益田市の益田地区広域クリーンセンターから、益田市の豊川方面に向かう坂を下る途中、進行方向左側に「小さな史跡案内板」があります。


その案内板には「古矢遺跡 この先500m→」と

「おっ!こんなところに遺跡が!?…古矢遺跡ってなんだ!?」


昼間でも薄暗い林の中を「古矢遺跡」案内板にしたがってひとり進むこと
約15分弱…(正直言って…周りの雰囲気とハミ(蝮)がいるのでは?怖かった)


これが古矢遺跡の全体像です。

古矢遺跡 益田市 豊川地区


(あとの資料にもありますが)この岩肌、畳3枚分の面積はありました。

画像では(残念ながら)ただの岩肌しか見えませんが、

古矢遺跡現地では、筆跡は極めて豊かで美しい文字のメッセージが彫りこまれていました。


先の世に
夢の深山乃岩の影
われたる後に逢ふ事もあれ


そばに設置されていた遺跡案内板

古矢遺跡 説明看板


(この案内板に書かれていたこと)


古矢遺跡

この遺跡の由来について、古くから地元の古老たちは、
その昔この地に移り住んだ平家の落武者があり、
今の一の谷から六の谷でしばらく生活していたが、
この地を去るにあたり、
大きい岩の平らな三畳分ぐらいの平らな岩肌に
矢をもって歌を彫刻したという。

先の世に
夢の深山乃岩の影
われたる後に逢ふ事もあれ

故に昔からこの地を古矢遺跡という。

彫り方は、点と線で幼稚であるが、筆跡は極めて豊かである。


この西谷川に沿って中世から西谷街道があり、
桜谷から益田に近く、多田、左ケ山、横田など長野荘へ通ずる主要道路であった。


近くに「鑢床」という野鑢跡が土地台帳に二か所ある。
戦いにあけくれた益田氏を支えた職人集団(鑢師、鍛冶師)が多く住んでいたといわれる。


この下流域の西谷口に益田氏が百七十五年にわたって在住した益田家居館あとがある。


平成四年十一月吉日
ふる里おこし推進協議会


先の世に
夢の深山乃岩の影
われたる後に逢ふ事もあれ

深山
は「みやま」とよむと語呂がいいですね。「みやま」の解釈、「われたる」の解釈を展開すれば…何か凄い言葉のカラクリがあるようです。

益田の先人のメッセージですが…現代の市民の方々、御解釈チャンレンジしてみてくださいまし。

【画像撮影日:2009年9月】