「益田市で寺坂吉右衛門のお墓を発見!」の続きです。


益田市に「最後の忠臣蔵」寺坂吉右衛門(映画では「佐藤浩市」さんが熱演)の関連の話題に触れることができました。


早速、益田市で発見した「寺坂吉右衛門のお墓」の様子を掲載いたします。

まずは、「寺坂吉右衛門のお墓」全景です!

寺坂吉右衛門のお墓全体 益田市

画像中央の坂を上がったところに「寺坂吉右衛門のお墓」があります。

えっ!…「寺坂吉右衛門のお墓」かどうか証明できていない!?ってご指摘がありそうなので、
追加でもう一まい…上の画像のむかって左側にある説明看板の拡大画像

寺坂吉右衛門 略伝 益田市

益田市の遠田で発見した「寺坂吉右衛門のお墓」の全景

そして「寺坂吉右衛門略伝」の史跡案内板


では、益田市で発見したお墓の入口にあった史跡案内板の「寺坂吉右衛門略伝」全文です。


寺坂吉右衛門略伝

 
 寺坂信行は、赤穂四十七士の一人で吉右衛門と称した。
 
 元禄十五年十二月十四日、大石義雄の吉良氏復しゅうの傘下に集り、首尾よく主君の仇を打った。

 
 一同は、十六年二月四日幕府より切腹を命じられたが、吉右衛門は大石義雄の命を受け、亡君の奥方と、広島の浅野大学守良広と、豊岡藩の家老 石束氏に、それぞれ復しゅうの次第を報告に旅立った。

 
 江戸に帰って、幕府に殉死を訴えたが罪を許され、髪をそって仏門にはいり諸国遍歴の旅に出た。

 
 その後、石見の国に来て一時那珂郡黒松村に信行庵を営んでいたが、正徳年間遠田村字鍋田に来て、この地が仏教無縁の地であることをなげき一宇の草庵を作り、信行庵と名付けた。
 
 釋知信と称し、身分を秘して、真言大教化の基礎を開き併せて四十六士の冥福を祈った。

 
 知信はその後相当年間、この地に住んだが後庵を 棄てて、江戸に帰り方々に暮らしていたが、延享四年十二
月六日八十三歳の高令を以て麻布において、安らかに天命を終えた。墓は東京麻布の天現寺橋側の曹溪寺に
ある。 当地の墓は遺言により分骨したものである。

  
 辞世
     さくときは、花の数にも入らねども
               散るにおは同じ、山桜かな。


(念のため)現地の史跡案内板の拡大画像を掲載しておきます。

寺坂吉右衛門 略伝アップ


次回は、この史跡案内板の記述に関して気付いたことや補足したいことをとりあげます。

MAP・場所:益田市 遠田町の寺坂吉右衛門のお墓