、昭和33年(1958年)4月16日とのことです。当日の津和野での除幕式の際、徳川夢声氏はこう語ったというのです。


「津和野の士族屋敷には、たいてい山茶花があり、私の母の家(天野家)にもあって、山茶花の咲くころにはそのことを思い出す。先年ちょうど山茶花咲く津和野へ来て、花草会(津和野の文化グループ)の人々に見送られて津和野を出発したが、その時、その別れにふさわしく秋雨が降っていた。それを思い出してこの句を作ったもので、山茶花は郷愁をそそるものであり、また母への思慕でもある」


引用元 徳川夢聲百句 松岡ひでたか 平成24年5月28日発行


亡き母に対する思慕…母の死への思慕。亡くなった母への思い、死んでしまった母への悲しみと恋しく思うことと一般的な解釈になっているんですが…


私は違うような気がします。それでは、あまりに陳腐です。

徳川夢声さんについて詳しい方がいるなら…この句が二重構造であることを知っているのでしょう。


ですが、

「二重構造・・・ならば次は、伊澤欄奢がらみだろう!?」


と予想する人…マニアですねい(素晴らしい♪)…でもでも、それも違います。


山茶花、母への思慕。


・・・山茶花、そして徳川夢声さんの思い、記憶に入りこめばわかります。


このあたりは次回にしましょう。(いつかは決めてませんが…)


【おまけ画像…追記2015.4.30】

津和野大橋にたどり着いたとき、ちょうど、山口線の上り列車が見えました。

津和野の徳川夢声さんの句碑と山口線のキハのオレンジ

キハ系の車両です。暗いオレンジ色、朱色、旧国鉄色。
都会に住んでいる益田市出身の方なら、「なつかしいのう・・・」って思うかもしれませんが、山口線、山陰本線ではバリバリの現役です♪

徳川夢声の句碑を見学したらば(益田市 辻の宮八幡宮境内)

益田市、縁(ゆかり)の歴史上の人物として、徳川夢声さんに魅力を感じた勢いで、郷土に関連したこともいろいろ調べています。

今回は益田市にある徳川夢声の句碑について…


とその前に!

徳川夢声作詞の「益田音頭」について、前回より少し詳しい情報を入手できました。
本記事最後にお知らせします。

早速ですが、「辻の宮八幡宮」境内にある「徳川夢声の句碑」です。

徳川夢声の句碑up

この句碑は益田市制15周年を記念として、昭和42年(1967年)12月9日に建立されたということです。


送り火のけむりに何を見つむるぞ


とかかれています。この句に関する解説資料には、いまだ出会えておらんので、

一体なぜこの場に「送り火」からはじまる句碑を設置したのか?


そもそも、「益田市制15周年記念」としての句碑として、なぜこの「句」が選ばれたのか…誰が選んだのか…夢声さんご本人が選んだのか…いろいろ疑問がわくわけです。(もう少しつっこんで調べてみたいもんです)


ちなみにこの句碑の前から益田市市街地を撮影してみたら、

徳川夢声の句碑から益田市市街地の風景


(電線がいっぱい横切っておりますが)
なんとなく、徳川夢声さん生誕地のあたりを向いているような気がしました♪

徳川夢声の句碑がある場所(辻の宮八幡宮境内)


徳川夢声の碑は益田市の栄町(になるのでしょうか?)「辻の宮八幡宮」境内にあるということは知っていました。しかし、「辻の宮八幡宮」境内の一体どこにあるのか?については情報がありませんでした。


わたくし事ですが…実は「辻の宮八幡宮」の境内に行くことは実に40年ぶりで、最後に行ったのは、吉田小学校時代。図工の時間で写生だったと思います。


そんな超久しぶりの場所なので…

「とりあえず、辻の宮八幡宮が間近に見えてきたけど、夢声さんの句碑は見つかるかのう?」

と不安でしたが、それはすぐに解決されました。


益田の本通り(今は死語でせうか!?)から辻の宮八幡宮の鳥居に向かう道を歩いていたら、手前に道標が。

徳川夢声の句碑への道標


近づくと金鳳花の花々をバックにして(文字は、かすれていますが)「徳川夢声の碑」と・・・

徳川夢声の句碑への道標up


これはわかりやすい!
ここの階段を上っていくと、すぐにありました。

徳川夢声の句碑


(辻の宮八幡宮の参拝した後でわかったのですが・・・)
鳥居から辻の宮八幡宮につながる石段からも夢声さんの句碑を案内する道標があります。ここから、下っていけば、句碑のある場所に着きます。(…が、石段途中からのルートは遠回りになりますね)


徳川夢声作詞「益田音頭」に関する若干の情報追加


さて、話は前回の投稿のつづき

徳川夢声作詞「益田音頭」に関する追加情報です。


レコードがあるようです。(益田市内に現存するかは不明です・・・が、いくらなんでも益田市制15周年記念で作成したもんですけェ・・・益田市役所にはあるでしょう♪)

そのスペックがわかる資料を、本日、益田市立図書館の女性職員の方が見つけ出してくれました。
(忙しいなか、本当にありがとうございました♪)

その資料(実は、徳川夢声作詞「益田音頭」の歌詞のコピーだったのですが)、とある方による、
以下のメモ書き(鉛筆書き)があったのです。(※このメモ書きがリソースです。)

S37.4.13 夢声講演会で発表

※五月みどり。松下真也 唄
コロンビア合唱団
コロンビアオーケストラ
三味線
振付 花柳寿二郎


以上がメモの内容です。レコードのジャケットかレーベルに記載されていたものかと思われます。

五月みどり。松下真也の歌手違いで2バージョンあるようです。…これは益田市立歴史民俗資料館の職員さんから聞きました。

花柳寿二郎…振付師として有名なかたなのでしょうか?ネットで調べてみたら、「幸福はあの星の下に」1956年2月5日公開 振付 をご担当された方のようです。


以上、徳川夢声作詞「益田音頭」に関する若干の情報追加でございます。

徳川夢声 句碑ss

益田市には2つの益田音頭がある

明後日(2015年4月19日)は益田市の最大級の祭の一つ…「益田まつり」の日。

昨日図書館入口で、今年バージョンの「益田まつり」のポスターを見ました。
いやぁ~「益田まつり」…すごく立派なポスターですネ♪
益田まつり実行委員会さんの「気合」が感じとれます。

58回益田まつりポスター


実は、私、現在、住まいが益田市の(「元町」から)「高津」に移ったので、帰郷してから一度も「益田まつり」を見に行ったことがありません。高津地区ですからねぇ(ハハハ!


ですが、昭和の記憶なんですが…「益田まつり」は(私にとって)益田市の行事の中で、大の楽しみの一つでした。

(ちなみに、昭和時代の「益田市」での大の楽しみ行事…その他についていいますと、「益田市の商店街(今は消滅したけど)土曜夜市」「高津川河口の水郷祭」と「高津の八朔」でございます。ほんとに楽しかったなぁ~♪)


昭和の頃の「益田まつり」…当日、早朝には「のろし」(…大きな音のでるやつ)を聞くと何だか無性にワクワクしてきたのを覚えています。


余談ですが、昭和のころは、「益田まつり」当日は、日中にも何発も「のろし」…大きな音のでるやつが打ち上げられまして、そいつには仕掛けがあって、巨大な「日の丸の旗」・・・それを、一度だけ鹵獲したことがあるのですが、旗は紙製で、日の丸国旗、四辺の、下の二隅には鉛の錘がついていました。

日の丸国旗が益田市の上空を漂っていく光景の記憶は今でも、何故か、とてもなつかしいですのう。


益田市には2種類の益田音頭がある…



さて、今日の話題。

益田市には2種類の益田音頭がある…

「益田まつり」といえば、テーマソング(?)は「益田音頭」


昭和の時代には、益田まつりの日には大音響で、当時の益田市の中心市街地(今は閑散としていますが)


「市民学習センター」…否!、
「石西県民文化センター」…否!


実は昭和時代には「益田市民体育館」というのがありまして、それと、「益田市商工会議所」の間の広い道路が「益田まつり」のメイン会場でした。

昭和時代…40年代から50年代の「益田まつり」当日は、超大音響の「益田音頭」が一日中鳴り響いていました。
その音量のレベルはすさまじく、まつりが終わった夜も「益田音頭」が耳鳴っていました…これも、いい思い出です♪

で、現在の「益田まつり」の「益田音頭」の歌詞ってコレ↓ですか?

新益田音頭 歌詞


もしかしたら現、平成益田市では歌詞にマイナーチェンジとかあるかもしれませんが…(たとえば「連理松」とか)、でもネットで調べたんですが、、、基本はコレ↑ですよね。


でっ、実は、この益田音頭、正しい名称は「益田音頭


はい、そうです♪「新」益田音頭があるならば、

当然、元祖?的「益田音頭」があるはずです!・・・というか、ございますんです(ハハハッ)


しかも、それは、益田市で選出された郷土の三偉人の一人、徳川夢声さんが作詞したものなんですね。

徳川夢声さん作詞の「益田音頭」の内容は・・・

益田音頭 徳川夢声作詞

この「益田音頭」の歌詞は、昭和37年、益田市の市制10周年を記念して徳川夢声さんに依頼し作詞してもらったそうです。

徳川夢声さん…益田市のお生まれの郷土の三偉人の一人と益田市では言っていますが、益田市名誉市民ではありません。

なぜなら!?…というか、とうに(既に)、

東京都名誉都民(昭和40年)、勲四等旭日小綬章(昭和42年)という称号をお持ちですけぇ。


【次回予告!!】

次回の徳川夢声さんに関する投稿はというと、夢声さん作詞「益田音頭」の「謎」についてです!!


今回の画像。「新益田音頭」、徳川夢声作詞「益田音頭」ともに引用は


書籍名:益田
発行:益田市観光協会
発行日:昭和56(1981)年12月10日

です。…

徳川夢声の幼少期の生い立ちと柿本神社での画像

先日、益田市立図書館で偶然、『石見益田人名風土記』という本をみつけました。

『石見益田人名風土記』…この本は著者は高橋正喜氏、昭和42年(1967)7月25日に「益田郷土史会」により発行されたものです。益田市の歴史に関わる様々な人物に関して記述されています。


その中の一人に「徳川夢声(とくがわむせい)」の名がありました。

以下その内容(引用)です。

徳川夢声(とくがわむせい) 

名は駿雄と言い明治27年4月13日益田折戸住警察官福原庄次郎(下本郷福原家生まれ)の子として出生し4才の時、津和野へ移住し間もなく上京した夢声は、始め無声映画の活動弁士として世に出た。

而し映画の世界も急速に進んで、「トーキー」の時代となるや映画俳優に転向した。

更に、テレビラジオの名漫談家として名声を博し其の間5度益田に帰省しているが、偶々昭和40年11月3日筆者等が、郷土史家の矢富熊一郎先生の顕彰碑を柿本神社の境内へ建立し、除幕式へ招待せられ、夢声は祝辞を述べている。

尚夢声は昭和36年当時益田市制10周年記念行事の一つとして、市長伊藤正男の依頼を受け秀作

「石見益田は日本一よ」

の益田音頭を作詞している。

【石見益田人名風土記】 180~181ページより引用


この本での「徳川夢声」に関する内容と、

以前投稿した

⇒徳川夢声のCD。そして生誕地の案内板を発見(益田市本町)

で掲載した「徳川夢声生誕地」という案内板(平成18年3月 益田市教育委員会 設置)

徳川夢声 生誕地

を比較してみると、内容に違いがみられました。


『石見益田人名風土記』では

明治27年4月13日益田折戸住警察官福原庄次郎(下本郷福原家生まれ)の子として出生し4才の時、津和野へ移住し間もなく上京した夢声は・・・

一方、「徳川夢声生誕地」の案内板には、
一才で母の郷里津和野町へ転居。三歳で祖母、母と共に上京。


津和野へ移住(転居)、そして上京した時期がともに異なります。
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※追記(2015年4月14日)
徳川夢声の幼少期の生い立ちについては、
濱田研吾氏の書籍『徳川夢声と出会った』(晶文社 発行:2003年12月25日)で調べてみました。

今回参照したのは書籍『徳川夢声と出会った』の最後にある「資料編 徳川夢声略年譜」です。
本件と該当する部分を抜粋引用します。


・1894(明治27)年
 4月13日、島根県美濃郡益田町イ85に生まれる。本名、福原駿雄。

・1895(明治28)年
 父庄次郎の転勤により津和野へ転居。

・1897(明治30)年 3歳
 母ナミと祖母フサに連れられ上京。

以上、『徳川夢声に出会った』(晶文社 2003年12月)「資料編 徳川夢声略年譜」188ページより

この徳川夢声略年譜によれば、津和野に転勤したのは、1歳の時となります。父庄次郎の転勤により津和野へ転居とあります。(因みに、益田市教育委員会による案内板には「母の郷里津和野へ転居」とあります。)

上京したのは1897(明治30)年 徳川夢声が3歳の時となっていています。

※以上、2015年4月14日の追記です。
書籍『徳川夢声と出会った』の「資料編 徳川夢声略年譜」を当該情報を見る限りでは、益田市教育委員会による案内板の内容は合致しています。
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また、益田市に帰郷した回数についても、「石見益田人名風土記」では「テレビラジオの名漫談家として名声を博し其の間5度益田に帰省しているが・・・」とあり、「徳川夢声生誕地」の案内板には、「上京後、益田へも度々帰郷した。」

「石見益田人名風土記」では「5度」とはっきりとした回数の記載がされています。

※この内容に違いに、(個人的に)特に大きな問題を感じているわけではありませんが、一応、比較資料になればと思い投稿しています。

益田市で撮影された徳川夢声


また、『石見益田人名風土記』では「徳川夢声氏」が写っている、とても珍しい画像1枚がありました。

柿本神社での徳川夢声19651103


この画像(写真)は徳川夢声氏が昭和40年11月3日、矢富熊一郎先生の顕彰碑の建立、除幕式の際、祝辞を述べている光景です。(矢富熊一郎先生の顕彰碑は高津柿本神社入口の鳥居を向かって左側奥にあります。)

高津柿本神社で撮影されたようですネ。柿本人麿(柿本人麻呂)が描かれた掛け軸が中央に、その右に徳川夢声氏の姿が見えます。

益田市内で撮影された徳川夢声氏の写真(画像)はとても珍しいのでは?と思いました。

それ以上に、あの徳川夢声氏がいったいどんな祝辞を述べられたのか?…その内容は?そしてどんな語り口調だったのか?そして「間」はどんな塩梅で・・・とても興味がわきます。

水仙の里と唐音水仙公園と益田十景の関係について(益田市鎌手地区の風景考)


本日(2015年2月14日)再び「唐音水仙公園」(益田市鎌手地区)に行ってきました。

「エッ!?日曜日(2月8日)も行ってきたんじゃないか?『唐音水仙公園』?しかも(水仙の花の)ピークは過ぎとると…言っておったじゃないか?」

唐音の蛇岩がある唐音海岸 2015年2月14日撮影


そっ、そのとおりです(汗)。

水仙s


でも、今回の日本水仙の画像いい感じでしょ!?(天候は晴れ…青空多し 気温は10℃位)

唐音水仙公園の水仙3

実は、前回も今回も「とある目的」があっったのです。それは土田海岸の沖2㎞にあるという「伊勢島」の確認(撮影)でした。(「伊勢島」については近々投稿させていただきます。)


その前に、今回の投稿タイトル

水仙の里≪かまて≫と唐音水仙公園と益田十景の関係について(益田市鎌手地区の風景考)

ですが、私、この中の3つの名称


・水仙の里
・唐音水仙公園
・益田十景

について本日、違いがわかりました。


まず…水仙の里と唐音水仙公園について

「水仙の里」は、かまて(益田市鎌手地区)のブランディングのためのキャッチコピーのようです。
私は6年前に現在の「唐音水仙公園」に訪れた時、この場所が「水仙の里」という(いっしゅの)公園名だと思っていました。でもそうではないようです。

そのことがわかる第1の資料がこのパンフレット

水仙の里かまて唐音水仙公園パンフ


本日、唐音水仙公園で配布されていたものです。100円寄付しました♪


水仙の里≪かまて≫
唐音水仙公園


とあります。どうやら、鎌手そのものが「水仙の里」であり「唐音の蛇岩」近くの「唐音水仙公園」は「水仙の里」の部分であると読み取れるわけです。

次に、第2資料(画像)…伊勢島を撮影スポットを探していたらこの看板の存在に気づきました。

益田十景 鎌手のスイセンの里からみた高島


心に刻む 益田十景 鎌手のスイセンの里からみた高島とあります。

「なんだ!水仙の里ではないぞ!完全に間違えとるではないか…しかもちょっと長いし…」

「はい…」


でも、私が保有している益田十景の絵葉書集には

益田十景 水仙の里



「水仙の里」とありました…説明力不足!?

正式名称は「鎌手のスイセンの里からみた高島」として益田十景として取り上げられているようです。


益田十景の看板があった場所は、「唐音水仙公園」とは全く関係がない場所(土田海岸に向かう坂道途中)。


そして、益田十景である所以は「(実は)鎌手から(たぶん)水仙の花々ごしに見た「高島」の風景」とあるわけで…メインのキーワードは「高島」なんですネ♪

さて、これからコッソリ、コツコツ、過去投稿記事を修正しなければ…ヤレヤレw

高角橋は計画当初「 鉄筋コンクリート橋」ではなかった!?

平成23年度にJSCE土木学会の「選奨土木遺産」に認定された「高角橋」

この橋は、土木学会の視点による評価には(私も土木業界にいたので)なるほど!!
と感銘を受ける内容です。
※ご参照>>益田市の土木遺産 鉄筋コンクリートの橋「高角橋」(益田市 高津)

今回は、タイトルにもしましたが、高角橋の計画段階でのエピソード。

高角橋


益田市の高角橋は当初計画は「 鉄筋コンクリートの橋」ではなかった!?…超トリビア的話題です。
(実は、高津柿本神社についてディープに調べていたら偶然発見しました)


昭和13年9月1日発行の『高津町誌』の最後の最後に、その記述がありました。

第二節都市計画及び高角橋(785ページ)

(ニ)高角橋
大正十年、工費四万一千圓を投じて改架せられたる高角橋は、木橋にして腐朽甚だしきにつき、昭和十一年七月之を撤去し、約七十米下流に假橋を設けられたが、近々十三万圓の工費を以って新式の鐵橋を架設せらることゝなった。竣工の暁には一大偉觀を呈するであろうことが想像せられる。 
昭和13年9月1日発行の『高津町誌』(786ページより)

昭和13年頃は高角橋は「新式の鐵橋」でつくられる予定であったようです。

この件につて『益田市誌』をたよりに、高角橋の架設の記録をみると。

昭和十四年十月から工事に着手し、十七年十月には二三万円の巨費を投じて、鉄筋コンクリート・ローゼ桁、延長一九五m、有効幅員五mの近代的な頑丈な橋が完成した。

益田市誌 下巻 昭和53年6月30日発行(424ページより)

いかがでしょうか?「鉄橋」であろうが「鉄筋コンクリート」であろうが堅牢な橋ができたという結果では、何の問題は無いのです。…が!!

『高津町誌』では、近々十三万圓の工費
『益田市誌』では、二三万円の巨費

当初予算13万円⇒23万円…約1.8倍の工事費。

…私的には戦時中、時代的に「鉄」不足、コンクリートの養生のための工費、追加があっても、それを「可」とした時代背景があるのでは?と考えています。(現時点での考察はまだ浅いと思いますが…投稿しました)

失われた天然記念物「後山都茂屋のヤブツバキ」(益田市 美都町)

益田市には今はもう姿を見る事のできない天然記念物が「高津連理の松」の他に、もう一つあった事をご存知ですか?

それは、益田市美都町にあった「後山都茂屋(うしろやまつもや)のヤブツバキ」です。

「高津連理の松」は国の天然記念物でしたが、「後山都茂屋のヤブツバキ」は島根県指定天然記念物

「後山都茂屋のヤブツバキ」は平成16年12月17日に島根県指定文化財 天然記念物(第33号)に指定され、その7年後、平成23年4月枯死しました。

私は、2009年6月に一度だけ「後山都茂屋のヤブツバキ」の姿を見ています。車を止め、山道、徒歩で20分位の距離だった記憶があります。…私が最初で最後に見たの姿。(今から思えば貴重な画像となりました。)

後山都茂屋のヤブツバキ2009年6月 益田市 美都町
2009年6月撮影
確かに「巨木」ではありますが、既に、葉は枝の先端部にちらほらと…。通常、ツバキが生育するには、周囲が明るすぎていることにすぐに気づきました。ヤブツバキには異常…過酷な環境であったことがわかります。

後山都茂屋のヤブツバキ2009年6月撮影2
2009年6月撮影
現地には小屋があり。その外壁に、当時、このツバキが穿孔虫(ヨシブエナガキクイムシ等)の被害にあっているという事の現状と対策に関する説明が書かれた張り紙がありました。

後山都茂屋のヤブツバキ の状況説明
2009年6月撮影
ちなみに、「後山都茂屋のヤブツバキ」が元気だった頃の画像(PR用のパンフレットからの画像です。)

後山都茂屋のヤブツバキ パンフ 美都町


そして、平成23年4月。この「後山都茂屋のヤブツバキ」が枯死し根本から折れ、崩れるように倒れた状況を撮影した画像。(益田市のサイトにて公開されていました。)

益田市 後山都茂屋のヤブツバキ壊死


2009年6月はじめて見た時感じました。「後山都茂屋のヤブツバキ」は、その存在を目立たせるため(人為的に)周囲の雑木等は伐採され、まるで、「一本ツバキ」。・・・ツバキにとっては、厳しく、不自然な環境下にさらされたといえます。そして、このツバキが枯死した事を聞いた時、思いました。

天然記念物などと指定することが、場合によっては、かえって本来の寿命を削る場合があることを…。
「粛粛成理重理之後山 故巨勢列列 嘗都茂屋之藪椿  見世乍過思美須都成也」


【資料:後山都茂屋のヤブツバキについて(2009年6月に撮影)】

後山都茂屋のヤブツバキ



【資料】
島根県文化財保護審議会が平成16年11月9日に島根県教育委員会委員長に島根県指定文化財に天然記念物の新指定の答申をする際に作成された島根県文化財保護審議会委員の方(杦村氏)による文書(PDF)に、「全国ツバキの巨木一覧」という資料によると、

「全国ツバキの巨木一覧」(幹周3m 以上)

都道府県 所在地     名称           幹周  樹高   指定状況
岩手県   大船渡市   大船渡の三面椿      8.0m  10.0m 県指定
石川県   氷見市老谷  老谷の大ツバキ      3.0m  6.6m   県指定
京都府   与謝郡加悦町 滝のツバキ        3.2m  9.7m   県指定
島根県   美濃郡美都町 後山都茂屋のヤブツバキ  3.65m  7.0m   町指定


※地名、指定状況は平成16年11月9日当時のものです。

仮に幹周と高さをみて巨木度というなら間違いなく日本国内の3本の指にはいるヤブツバキといえるものでした。

※この資料は、「後山都茂屋のヤブツバキ」の存在(価値)が県の指定にして十分たるものがあることの「根拠」を示すためだったと思われます。

益田市で漂流エピソード。日本海の対馬海流が10人の命を救ったお話

時は昭和20年(1945年)舞台は益田市の鎌手地区にある大谷海岸。

終戦間近、昭和20年8月14日夜9時頃、高島付近を漂流していたアメリカ兵10人が地元大谷の漁船団に救助されたそうです。
益田市大谷海岸の奇跡


助けられたアメリカ兵はB29爆撃機の乗組員。同年8月8日に長崎県の壱岐島のあたりで墜落したということ。
益田市大谷海岸の奇跡のお話し

ちょっと、文章の部分を拡大してみましょう。

漂流アメリカ兵上陸地 益田市大谷海岸


なんとゴムボートで漂流6日間…対馬海流に乗り益田市沖まで流れついたというわけです


長崎県の沖になる壱岐(島)から益田市沖の高島まで、直線距離で約200キロメートル強。6日間ですから対馬海流にのって1日あたり30~40キロメートルをプカプカと益田市沖の高島まで。

下の画像は大谷海岸から見える高島(益田市)
益3891~1


まさに海流のおかげで命を救われた話です。


で、益田市の大谷はパニック状態になったとも。

しかも、翌日(昭和20年8月15日)正午には昭和天皇による玉音放送というタイミング、超デリケートな時期の出来事です。


でもさすが益田市の人々。多分漂流者アメリカ人10名への対応は「適切」だったのでしょう。なぜなら、
救助されたマーティン・ザップさんが60年たった平成17年の8月14日に、79歳のおからだでこの地、大谷を訪れたというではないですか(案内板参照)


そして、

「島根県益田市の人ニ救助サレテ ‘マーティン’ラッキー」と。(思ったことでしょう…多分)



MAP・場所:益田市マーティン エピソード看板


編集後記

益田市大谷海岸から

命を救われた彼ら米兵には当時の益田市の地に「まほろば」を感じたことでしょう♪(おっと!彼らアメリカ人だから「サンクチュアリ(sanctuary)」かな?)
画像:益田市大谷海岸から冬の益田市沿岸と夕日を撮影(撮影日:2009年1月6日)