益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

丸山銅山跡(旧安養寺跡)の現在の光景(益田市美都町)

県道314号線の丸山銅山跡入口の標識から歩くこと約10分。

当時は、道はぬかるんで、足もとが悪く、しかも、道は殆ど篠竹が覆いかぶさり前方がよく見えない。
かなり我慢が必要でしたが・・・そんな苦労の甲斐があって…こんな場所に辿りつきました。

丸山銅山跡 旧安養寺跡 益田市美都町


画像の下方に相当古そうな石垣があるのがわかりますか?

よくみると、

旧安養寺跡 案内


旧安養寺跡」と!(安養寺といえば、美都町山本の見事なしだれ桜があるお寺ですね。)

別の石垣からは太い木がニョキっとはえています。

旧安養寺跡 石垣と木 能登川


ここを流れている小川は能登川(の上流)かと思われます。


日本三代実録』によると丸山銅山が発見されたのは平安時代、元慶五年(881年)。

丸山銅山跡 旧安養寺跡2


かつて、ここにどんな建物があって、どんな人々が暮らしていたのでしょうか?
丸山銅山跡と旧安養寺跡とはどんな関係があるのでしょうか?


実は、丸山銅山の歴史につては、「益田市誌」に関連情報がありました。
次回は「益田市誌」で見つけた「丸山銅山の歴史」に関する内容についてです。


【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)


丸山銅山跡入口…丸山銅山の歴史(益田市 都茂鉱山跡)

益田市美都町の都茂鉱山跡探訪記
前回の昭和時代の「丸山坑入口」から、平安時代の「丸山銅山遺跡」へ。

場所は県道314号線を進み、野々峠を超え、少し下ったところにあります。

目印は、「丸山銅山跡入口」と書かれた杭(くい)看板。

丸山銅山跡入口 益田市


丸山銅山跡入口
この鉱山が発見されたのは平安時代881年ということです…

『※日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条」であるということがわかりました。

出処は、IMES…日本銀行金融研究所における論文(ディスカッション・ペーパー・シリーズ)です。

IMES Discussion Paper Series 2002-J-30

「古代銭貨に関する理化学的研究」「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組成分析(PDF)
>>http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/2002/02-J-30.pdf  齋藤努・高橋照彦・西川裕一

の19ページに記載されています。

参考:日本三代実録とは

日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、901年に成立。六国史の第六にあたる。

清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

さらに、丸山銅山はあの世界遺産の「石見銀山」(島根県大田市)とも歴史的に関係があるようです
※山陰中央新報さんのONLINE NEWSでの特集に

特集・石見銀山 : 石見銀山の営み(4)地の恵み 都茂銅山の技術者採掘か
佐毘売山神社を分霊 益田から祭神と移動 (2008年6月22日)
>>http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=504046180

という興味深い記事がありました。(コンパクトで且つわかりやすい記事です))

(尚、島根県の大田市の石見銀山と益田市の都茂銅山(あわせて、益田市の比礼振山(ひれふりやま)(権現山(ごんげんやま)ともいう)の麓にある佐昆賣山神社)との繋がりについては後日特集します。)


また益田市の美都町には銅精錬所跡となる「大年ノ元遺跡」というものがあるそうです。
「webさんいん」さんのサイトにあった山陰中央新報さんの記事
>>美都で銅精錬工房跡 大年ノ元遺跡 炉壁片や滓出土 中世の鉱山都市の可能性 (2002年5月23日)

(上記記事によると「大年ノ元遺跡」は全国的にも珍しく、貴重な遺跡だということです。)


さあ、いよいよ丸山銅山跡へ!

と思って進んでいたのですが!?…こんな状態でした。

丸山銅山跡への道


軽装では無理そうなので、この日はここまで。今回は丸山銅山の予備知識(知的入口)というの事に…

【補足文献資料】
九州大学総合研究博物館の以下の論文(PDF)
>>蛍光X線分析法の製錬津試料への適用(中西 哲也、吉川 竜太、井澤 英二)
九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No.2,149-156,2004

上記論文は、「九州大学地球上源システム工学部門に設置されている蛍光X線分析装置を使用して、銅鉱石・銅製錬津の分析に適用した際の技術的なポイントについて報告する。」ということが主たる論旨にあたります。
※注目すべきは、適用分析例として山口県の長登銅山と島根県益田市美都町の「都茂丸山銅山」の鉱石・製錬津・炉壁試料に関して紹介されています。


【画像は2009年04月撮影】

都茂鉱山跡探訪:昭和時代の丸山坑入口付近(益田市 都茂鉱山跡)

益田市の産業遺産ともいえそうな、美都町の都茂(つも)鉱山跡の探訪記

今回は、昭和時代の丸山坑の入口」付近までです。

県314道号線の都茂鉱山選鉱場が見える地点から、さらに1km強、上り坂の道路を進むと「手書きの道標」がありました。

都茂鉱山 丸山坑 道標


左の未舗装道路(車は進入できません)をいくと「丸山坑」入口だそうです。
(ちなみに匹見町方面の方向へ行くと「野々峠」となります。)


この道標の上方には…コンベア系の鉱山設備の残骸がありました。

都茂鉱山の丸山坑関連設備 残骸 益田市


上から見ると構造がわかります。三本の太いパイプ状のものが配置されています。どうやらベルトコンベアではないようですネ。

都茂鉱山設備の残骸 益田市


歩くこと数百メートル…これが「昭和時代の丸山坑の入口」です。

都茂鉱山 丸山坑 入口


昭和の全盛期のころは、銅と亜鉛の鉱石や、あの都茂鉱tsumoite:BiTe組成 (ビスマス原子とテルル原子の比が1:1の鉱物))が沢山採掘されたのでしょうネ。

倉庫らしき構築物の中には…奥には、巨大な(青色の)モートルの残骸がありました。

都茂鉱山 丸山抗関連施設 残骸 益田市


偶然ですが、都茂鉱山の当時の「岩石採取標識」を発見しました。(沢に向かって落ちていました)

都茂鉱山の「岩石採取標識」


手書きの標識ですね…事務所名からはじまり…採掘の方法:階段採掘法…業務管理者の名前、等々記載されています。

・都茂鉱(tsumoite)の発見
・全盛期を偲ばせる鉱山施設の残骸群
・手書きの道標や岩石採取標識

都茂鉱山跡には昭和時代の益田市の産業遺産・遺跡的なアイテムがゴロゴロありますネ。


【画像は2009年04月撮影】

都茂鉱山跡 その歴史と今の風景(益田市 美都町山本地区)

益田市の美都町山本地区には、「都茂鉱山跡」という場所があることをご存知ですか?

◆かつての都茂鉱山の特徴
島根県を代表する「スカルン鉱床」(※本ページ最下部に用語説明あり)。
都茂鉱(tsumoite)というビスマス(Bi)テルル(Te)から成る独特の鉱物が世界で初めて発見。
最盛期の1970年ごろには、銅と亜鉛の鉱石を日量600トンを処理。


都茂鉱山は最盛期である近現代史的には、「中外鉱業(株)によって操業。1979年以降、都茂鉱業(株)の経営にかわる。1987年都茂鉱業が操業休止。1988年閉山。」という経緯だそうですが、
当地の史料によると当鉱山内の「丸山鉱床」は「平安時代の836年に、すでに採掘が始まっていた」との事です。

※参照:島根地質百選選定委員会による「山陰・島根ジオサイト 地質百選」:都茂鉱山(益田市美都町山本)より

都茂鉱山(益田市美都町山本)
>>http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/tsumokozan.html


都茂鉱山跡(益田市美都町山本)の画像をいくつかピックアップしておきます。
(県道314号線を「野々峠」に向かって進んで(登って)います。)
◆まずは、旧鉱山事務所入り口付近

中外鉱業株式会社 都茂管理事務所


◆都茂鉱山選鉱場跡(美都町教育委員会による)

都茂鉱山選鉱場跡と「案内杭」(美都町教育委員会)


かつての都茂鉱山選鉱場…直径10数メートル以上はあるかと思われる大型の円形工場設備等が見えます。(少しわかりずらいですが…画像中央の錆びて赤茶けた設備。)

都茂鉱山選鉱場跡


さらに、採掘石を移送させたと思われる「コンベア設備」の一部も残っていました。

都茂鉱山選鉱場 コンベア設備


このコンベア設備、以前はこの県道をまたぐ形で反対側の斜面にも続いていたようです。(道の反対側の斜面(法面)の雑木林の中にもコンベア設備の残骸がありました。)


とても静かな場所に、巨大な鉱山施設の残骸群…。


都茂鉱山の最盛期を知る父によると、
・この鉱山には、当時、多くの優秀な鉱山技術者が勤めていた。
・美都町の「葛篭(つづら)」という地区は鉱山町で(「鉱山宿舎」や小学校(分校)もあった程)多くの人々が暮らしていた。
との事でした。
※参考サイト:島根地質百選選定委員会による「山陰・島根ジオサイト 地質百選」
>>http://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/geosite.html
【用語:スカルン鉱床】

スカルン鉱床(すかるんこうしょう、skarn deposit)とは、熱水鉱床の一種である。石灰岩などの大規模な炭酸塩岩帯に花崗岩が貫入した際に伴う熱水により、交代作用が生じ形成される。形成温度が低いため、鉄や銅をはじめ亜鉛や鉛など工業用途として有用な金属を大量に含む鉱石が産することで知られる。
( フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


【画像は2009年04月撮影】

「人形岩眺望所」奇岩!人形岩を観賞するなら(益田市人形峠)

人形峠(益田市 飯浦町)のピークにある「駕籠立て(かごたて)」という展望ポイント。
西は、飯浦港、三生島、鈩崎、東は三里ヶ浜、遠く鎌手海岸、高島…
季節や時々の天候、日本海の様子…風景が様々に変化するで、いつも何か新しい発見がある場所です。


さて、人形峠東側の眼下の岩場の中に「人形岩」という「奇岩」があることをご存知でしょうか?

実は、この岩は「見る場所」があります。

人形道を「駕籠立て(かごたて)」から、戸田方向にしばらく下ると海側に「人形岩眺望所」という案内看板(画像付き)があります。

人形岩眺望所 案内看板


ここが「人形岩」のベストビューポイントです。


ここから撮影した「人形岩」の画像です。

人形岩 益田市人形峠 海岸



高さは海面から頭のてっぺんまでで7.8メートルとのことです。


本体が黒色、肩から腰にかけて白っぽい茶の着物を羽織っている…どことなく高貴な人物がくつろいでいる雰囲気…感じませんか?

と、気持ちが和らぐような表現になりましたが…

この日の撮影現場は、陽の光にこそ恵まれていましたが、日本海からの北風と荒波の濤声…自然の力に圧倒されていました。

人形峠 夫婦岩 益田市


人形峠「駕籠立て」から小浜方面に「人形岩眺望所」過ぎ、さらに小浜方面に下った所からの見える「夫婦岩」とその周辺の海の風景。(夫婦岩は私が付けた名前です。)
【画像は2014年02月19日に再撮影】

人形道碑から中島庄屋の功績を知る(益田市 人形峠)

益田市飯浦町の人形峠(じんぎょう峠)
その最高地点の「駕籠立(かごたて)」から戸田方向に少し下っていくと、こんな案内板がありました。
白いボード状の素材に手書きによる「人形道碑」です。
この人形道碑の内容を知る事でこの道が「単なる旧道」といった感覚は無くなりました。

人形道碑 益田市人形峠

人形道碑 (訳)東京作詞家 伊吹とおる


道はもと山の頂上にあって、非常に険しく、往来する人達にとっては、誠に難儀なことでありました。
庄屋、中島正喜は、その事を大変心配し、ひとつこれはなんとかしようと思い立ち、公の仕事として、人々を動員し、工事にかかりました。弘化三年(一八四六)冬から嘉永元年(一八四八)夏までかかって、道を現在地に移す工事を仕上げたのです。

今ではこの道を往来する人々は何の苦労もありません。以前の山道を知っていた人たちも、何かのはずみで、そのことを忘れてしまい、しかも中島庄屋を初めとする、力役に参加した人々の功績を知らないなど、まことに残念なことであります。

そこで、碑にそのことを刻み、残したいと思います。

山を切り開いて、道を移したというその効果、現在、人々が何の苦労も知らず往来できるという現実として現われていることは、仁(いつくしみ)というものは、剣よりも鋭く強いものであるということを知るべきだと思います。

中島庄屋とその労務に参加し労働を提供した人々の功績は忘れてはならないものであります。
良く心の中の眼のくらみをはらって、もう一度その功績というものをみつめようではありませんか。

明治十五年一月立碑 飯塚正おり書


重機など当然無い時代…しかもこの場所(現場)。…さぞや難工事だったでしょう。
「人形道」は片側は、覗いてみると真下に海と岩場…ほぼ垂直の険しい断崖です。

人形道からの海


「道はもと山の頂上にあって、非常に険しく、往来する人達にとっては、誠に難儀なことでありました。」
どれほど「難儀」か、具体的にその位置的なものを確認してみましょう。

人形道と山頂

現在の人形道の「駕籠立(かごたて)」付近が赤矢印、「道はもと山の頂上にあって」という頂上付近が青矢印
当初は今の約3倍の高さを登る必要があったようです。
現在は、この山を「人形トンネル(国道191号線)」が開通しているのでさらに便利になっています。
「人形道」は既に「旧道」…「駕籠立(かごたて)」等の「景観スポットへの道」というのが主な役割でしょう・・・しかし、この人形道碑の内容を知れば、遠い昔、この道を往来したであろう多くの人々の「感謝の声」が聞こえてくるような気がするのです。
【画像は2008年12月撮影】