先日、高津町誌(復刻版)をながめていたら、ちょっと気になる地図がありました。
それは、益田市の高津の蟠竜湖(ばんりゅう湖 蟠竜湖県立自然公園)に関する事なんですが…
益田市の蟠竜湖(ばんりゅう湖)に昔、神社があったようなんです。
場所は蟠竜湖のこの場所、「水神社跡」と記載されています。
蟠龍湖看取圖 高津町誌(復刻版)139ページ
※蟠竜湖の表記について…現在は蟠「竜」湖ですが、本来は蟠「龍」湖だったようです。(私見ですが、「龍」のほうが、この湖の形状などを視覚的にも表現できていますネ♪)
上の図を見ると、かつては、蟠竜湖の「上ノ湖」と「下ノ湖」は完全に分かれていたことがわかります。(今はつながっていますが)
「水神社跡」の位置は、蟠竜湖の上ノ湖と下ノ湖をわける尾根上にあるようです。
「水神」とは一体どんな神様!?
水神社…「水神」とはそもそも、どんな神様なのでしょうか?まずは(手始めですが)wikipedia(ウィキペディア)で調べてみました。水神(すいじん、みずがみ)は、水(主に淡水)に関する神の総称である。
日本の水神農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神は田の神と結びついた。田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多い。
また、水源地に祀られる水神(水分神(みくまりのかみ))は山の神とも結びついている。
農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場に水神が祀られる。水神の象徴として河童、蛇、龍などがあり、これらは水神の神使とされたり、神そのものとされたりする。
以上、wikipedia(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%A5%9E
より引用。
蟠竜湖にナゼ「水神社」があったのか?
では、蟠竜湖になぜ「水神社」があったのでしょうか?益田市の高津地区の歴史に詳しい方ならご存知でしょうけど…蟠竜湖って昔は貴重な灌漑用水源だったんです。
再び、高津町誌をみてみましょう。
蟠竜湖に「水神社」がおかれた経緯が記されていました。
水神社跡
所在地 高津町大字高津字水神堂
史実の大要及考證資料唯心居士の疏通せる沖田灌漑用水の水源は沖田山の背後なる湖水 蟠龍湖より流出せる者にして、此の湖水の守護を祈願する為に津和野藩主の命により小祠を建て、明和四亥年來神主兩人立会ひ毎年祭事を行へり。
祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて此所より湖水全部を観眺すべく風光幽閑なる位置なりしが、神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。
現状 松林繁茂せる平坦面積二十坪許りの山地あり。(高津町誌(復刻版)107~108ページ)
蟠竜湖に「水神社」がおかれたのは「明和四年」、西暦で1767年ですから…今から約250年前になります。
ちなみに沖田灌漑用水(沖田疏水)の完成は宝永(寳永)4年(1707年)といわれています。(※高津町誌(復刻版)134ページより)蟠竜湖の「水神社」は沖田灌漑用水(沖田疏水)が完成して60年後に建てられたことになります。
では、水神社は現在では、どこらあたりにあたるのでしょうか?…上記「高津町誌」の内容をもとに推測してみましょう。
水神社(跡)は現在では何処にあたるのか?
水神社(跡)は現在では何処にあたるのか?を検討する前に、まずは水神社を建てた理由についてふれておきましょう
・沖田灌漑用水の水源は沖田山の背後なる湖水 蟠龍湖より流出せる者にして、此の湖水の守護を祈願する為に津和野藩主の命により小祠を建て…
(本ページ、「水神とは?」で引用した)「日本の水神」での田の神、山の神の両方との結びつきも考えられます。
また蟠竜湖…その名にある竜…「龍」も水神の象徴(もしくは水神そのもの)として意味がありそうですね。
「水神社」があった場所については、
・「祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて…」(「中央築堤」?中央「尾根」ではないのでしょうか?)
※追記
中央築堤は「尾根」部のことではなく、上ノ湖と下ノ湖をわける箇所(現在「橋」がある場所あたり)を指しているようです。「なぜあの橋の部分が「築堤」と表現されているのか?」については、当地には「以前は、石組の暗渠で水路は通じていた。」という情報から理解することができました。
ここで「石組の暗渠」はいつごろ何のために施されたのか?…という新たな疑問が生じるわけですが…(現時点では根拠(史料)はありませんが)大雨での急激な下ノ湖の水位上昇から(蟠竜湖側の)間歩の入り口(入水口)を守る…「入水口でのオーバーフローを防ぐため」と考えられます。
また、一説に、蟠竜湖はそもそも「上ノ湖」「下ノ湖」は一体であり、中央の尾根に向けて地続きに(築堤)したという話もあります。
(この辺りの資史料がないため、真相はわかりませんが…)
・「此所より湖水全部を観眺すべく風光幽閑なる位置」
・「松林繁茂せる平坦面積二十坪(66㎡ ざっと約8m×8m)許りの山地あり」
となれば場所はある程度限定できそうで、(いろいろ調べた結果)どうやら島根県立万葉公園の管理センターの対岸で一番高い所となりそうです。
今日(2015年6月13日)実際に島根県立万葉公園の管理センター側からこの地点を撮影してきました。
水神社跡の面積は約二十坪…約66㎡ といいますから、目安として約8m×8m程度の平坦地となりますネ♪
今度探検してみませう♪
※蟠竜湖の水神社跡…見つけることができたら、投稿しますね。
蟠竜湖の「水神社」のその後は何処へ?
さて、蟠竜湖の「水神社」はその後どこへ行ったのでしょうか?そして今はどうなってるのでしょうか?
高津町誌(復刻版)のよると、
・神社整理に依り明治39年鍋島山八幡宮に合祀す。とあります。
明治39年は西暦で1906年。蟠竜湖の「水神社」は「明和四(1767)年から約140年後に鍋島山八幡宮に合祀されたといいます。
はて?「鍋島山八幡宮」ってどこにあるのでしょうか?
引き続き、鍋島山八幡宮についても調べてみることにしましょう。
つづきはコチラ!!⇒蟠竜湖から鍋島山八幡宮に移った「水神社」(益田市 高津)
【おまけ】
今日の島根県立万葉公園…管理センターあたりには「紫陽花(あじさい)」がとてもきれいでした。
万葉公園の紫陽花については…恒例の「花ナウ」で特集します♪
コメント
今は、上湖(うわみずうみ)と下湖(しもみずうみ)との境界は土木工事によって何の趣もないものになってしまいました。以前は、石組の暗渠で水路は通じていました。その上に土を被せて道が作られていました。その道を通って山に入るところに小さな祠があったように記憶しています。
おそらく神社整理をしても地元の人の素朴な信仰心が復活させたのではないでしょうか。あるいは、八幡宮に合祀した後も小祠は取り壊さずに残っていたのだと思います。この場所からも双方の湖は概ね見渡すことができます。(この種の文書特有の誇張表現でしょう。)
「祠は湖の中央築堤の上方鬱蒼たる松林中にありて…」というのは正しい記述ではないでしょうか。「風光幽閑なる位置」という雰囲気もありますしね・・・
鍋山八幡宮というのは、現在柿本神社の駐車場になっていますが、以前は小山があって、そこにあった神社です。今は、柿本神社の下手に移築されています。
私見ですが、「鍋島」というのは、万寿の津波で消失したといわれる「鴨島」の東側にあった島で、柿本神社が鴨島にあって、それが今の場所に移築された時に、鴨島の横にあるので鍋島ということにしたのであろうと思われます。(一説には、鴨島、鍋島の近くに柏島という小島もあったということです。柏島を記載した古地図を見たことがあります。)
まぁ、無謀な探検は中止された方がよいかと思いますが・・・
清麿様へ
コメントありがとうございます。
また大変詳しい情報ありがとうございます。
>山に入るところに小さな祠があったように記憶しています。…
例の場所のことですね…いわれてみれば確かに条件は満たしていますネ。
>中央築堤の上方…これ私、とらえ間違いをしていたようです。
>以前は、石組の暗渠で水路は通じていました。その上に土を被せて道が作られていました。
の部分が「築堤」部とするなら納得できます。(修正します)
>おそらく神社整理をしても地元の人の素朴な信仰心が復活させたのではないでしょうか。あるいは、八幡宮に合祀した後も小祠は取り壊さずに残っていたのだと思います。
なるほど!!、そしていい話ですね。
少なくとも、高津町誌ができたころは、沖田疏水は現役だったようなので水神信仰心は連続していたと考えられます。
水神社跡の場所については「高津町誌」ができた頃は確認できたようです。
距離を測定すると、蟠竜湖の「橋」から直線距離で300mぐらいですので、(起伏も考えて)片道約10分弱だと思います。スズメバチが心配なのですが、何度も通ったことがある場所なので、(とりあえず)確認は可能かと思います。
高津町誌に記載されている図面は、縮尺まで入っているので誤解されやすいようです。しかし、蟠龍湖の形状も含めて安土桃山時代の古地図レベルの精度なので図面上の見た目の距離は信用できません。
近年の改修までの上下の湖の間は2m程度程度でしたが、図面上ではかなり離れているので誤解されたいるようです。