今回は寺坂吉右衛門に関する書籍「七人の吉右衛門(江下 博彦著 叢文社 (1999年5月) 」にて寺坂吉右衛門の寺坂吉右衛門と益田市に関する記述と(益田市)関連画像をピックアップしました。


そもそもこの本のタイトル「七人の吉右衛門」について…
著者:江下博彦 先生はなぜ「七人…」としたのか!?
以下、その答えとなる本著での記載内容です。

第一章 七人の吉右衛門 

はじめに
現在、寺坂吉右衛門の墓は全国に十七箇所ある。
このうち、寺坂の墓だけが建てられているのは次の七箇所である。
 臨済宗  曹渓寺 東京都港区南麻布
 曹洞宗  実相寺 宮城県仙台市泉区名坂
 臨済宗  慈眼寺 静岡県賀茂郡西伊豆町
 浄土真宗 信行庵 島根県益田市遠田町上遠田
 浄土宗  一念寺 福岡県八女市豊福
 曹洞宗  恵剣寺 長崎県福江市蕨町(久賀島)
      共同墓地 鹿児島県出水市美原長一八〇二番地(市有地)
 
 先ず驚くのは全国に散在しているということである。
 次に、一人の人間に墓がいくつあってもそれは構わない。
 しかし、分骨をしない限り、納骨堂は一つ(寺坂の場合は曹渓寺の墓)であり、あと はすべて供養墓の筈である。

 ところが寺坂の場合、筆者が現在までに調査したかぎりではすべて納骨墓となっている。
 すなわち、寺坂吉右衛門なる人物が七人いたということである。そこで、夫々の墓を検証していき、なぜにかかる現象が生じたのかを考察してみることにする。

※七人の吉右衛門(江下博彦著 叢文社 (1999年5月) P44~P45

ナルホド!↑そういう意味で「七人の吉右衛門」なのですネ!

でも…ちょっと気になるのは…)益田市の寺坂吉右衛門のお墓にあった史跡案内板「寺坂吉右衛門略伝」によると

知信(寺坂吉右衛門のこと)はその後相当年間、この地に住んだが後庵を 棄てて、江戸に帰り方々に暮らしていたが、延享四年十二月六日八十三歳の高令を以て麻布において、安らかに天命を終えた。墓は東京麻布の天現寺橋側の曹溪寺にある。
当地の墓は遺言により分骨したものである。

※益田市の遠田町の寺坂吉右衛門のお墓にある史跡案内板「寺坂吉右衛門略伝」より引用

と、はっきりと、「当地の墓は遺言により分骨したもの」である。と記されています…これが事実とすると…益田市の寺坂吉右衛門のお墓は「納骨墓」のようですネ。


 最後に、「七人の吉右衛門(江下博彦著 叢文社 (1999年5月) 」で掲載されていた益田市の寺坂吉右衛門のお墓の画像と先日撮影してきた当地の画像を載せておきます。

「七人の吉右衛門(江下博彦著 叢文社 (1999年5月) 」より転載した益田市の寺坂吉右衛門のお墓の画像

「七人の吉右衛門(江下博彦著 叢文社 (1999年5月) 」より転載


当地の現在の画像:撮影(2010年12月)

益田市 寺坂吉右衛門縁由の地 墓


「寺坂吉右衛門縁由の地」の文字、今はかなり薄くなっていたり…生垣がかなり大きくなっています。また、大体同じ場所から撮影したと思うのですが…左側に樹木が等々、年月を感じます。


今回の書籍「七人の吉右衛門」の本体の画像と著者について

七人の吉右衛門

購入もとのAmazon(アマゾン)で「七人の吉右衛門」で検索するとNo image…つまり(表紙)画像なしとなっていましたので、参考までに掲載しました。


さらに!Amazon(アマゾン)ルートで購入したこの書籍「七人の吉右衛門」…なんと…謹呈本!…著者 江下博彦 先生の直筆サインがありました(感涙!)

七人の吉右衛門」江下博彦先生サイン

「忠臣蔵―足で探った「争点検証」と「盲点発掘」。
寺坂吉右衛門は七人いた? 浅野長矩の乱心は「つかえの薬」の大量服用によるものか、といった忠臣蔵にまつわる争点を検証。様々な盲点を新たに発掘し、考察を加えた足で探った忠臣蔵研究。

ちなみに著者/江下博彦(えした ひろひこ)先生は大正7年6月5日生まれで旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学医学部・同大学院卒で医学博士・精神鑑定医というお方です。