益田市の歴史・風景体験レビュー

益田市(島根県の西部)の資史料をもとに益田市の歴史・風景の魅力と課題をフィールドワークで体験レビュー。
 

扇原関門跡で感じた岸静江国治の魂(益田市 多田町)

今回は益田市指定文化財 扇原関門跡(おうぎはらかんもんあと)、
場所は「岸静江国治の墓」(益田市指定文化財)から山道を歩いて約10分。薄暗い林の中の上り坂(途中から未舗装)進むと「扇原関門跡」が見えてきます。

扇原関門跡 遠景 益田市多田


逆光で最初は一瞬「人影」かと思いました。
近寄ると、それは石碑でした…「岸静江 戦死之地(岸静江が戦死した場所)」と記されていました。

岸静江 戦死之地


そばに「扇原関門跡」に関する案内看板がありました。

扇原関門跡 案内


益田市指定文化財
扇原関門跡

 元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
 慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。

   圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。

益田市
益田市教育委員会


「圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ…」岸静江国治の伝説的な壮絶な最期の姿です。


扇原関門跡が「跡」と呼ばれる痕跡。
扇原関門跡 石垣石碑「岸静江 戦士之地」の後方からもと来た道に沿って、このような石積み、石垣あります。
何らかの関所、防御陣(建物)があったようです。













さらに旧街道方向に歩いていくと「浜田藩」と「津和野藩」の藩境を示す2本の石柱がありました。

浜田藩


「從是北濱田領」…これより北は浜田藩の領地

津和野藩


「00南津和野領」…(解読不能)南は津和野藩の領地
旧街道をはさんで配置されている2本の石柱…ここが「石州口の戦い」の口火となった場所。当時の緊張感を一瞬感じました。
【画像は2009年11月撮影】

MAP・場所:益田市指定文化財 扇原関門跡


「石州口の戦い」岸静江国治を偲ぶ(益田市 多田町)

益田市多田町の扇原関門(おうぎはらかんもん)遺跡、「石州口の戦い」があった場所です。

扇原関門に通じる山道の入り口付近、舗装道路の反対側に「お墓」があります。


岸静江国治という人物のお墓(益田市指定文化財)です。
まずは、「岸静江国治のお墓」に纏わるお話し。

「岸静江国治の墓」案内


益田市指定文化財(昭和46年6月21日)
岸静江国治の墓

 慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。
 昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

昭和五十二年四月
益田市
益田市教育委員会

※国治はまず部下と農民を退去せしめ唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け…凄い人物ですね…勝ち目のない玉砕必至の戦いならば「いらぬ犠牲者を出したくない」という「長」としての考え方。

「現在の長たるモノ達に 爪の垢でも…」といいたいところですが…正直、私もこんな決断ができるか…自信は殆どありません。


 この岸静江国治という人物…石見人にも凄い男がいたものだ!と一瞬感動したのですが、後で調べてみると、上野国(こうずけのくに)…現在でいえば「群馬県の館林(たてばやし)」の出身とのことでした。


現在の「岸静江国治の墓」とその周辺の様子

岸静江国治の墓 周囲 益田市多田町


私が二十数年前に初めてこの場所に来た時は、周辺に木が繁り、昼間でも薄暗くとても静かだったと記憶しています。今では、こんな立派な道路ができています。

岸静江国治の墓と道路


【画像は2009年10月撮影】

MAP・場所・航空写真:岸静江国治の墓



【追記】
30数年位前には市内に「NHK大河ドラマ『花神』の舞台…」といった雰囲気の大きな看板がありました。益田市の中高年の方なら覚えている人は多いはず。

益田越中守兼堯(益田兼堯)の銅像の視線(益田市七尾町)

今回は「益田兼堯(ますだ かねたか)」の話題。

益田市で益田兼堯といえば、すぐに頭に浮かぶものの一つに「雪舟筆の益田兼堯像」があります。有名ですよね。
雪舟筆 益田兼堯像」は益田市の「市立 雪舟の郷記念館」に収蔵されています。

実は私、未だ鑑賞できていません。
「益田兼堯像」くらい、常時見せてくれてもいいのに…と愚痴のような事を言っていたら、
ある人が「益田兼堯の銅像ならいつでも見れるぞ!」と教えてくれました。

益田兼堯の銅像 アップ 益田市 七尾町


場所は益田市七尾町の妙義寺の(道をはさんで)正面におられました。

益田兼堯の銅像 益田市 七尾町


この益田兼堯像…何処を見つめ何を思っておられるのでしょうか?

正面から見ると台座には益田越中守兼堯公像と記されています。

益田兼堯の銅像 正面


越中守」とはどのような意味を示すのでしょうか?…役職名の類でしょうか…結構調べたんですが未だにスッキリ解明できていません。

また、この像の横には、益田兼堯に関する益田市観光協会による説明文があります。

益田兼堯 説明


内容については改めてページを作る予定です。
今回は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用です。

益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年(1485年))。は、室町時代後期の人物。石見の国人領主益田氏当主で第15代益田城城主。益田兼理の子。益田常兼の弟。益田貞兼、女子(陶弘護妻)の父。越中守

益田兼堯 銅像 遠景永享3年(1431年)、父と兄が大内盛見に従い九州の少弐氏、大友氏と戦い、盛見と共に戦死したため家督を継いだ。以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず幕府とも直接、誼を通じ、それぞれの戦いで着実に戦功を積み勢力を拡大させた。応仁の乱の際は大内氏に従い西軍に属し、文明2年(1470年) 大内教幸(道頓)の反乱の際には、女婿の弘護を支援し石見の有力国人の吉見信頼らを制圧した。その一方で、東軍の細川氏とも通じていたとされる。晩年は子の貞兼に家督を譲って隠居した。

雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像は国の重要文化財に指定されている。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用】

この内容だけからも、「益田兼堯」にはいろいろ興味が湧くものがあります。

比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』

鉱山の神様を祭る神社「佐毘売山神社」


益田市美都町の都茂鉱山。そして鉱山の神様・守り神である金山彦命を祭る神社「佐毘売山神社」。

「佐毘売山神社」は益田市の比礼振山(権現山ともいいます、標高358.6m)の麓(ふもと)にあります。

益田市の佐毘売山神社(今年2009年の正月に撮影)

(2009年1月1日に撮影)
比礼振山(権現山…ごんげんさん)の山頂には蔵王権現もあります。(昨年2008年年末ごろ撮影)

比礼振山山頂の蔵王権現(昨年2008年年末ごろ撮影)


益田市の民話『大蛇のあと』


今回の「比礼振山(権現山)と都茂鉱山 益田市の民話『大蛇のあと』」から分かったことですが。
どうやら比礼振山(権現山)付近には都茂鉱山で採掘された「鉱石」を運搬する道路があったようです。

「比礼振山(権現山)」と「都茂鉱山」の2つのキーワードが「大蛇のあと」という益田市地元の民話の中で語られている事を発見しました。

「大蛇のあと」

 むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から鉱石を馬で運ぶ往かん還(還は「道」では?)じゃった。

 ある日、益田で用事を済ませた人が、権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな岩の上で一休みしんさった。その時、長さは十二尺(約三、六メートル)、直径は一尺(約三十センチ)ぐらいの大蛇が出てきた。そのあまりの大きさに身震いがして動きがとれんようになった。蛇は煙草が嫌いなのを思い出して、そっと煙草に火をつけ吸いはじめた。そうしよったら大蛇が向きを変えて逃げ去ったというんじゃあ。


 わしも若いころ、わらびを取りに行って、大蛇が這うたように草がなびいているのを見てたまげたことがある。


語り手 城市良吉(乙子)    
「益田の民話(ますだのみんわ)」(益田の文化を育てる会)より引用
>>http://www.group.iwami.or.jp/bfn/masudanominwa/index.htm

ここで、「むかしの乙子の権現さんの道は、都茂鉱山から「鉱石」を馬で運ぶ「道(還は道であろう)」…に関して疑問が湧きます。

(益田市美都町には)銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡(おおとしのもといせき)』があったはずで、「銅」の精錬技術は保有していたはずです。…地元(の精錬所)ではなく、一体どこの精錬所に運んでいたのでしょうか?


因みに銅精錬所跡となる『大年ノ元遺跡』に関しては、島根県埋蔵文化財調査センター編集部による「ドキ土器まいぶん」No.18 2002年7月発行にわかりやすい記事がありました。


発見!銅の精錬工房?

 美都町は古代から銅山開発によって繁栄したと伝えられています。美都町山本地区にある大年ノ元遺跡では、中世の掘立柱建物跡や中世期には珍しい竪穴状の建物跡が4棟見つかりました。

 竪穴状の建物跡の内部や周辺から焼土(地面が焼けた跡)や銅鉱石を溶かすための器(坩堝)片や銅の精錬工程において生じるからみ(不純物の塊)、白磁(中国製の磁器)片、土師質土器片などが見つかりました。これらの建物跡は15世紀頃(室町時代)の銅の精錬工房跡、または銅精錬に何らかの関わりにある施設と思われます。

 遺跡は、9世紀に書かれた「続日本後記」に記載されている丸山銅山から北約5km のところにあります。 この周辺は当時、中世益田氏の支配下にあり、江戸時代には幕府の直轄領でもありました。銅山の歴史、銅の精錬技術などを知る重要な手がかりになりそうです

「ドキ土器まいぶん No.18 2002年7月発行 編集・発行 島根県埋蔵文化財調査センター編集部」より引用



想像を膨らませると…もしかしたら「銀」鉱石があったのかもしれませんね!?(当時は「銀」の製錬技術はなかったはずですし)…


(この益田市の民話「大蛇のあと」がいつごろの話なのかは不明なので想像はこの辺で…)


「権現さんの道に通りかかると眠むとうなったので、大けな「岩」の上で…」
この「巨岩」は何処の岩の事なのか…存在が気になりますネ

益田市の佐毘賣山神社と世界遺産「石見銀山」との関係

益田市乙子の佐毘賣山神社

佐毘賣山神社(佐毘売山神社)(益田市乙子町)」は市街地の東側にある比礼振山(標高358.6m)の麓(ふもと)にあります。(比礼振山は「権現山」ともよばれています。)

佐毘売山神社 前 益田市


佐毘賣山神社(佐毘売山神社)の本来の参道「古い石段」上から撮影。

佐毘売山神社 参道石段 益田市


実は、私、この石段がお気に入りです。(この石段から、「佐毘売山神社」を見上げると、なんだかタイムスリップした様な感覚になるからです。)


「佐毘売山神社」と世界遺産「石見銀山」との関係

さて、今回のテーマ「佐毘売山神社」と世界遺産「石見銀山」との関係について、
「佐毘売山神社由緒」という説明板内に記載がありました。

佐毘売山神社由緒 全


文章が長く(横に長いので)①前半部と②後半部の2つの画像に分けてました。
①前半部

佐毘売山神社由緒 前半


②後半部

佐毘売山神社由緒 後半


②の後半、赤いラインの部分に

「康暦2年(1380年)には迩摩郡大森銀山へ守護神として、金山彦命を当社より御幣を別けて遷し祭るなり。」
と記されています。

実は「佐毘売山神社」から迩摩郡大森銀山へ分霊されたことについては奥田元宋・小由女美術館(広島県三次市)の村上勇館長(益田市ご出身)によると、以下のような意味もあるそうです。

「祭神の移動は祭っていた技術者の動きを示す。石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山の開発があり、人と技術が大森にもたらされ銀が採掘された。」

※詳しくは「山陰中央新報 ONLINE NEWS 『特集・石見銀山 : 石見銀山の営み(4)地の恵み 都茂銅山の技術者採掘か~佐毘売山神社を分霊 益田から祭神と移動~(2008年6月22日) 」をご参照ください。


(大森の)鉱山開発のために都茂銅山の人材(鉱山技術者)とそのノウハウと金山彦命…鉱山の神様がセット移動(異動)したとうこと。美都町の丸山銅山での人と技術が大森(石見銀山)にもたらされ銀が採掘されたと考えられます。

美都町の「都茂銅山」は世界遺産「石見銀山」開発と歴史的な繋がりがあったわけです。益田市の「佐毘売山神社」にて貴重な情報を得る事が出来ました。


【佐毘売山神社について】
『フリー百科事典『ウィキペディア』に益田市の「佐毘売山神社」の掲載がありました。

佐毘売山神社
佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)は、島根県益田市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。石見銀山(大田市)にある佐毘売山神社は当社の分社である。
【祭神 】
金山彦命・金山姫命を主祭神とし、埴山姫命・大山祇命・木花咲耶姫命を相殿に、闇靇神・廣國押武金日天皇(安閑天皇)を別殿に祀る。

【歴史 】
創建の由緒は不詳である。当初は比礼振山(佐毘売山)の山頂に鎮座し、金山姫・埴山姫・木花咲耶姫の三柱の女神を祀り「姫山神社」と称していた。「佐毘売山」は姫山に接頭語「さ」がついたものである。寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・金山彦命を勧請し、さらに山の神・大山祇命も祀って「五社大権現」とも称した。延喜式神名帳に「石見国美濃郡 佐毘賣山神社」と記載され、小社に列している。
貞治4年(1365年)、一帯に旱魃が起こり、比礼振山で雨乞いをしたところ雨が降ったことから、大和国吉野山から水の神・闇靇神と蔵王権現を合祀し、以降は「蔵王大権現」とも称されるようになった。
(以下略)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用


【画像は2009年04月撮影】

MAP(航空写真)・場所:佐毘賣山神社


丸山銅山跡と旧安養寺跡、山烏行淵と坂ノ上寔護(益田市 美都町)

前回、益田市美都町の丸山銅山跡で「旧安養寺跡」の様子をお伝えしました。
下の画像をみてもお分かりのように、まるでジャングルの中の古代文明の遺跡のようです。

旧安養寺 遺跡 益田市美都町


丸山銅山が「発見」されたのは平安時代の881年。
日本三代実録』元慶五年(881)三月七日乙卯条に記述されているということでした。


では、一体
①丸山銅山は誰が最初に「発見」したのか?
②旧安養寺が建てられた経緯は?
…そんな素朴な疑問を持っていました。
丸山銅山、旧安養寺に関する2つの疑問の答えは意外にも『益田市誌(昭和50年12月20日発行)』で見つかりました。


益田市誌 上巻の319ページ
第四章 平安時代 
第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
より
「一 都茂丸山銅山の発見」に丸山銅山の発見と旧安養寺が建てられた経緯の記述がありました。

①丸山銅山は誰が最初に発見したのか?についてですが、この益田市誌によると、

旧記から考えてみると、この銅山の最初の発見者は、隋の煬帝(ようだい)の末裔、散位永岑の弟に当たる山烏行淵であった。彼は僧空海の弟子で、諸国遍歴の途上に石見を行脚し、丸山の地に銅鉱を発見したのである。これを兄永岑を通じ、朝廷に奏上した。
そして真髪部安雄が石見に赴く際、行淵は鉱務を掌るよう命じられた。
(益田市誌 上巻 319~320ページ)

山烏行淵という人物が発見者のようです。
この山烏行淵という人物、隋の煬帝の末裔…空海の弟子…なんか凄そうな感じが。
一体、当時、こんな山奥で、どのような手法(ノウハウ)をもって鉱山を発見できたのか…不思議ですよネ。


②旧安養寺が建てられた経緯について
旧安養寺については『益田市誌 上巻』320ページに、ズバリ!「安養寺の移転」で記述されていました。
もともとは、益田市の遠田地区(上遠田)にあったようです。

『益田市誌』の上巻の320~321ページによると

安養寺の移転
丸山に移住した寔護は、郷里の菩提寺である安養寺が、遠くて参詣に不便であること、また同寺を繁栄させたいとの理由から、元慶元年(877年)山烏行淵に託して、同寺を上遠田から丸山へ移した。

当初は正福寺と寺名を改め、真言宗の末寺となった。そして行淵を住僧とし、寔護自身は大檀那となって保護を加えた。そこで行淵は鉱務を子の尚峯に譲り、寺の興隆に努めさせた。

正福寺は後年、元の安養寺に改められた。(中略)今日上遠田にある安養寺の地名を残すところがその址である。丸山大金に移転後の安養寺は、行淵の後、朝旨を受けて鉱務を掌った山烏尚峯が、住僧として後を継いだ。

益田市誌(昭和50年12月20日発行)上巻
第四章 平安時代 第二節 坂ノ上寔護と都茂丸山銅山
二 坂ノ上寔護の丸山赴任 安養寺の移転より引用

【画像は2009年05月撮影】

MAP・場所:丸山銅山跡(旧安養寺跡)